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2023年8月20日『燃え上がる緑の木』と、魂に触れること

やま さん

こんにちは。ご無沙汰しています。
8月、暑いですね。街を歩くと、蝉の声が聞こえてきます。かんかんに降りそそぐ日の光。木にしがみつく蝉たち。自分の存在を僕に強調するかのように、しきりに、鳴く声が聞こえています。
年々温度が上がっているこの夏のことを、あまり好きではない人は多いでしょう。僕は夏に生まれた人間なので、いまでも、夏のことは嫌いになれないでいます。黒いアスファルトに照りつける日差しも、街のあちこちで緑色の生命を放つ木々も、湿気の強い紺色の夜に浮かぶ月を眺めながら過ごす眠れない夜も、僕は今まで通り、好きです。

夏になるとこちらも忙しくなりました。お盆と、夏休みで訪れる人が多くなりました。僕はほぼ毎日、あたらしい人を迎えいれ、彼らのほてった体を冷房で冷やし、彼らの冷えた心を言葉で温めています。

そのなかで、僕は大江健三郎さんの『燃え上がる緑の木』を思い出していました。今年の6月ごろにまとめて読んだ本です。

毎日、人々に出会い、言葉を交わす。その中で、ふと僕はどれくらい彼らの人生の中に、自分をあるいは言葉を投じることができたのだろうか、と思います。
人は出会いの中に、おそらく、救われる思いを求めています。魂の救済というと言葉は大げさですが、単なる共感という言葉を超えて、これまで言葉にできなかったことが出会いの中で結晶化される瞬間を望んでいます。言おうか迷うこと。そういうことが共有できるような瞬間を作りたい。
その日の仕事を全て終えて床につく前の散歩のとき、誰かと話す中で、他の人にそれを与えることができたら、今日には多少なりとも意義があったと思うことができます。

人を救う。それは絶望から希望へと転換することだけではなく、ほんの少しだけ、魂を持ち上げてやること。そのためにできることは、人々の声に耳を傾けること。そして、言葉を作り上げること。僕が『燃え上がる緑の木』を好きなのは、神の存在を借りずにして、人々の魂を救済することがテーマであるからでしょう。言い換えると、人間が人間を救うことはできるのか?ということです。
結局のところ、人は人にしか、救済を求めることができないのかと思います。そのためにできることは、耳を傾けること、それから、言葉を返すこと。

言葉をかえすとは、ある種の賭けのような気がしています。僕は誰かの言葉を真剣に聞いて「それはこう言うことですか?」という反応を返すときに、恐れに近い感情を抱きます。間違っているかもしれない、見当違いかもしれない。その言葉を投じることの責任感を度々感じるのです。

『燃え上がる緑の木』のなかで印象に残っているシーンがあります。人々に語りかけ救済を行おうとする「ギー兄さん」が、臓器の病気をわずらわっている子供を交えて話すシーン。
「ギー兄さん」は「自分の命よりも、他者の命の方が大切だ」と言う。けれども、その子供は「だったら、臓器提供の意思を示して、病院の前で、自分の頭部を車の前に投じてくれ」と言う。そうすれば、臓器を提供できるから……
これは、倫理的な問いかけです。僕はこの時に大切なのは、絶望している相手に対しても、言葉を投げかけることだと思います。そして、この描写では、投げかけに失敗してしまった。おそらく、「ギー兄さん」の言葉が適切でなかったのでしょうか。この出来事ののち、「ギー兄さん」は松山の森の中の宗教家として、人々に語りかけ、その語りかける言葉を柔らかく、豊かなものにしていきます。
『燃え上がる緑の木』では語る言葉が重要なのです。そしてそれは、おそらく、物語を超えて、現実の世界でも同じ。僕は宗教家ではありませんが、僕たちが生きる出会いの中には、人の魂に触れる瞬間があるのだと信じて今日も人と向かい合いたいです。


フォッファーも坂口恭平も「自己」がテーマだったので、今回は「他者」をテーマに大江さんの本について書きました。
まだまだ暑いですがそろそろ秋の気配が近づいているような気がします。季節の変化に負けずに、執筆する手は止めないでいたいものです。

T.K.より



やま さんの返信

前回のT.K.

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