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わたしは主である ②

2.「文句なしの」信仰



―― わたしは主である ――

実を言うと、

近所の「団塊の世代」の夫婦の言葉を耳にしたり、冒頭の『それから』の一節を読んだりしなくても、

この世の中をただただ「普通に」生きて来た中で、

私はこの旧約聖書の出エジプト記などで散見される、「主なる神のことば」をば、幾度となく思い起こして来た。

それゆえに、

私はここで漱石のようなルサンチマンチックな語調をもってしてではなく、もっとずっと苛烈で過激で辛辣な文章をもって、「わたしの神」の「教育虐待」ぶりや「ブラック企業」ぶりやについて、批判してみたいと思っている。

もしも、

そういう神への批判が、いかなるものであっても許すまじき「罪」だと思うのならば、そのような人々はどうぞ直ちにブラウザバックされて、二度とこんなページを訪わない方が良いでしょう。

しかししかし、

ここであえてブラック企業的な言い方を借りるならば、そういう人々が「まったく使えない」からこそ、子羊のようにおとなしい私なんかが駆りだされては、こんな文章をば書かされるハメになっているのである。

すなわち、「主よ、主よ」と口先ではのたまいながらも、その実、天の父の御心を行わない、マトハズレなキリスト教会や、トンチンカンなクリスチャンどもが、おおよそ「ハシにもボウにもかからないロクデナシ」どもだからこそ、神の悪口を百曼荼羅並べ立ててなお言い足りないような私なんかにまで、「オハチが回って来る」のである。ハタメーワクとは、まさにこういう事を言うのである。


たとえば、こうである。

―― わたしは主である ――

とは、さっきも述べたとおり、出エジプト記やレビ記や民数記なんかによく見出される、神が自らについて表現したときの言葉である。

つまりは、旧約聖書でももっとも壮大な物語としての「出エジプト」と、その後の「荒野の旅」において、神が幾度となくくり返した言葉が、「わたしは主である」なのである。

いったいどういう意味だろうか?

特段、複雑な話ではない。

『人はパンのみにて生くるにあらず』という文章でも書いたことだが、モーセをリーダーとした、男だけで約六十万人ものユダヤ民族の大集団による「荒野の旅」とは、ひとえに、神から課せられた「訓練」であった。

その訓練の内容とは、「人はパンだけで生きるのではない、神の口から出るひとつひとつの言葉による」という真理をば、ひとりひとりの人間に「体で覚えさせる」ことだった。

その「神の口から出るひとつひとつの言葉」の象徴にして、要約たるひと言こそが、すなわち、「わたしは主である」なのである。

そして、

その意味を論ずるならば、とりもなおさず、わたしは神であり、「主」であるのだから、わたしの言うことも、わたしの命令も、絶対である――という意味にほかならない。

とどのつまりは、人一人の半生の長さにもなる四十年にも及んだ「荒野の旅」とは、ありていに言ってしまえば、男だけで六十万人ものユダヤ民族のひとりひとりが、その身をもって、「わたしは主である」を体現できるかどうか――そんな訓練だったわけである。


で、たったこれだけの文章にしても、私は私以外の人間の書いたものの中で、ついぞ読んだためしがない。

ことに自称キリスト教会とか、自称クリスチャンとかいう、昼夜アーメンをやっている連中の唇のすき間から、似たような言葉が紡ぎ出される様子に邂逅したことも、ただの一度もない。

それでは、こんなことを言って、私は私の推薦をしたいのだろうか?

もしもそうだとしたならば、このように note に書きこむよりも、もっと効率的かつ効果的な方法を選ぶことだろう――そのくらいのノウハウは、私なんかにも無くはないから。

それゆえに、百歩譲って、私が上で述べたようなことぐらい、この世の教会の牧師様や神父様やがすでに、とうの昔にお書きになっている事柄であったとしても、これから私が書くこととは、彼らのそれとはまったく異質のものになると、私の中に住む聖霊によって断言したっていい。

―― わたしは主である ――

主なる神は、種々の場面にあって、二言目にはこのように確言しているが、

そう言い切ることで、神は神に対する「文句なし」の服従、恭順、主従関係の是認を、人間に向かって言い迫っているのである。

これを信仰と呼んでもいい。

だから、信仰とは、神と人との間の「文句なしの主従関係」のことだと言えるのである。

さながら、百年以上前の明治の時代に、漱石がその父から「文句なしの親子の恩愛」を迫られて、

七十年以上前の昭和の時代に、私の祖父母の世代が「文句なしの愛国心」をお国から迫られて、

この平成と令和の時代に、私や私の友人やが「文句なしの親子の恩愛」のみならず、「文句なしの愛社精神」や、「文句なしの平和を愛する世界市民精神への迎合」や、「文句なしの……」――を迫られたように。

それゆえに、

ここであえて、はっきりとはっきりと言っておくが、

「わたしの神」とは、はなはだ「バカ」な存在なのである。

「わたしの神」であるところの、イエス・キリストも、イエスを死者の中から復活させた父なる神も、キリストの名によって父なる神から遣わされた聖霊も――

どいつもこいつも、おしなべて、「オオバカヤロウ様」なのである。

――それゆえに、私の言っていることとは、その辺にころがっているような教会で働く牧師様や神父様やその取り巻きのクリスチャン様たちなんかとは、決定的に「異質」だと言っておいたのである。

なぜとならば、彼らは天地の創造主であり、この世のすべての人間の救い主たる「イエス様」にむかって、このように「オオバカヤロウ」などと、はっきりと公言できる種類の人間ではないのだから。


しかし、どうしてどうして、

私は私以外にも、神にむかって「愚かだ」と言い得た人間を知っている。それも敬虔なるクリスチャン様たちが命のようにご大切にされている、「聖書」の中にあってこそ知っている。

たとえば、

―― 罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う ――

―― それでいいのでしょうか。あなたも肉の目を持ち、人間と同じ見方をなさるのですか。人間同様に一生を送り、男の一生に似た歳月を送られるのですか ――

―― それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らせていることを ――

などと言ったヨブ。

このようなヨブの、口を極めた「文句」や「不平不満」や「抗議」や「非難」やに比べたら、私の「オオバカヤロウ様」など、どれほど「可愛らしい悪口」にすぎないものか。

さらには、

―― そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです ――

―― 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです ――

と言ったパウロ。

ここでパウロなるキリストの使徒は、まことに彼らしい回りくどい言い方でもって、神を「賢くて強い存在だ」と言わんとしているのだが、

その「賢さ」にしても「強さ」にしても、「人にとっては愚かであり、かつ弱いのだ」ということを、はっきりと述べているのである。

だからこそ、この私も言っているのである――イエス・キリストも父なる神も、「オオバカヤロウ様」である、と。

私はイエス・キリストに繋がった者として、「このように言えるから言っている」のであって、つまりは、私の「オオバカヤロウ様」とは、とりもなおさず信仰のなせる所為なのである。

換言すれば、信仰の無い者こそが、神に向かって「非道だ」とも「愚かだ」とも言えないのである。――そう言えるだけの「主従関係に限定されない関係」を、神との間に築いてもいなければ、この地上を生きるに当たって、神が「非道だ」とも「愚かだ」ともついぞ思ったためしもない、オメデタキ人種なのだから。


少なくとも私は、「しょせんそんな程度の信仰をしたオメデタキ人種」なんかでは、けっしてない。

たとえば百年以上前に、とりわけて愛すべき先輩・夏目漱石が、その父親の信じた「文句なしの親子の恩愛」を「バカだ」と批判したように、

たとえば敗戦後に、とりわけて愛すべきでもない先輩・団塊の世代の人間たちが、その父祖たちの信じた「文句なしの愛国心」を「バカだ」と非難したように、

たとえばこの時代にあって、私の友人や私やが、すこしも愛すべきでもない団塊の世代の先輩たちの作りあげた「ブラック企業」や「戦後レジーム」やを、ことごとく「バカだ」とあげつらっているように、

かつて三千年以上前の昔に、モーセをリーダーとしたユダヤ民族の大群衆に向かって「文句なしの信仰」を求めた、「わたしは主である」という言葉なんかにあいまみえるたびに、

私は「わたしの神」を「バカ」だ、「オオバカヤロウ様」だと言って、大々的に批判して来た。

――本である聖書を読む時以上に、自分の人生という「聖書」を読まされる時にこそ…!

なぜとならば、

「文句なしの親子関係」を迫られた結果、漱石は胃潰瘍を患い、神経衰弱にさえ陥った――

「文句なしの愛国心」を迫られた結果、多くの先祖たちがその若い命を戦場にあって散らさなければならなかった――

「文句なしの労働」を迫られた結果、私の友人は若くして癌のような死病に冒されなければならなかった――

信仰であれ、訓練であれ、なんであれ、強者が弱者に対して「文句なしの服従」を迫るならば、中には追い詰められたあげくのはてに、往々にして命を落とす者まで出て来るのである。

もしも、

もしもそんなことすら分からないで、まるで生きるに値しない荒野の真ん中で、「わたしは主である」をやっていたとするならば、

聖書の中の神など、全知全能であるどころか、バカもバカ、正真正銘のおバカ様である。

そんな人間の「もろさ」や「弱さ」やについて無知かつ無情なまま、

とうてい生きるに値しないような過酷をきわめた荒野のど真ん中の、シナイ山の頂にあって、

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ、

などいう戒めを与えたのであれば、

そんな「イスラエルの神」など、『それから』に描かれた「人の心の奥行きが分からない親爺」にすら見劣るような、純然たる「バカ神」にすぎずして、よってそんなものは信じてやる価値もないし、一脈の賛美も、感謝も、愛も、受けるべき存在たりえない――


さりながら、

こんな「暴言」を吐きながらでも、やろうと思えばできなくもない。

自分が信じている神が、本当に「バカ神」なのかどうか、自ら確かめてみようともせず、

あるいは、そんな疑問が浮かんで来ても、そんなものはただただ「罪」だの「悪」だの「誘惑」だのと思い込んで、

やろうというのならば、この私にだってやれなくもない――

すなわち、かつて荒野のど真ん中で「わたしは主である」という「文句なしの信仰」をば迫られて、その結果、命を落としてしまった人間がいるならば、それはひっきょう、「不信仰」という「レッドライン」を踏み越えてしまったからだ――と

そんなふうに、いかにも信仰者らしく「振る舞ってみせる」ことくらい…!

たとえば、

「いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」

――こんな聖書の文章の尻馬に乗って、アーメンすることくらい、私にだって簡単にできる。

尻馬に乗りながら、口八丁なお説教をとうとうと垂れ流し、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」だなどと門前の小僧さながらの聖句朗読を披露し、結びに「アーメン」と唱えて頭を垂れることくらい、私にだってやろうと思えば、息をするようにできるというものだ。

しかししかし、

以下のことは、「わたしは主である」という方から「書け」と言われるので書いているばかりであるが、

そういう「マトハズレな振る舞い」こそが、とりもなおさず「教会ごっこ」であり、「アーメンごっこ」なのである。

はっきりとはっきりと言っておく、

そんな程度の「行い」信仰が完成するくらいならば、なにもモーセをはじめとしたかつてのユダヤ人たちをして、四十年もの間、荒野の底を歩かされずとも済んだのだ。

まして、そんな程度の三流牧師や三流神父やによる、四流の聖書解説なんかでもって、「伝道」が務まるくらいならば、

そんな四流な、あまりに四流なアーメンに口を合わせて、ひざまずくことなんかが、「荒野の訓練」の目的であるというのならば、

かの二千年前の今日この頃、イエスが十字架でかかって死ぬこともなかったのである――!


それゆえに、私は書いているのだ。

「わたしは主である」という神によって、否応なく「荒野」を歩かされるがごとくに、書かされているのである。

巷にころがっているような教会に通いつめて、洗礼を受けて、毎週のように聖書を朗読し、礼拝し、讃美歌をうたい、奉仕活動にもいそしんで――

ああ、この地上における「対立と分裂」が、その程度の「ごっこ」で片づけられるような単純な問題にすぎぬのならば、

誰ひとりとして、漱石のように、血反吐を吐きくだすこともなかったし、私の友人のように、死病に冒されることもなかったのだ。…



つづく・・・

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