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潤一郎はユゴーより数段上(※西欧は「豆腐メンタル」2)


「時代」を描こうというのが、小説の第一の動機であるという創作態度に共感しない。

「時代」と、その中に囚われた人間を描きたいという動機には、もっと共感しない。

小説とは、文章の芸術なのだから、美しい文章を書きたいという動機こそ、第一であるべきだ。
 
例えば、谷崎潤一郎の小説に『春琴抄』というのがある。(※その文章について、三島由紀夫は「たえざる錬磨のはてにあらわれる氏の文体は、しかし、いつも女体のように、まるい文体であった」と評しているが、それはまた別の議論になるので、ここでは展開させない)

時間軸で言えば、約80年の人間の一生を描いたものであるが、大変に大変に短く、書かれている。

時代背景は、江戸の終わりから、明治の終わりころまでの設定となっているのだが、潤一郎はいっさい、「時代」を描こうとはしていない。この小説が発表されたのが1933年だが、その年にドイツではヒトラーの第一次政権が発足している。アメリカではニューディール政策が始まり、日本は松岡某が国際連盟を脱退している。そして、三陸沖では3.11のような大地震が起こって、たしか数千人が死んでいる。

もし、『春琴抄』をヴィクトル・ユゴーが書いたとしたら、江戸がなんちゃら、明治がなんちゃら、明治維新がなんちゃら、東洋と西洋がなんちゃら、そして今の時代がどうちゃらこうちゃらといった…長い長い長い長い解説を延々と書き連ねて、潤一郎の百倍のボリュームをもってしたためたに違いない。

しかし、結果はどうなのだろうか。

ジャン・バルジャンは、聖書のイエス・キリストをモデルに描かれている。しかし、私には、ジャン・バルジャンよりも、佐助の方が、キリストっぽく見える。明治元年のちょうど前年くらいに、佐助の、自らの目を針で突いてまでして自分の愛する人、仕える主人に献身しようとしたその姿の方が、なぜか、フランス革命を生き延びたジャンバルジャンの姿よりも、キリストっぽく見える。
 
偶然そうなってしまったにすぎないけれども、もし本当に偶然ならば、なおさらである。

潤一郎はユゴーよりも数段上の才能があった作家だと言って、さしつかえないだろう。
 

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