情動による結果がもたらす芸術表現の本質とその可能性
先日、あることがきっかけでブチ切れたことがあり衝動的に壁を殴り、破壊してしまった。
自分でも我に返った時にびっくりした。
なんでこんなことをしてましったのだろうかと自分の行動に悔いてしまうことがあった。
でもだんだん冷静になってくるとそれはある種の芸術表現としてすごく貴重な機会に恵まれたと解釈することもできた。
なにを言ってんだとおもうだろうが聞いてほしい。
つまりは情動による結果こそ、その人自身の真意の表れであり、真の意味での芸術表現なのだと思った。
普段われわれは感情をむき出しにして生活することはまずないだろう。
そんなことをしていたら会社や家庭でかなり引かれた目で見られるだけでなく、きっと嫌われるだろう。
普段から我々は感情を押し殺し、うちうちに閉じ込めてルーチンをこなす。
はじめはつらいことも徐々に慣れてしまうとまるでロボットのように何も考えず動きまわる。
弥生時代以降の自発的隷従思想は今も息づいている。
太古より日本人は数多の自然災害に見舞われその度に自分たちではどうすることできないということをまざまざと見せつけられてしまった。
「仕方ない」という言葉は英訳できないんだそうだ。
日本人はなにかといっては仕方ないという魔法の言葉でいろんなことを諦めてしまっている。
本当はこう思うのに、感情は押し殺して、押し殺して、なかったことにして次に進もうとするのだ。何も解決していないのにも関わらず。
でもその湧き出る感情をどんなフィールドでも構わないからぶつけたときに初めて、それは意味のあるものに変わる。
それは実に個人的な感情であり、自己満足だと言われてしまうかもしれないが、そんなことはない。
そのエネルギーは必ずなにかを変える力になると思う。
壁を破壊したことは私にとって良くも悪くも心に傷がついてしまったが、こうした情動による結果が今書いてる文章になってること。
表現のひとつになっていることをプラスに捉えて明日も生きようと思った。
ちなみに、壊れた壁はうえから壁紙を貼りつけて処置をしました。
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