見出し画像

ソドムとゴモラ ⑤



――
また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。
陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。
――


それでは、どういうことになるのか?

あまりに有名な創世記の22章において、アブラハムは「神から試されて」、約束の子イサクを神に捧げよと命ぜられる。

そして、アブラハムが神に与えられた「信仰」によって、その言葉のとおりにイサクを祭壇の上で捧げようとしたその時に、その「行い」を認められ、イサクをその手に返されるのである。

――誰もが一度は聞いたことのあるようなこのエピソードをもって、アブラハムは今でも「信仰の父」だなどとのたまわれ、尊敬を受けているのである。


が、冒頭からなんどもくり返している通り、

この世のいかなる偉人賢人がアブラハムのこの「信仰と行い」について褒めたたえていようとも、私はけっして付和雷同したりしない。

はっきりとはっきりと言っておくが、

たとえ神御自身がアブラハムの「信仰と行い」を喜んでいようとも、

同じ「信仰」を与えられた私は、アブラハムを褒めないという「行い」によって、自分の「信仰」を示そう。

もう一度言うが、

私はアブラハムの信じた神と同じ神の「霊」である、同じ「信仰」を与えられている――

それでもなお、私はあくまでも自由意志を持った「わたし」であるがゆえに、同じ「信仰」によって、アブラハムなる人間を評価しないという「行い」を示すのである。

この世のニセモノの教会で「アーメンごっこ」にいそしんでいるようなクリスチャンごときには、私がここで言っている「信仰と行い」の真意が分からない。

しかしどうせ分からないのだから、すこしでも分かるように言っておくが、

私は私に与えられた「信仰」を誰の前で、誰に向かって、誰に訴えるべく示そうというのだろうか――?

「人」か? 「神」か?

死ぬまでくり返してもいいが、私は「人」ではなく、「神」にむかって訴えるのである。

これは、私がいま批判しているアブラハムにおいても、実は同様なのである。

アブラハムがイサクを捧げようとしたのは、ただただ「神」に対してであり、自分のためでもなく、前世もしくは後世のいかなる「人」のためでもない。

それゆえにそれゆえに、

神から与えられた「信仰」を、ただひたぶるに神にむかって示そうとした「行い」のゆえにこそ、

神はアブラハムの「信仰と行い」を喜んだのである。


人ではなく神に向かって訴える――この一点こそ、「信仰と行い」の要点である。

そして、イエス・キリストを知り、キリスト・イエスから知られるという奥義も、ここに隠されていると言ってもいい。 

だから私は、「わたし」の「信仰と行い」を神に向かってのみ表現しようとするのである。

たとえ神がアブラハムの「信仰と行い」を評価していようとも、私はアブラハムの「人となり」を評価できない――

「できない」ことを神に訴えること、これもまた立派な「信仰と行い」であるのだから。

はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

まるで詭弁のような私のこの訴えについて、それが立派な「信仰と行い」であるという確信を与えているのは、イエス・キリストの霊である。

それゆえに、誰も私からこの確信を奪うことはできないのである。


だから私は今日もなお、神に向かって訴える。

私は生まれた時から、周囲の人間とは違っていた。

私は生まれた時から、この世のニセモノの教会などに参画できるような、ダチョウのごとき愚者ではけっしてなかった。

それが「わたし」という人間であり、そんな「わたし」こそがイエス・キリストを知り、キリスト・イエスから知られたのである。

それがほかの誰のものでもない、「わたしの人生」なのである。

だから私は、アブラハムの生きたような人生を生きるつもりはさらさらなく、彼のような薄情者が辿った道を辿りなおすつもりもいっさいない。

悪いが、アブラハム本人に対して何か言わなければならないとしたら、モーツァルトの名曲にちなんで「Leck mich im Arsch(俺の尻をなめろ)」くらいである。

ついでに言えば、アブラハムという死者をもって信仰の父だのと祀り上げている手合いどもには、そんな言葉すらもったいない。

「死んだ獅子よりも生きている犬の方がまし」という言葉のとおりで、死んだアブラハムなんかにいったいなにができようか。


しかし私は、アブラハム個人が憎いがために、こんな「悪口」を言っているのではけっしてない。

なんどでも言うが、私がアブラハムの「悪口」を言い続けるとしたら、それは「アブラハムの神」にむかってこそ、そう言っているのである。

アブラハムは死んでも、神は生きているのだから。

私は「アブラハムの神」に向かって、アブラハムがバカであったように、お前も同じようなバカなのかと、問うているだけである。

はっきりと言っておくが、バカならばバカで結構である。

がしかし、「アブラハムの神」であるというばかりの理由で、自動的に、必然的に、確定的に「わたしの神」でもあるだなどとのたまってもらうほどのバカであっては、困るのである。

そんなバカさ加減で、人間の「自由意志」をナメてもらっては困るのである。

私には、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉の真意が分からないとでも思っているのか。

もしもお前が「わたしの神」であるのならば、「わたし」に対してもアブラハムにしたように振る舞ってみせたらいいというものだ――それができないで、いったいなにが「わたしの神」であろうか?

もう一度言うが、

アブラハムにしたように「わたし」にもしないうちから、なにが「わたしの神」であるというのか? 

なにが「わたしは全能の主である」で、なにが「わたしの言葉に聞き従え」だというのか?

私はこういう「わたしのわたしらしい心情」について、神がなんという「回答」をするのか、ただただそれだけが、いつもいつでもいつまでも、大変に大変に興味があるのである。

なぜとならば、「論じ合おうではないか」とは、神自身の言葉なのだから。


それゆえに、神が「わたしらしい心情」にしか興味のないように、わたしも「わたしの神らしい反論(回答)」にしか興味がない――そこには、いかなる宗派も教義も神学も、いかなるヒトサマの意見も、さし挟まれるべき余地がないのである。

私は言う。

もしもお前が「わたしの神」でもあるというのならば、どうぞ神らしく振る舞ってみせてもらおうではないか、と。

ソドムとゴモラを破壊したように、私の故郷を破壊したからといって、それがなんだ。

私の父母も、妻子も、すべてを一夜にして私から奪っていったからと言って、それがなんなのだ。

あまつさえ、私から私の右の手を奪ったからといって、それがなんだというのか…!

そんな威力でもって私の心まで支配できると思ったら、大きな間違いである。

そんな力ごときで、人の心がどうなびいたりするものか。

人間を作ったのが本当にお前ならば、自分の作った人間の心をナメてもらっては困る。

お前がほんとうに神で、ほんとうに母の胎内にある時から私を形作ったと主張するのならば、お前はほかのだれよりも「わたし」を知っているはずである…!


はっきりと言っておくが、

ソドムとゴモラの物語に触れて、私は私のように感じ、私のように考え、私のように懊悩し、私のように神にむかってはっきりと物を言った人間を、私以外に一人も知らない。

私は「知らない」と言ったまでで、「いない」とは言っていないが、もしも仮に、古今東西において私のような人間が一人としていなかったとしても、「わたし」という存在は天上天下唯我独尊であるのだから、当たり前の事実でしかない。

だが私は、私のように神に対して「無礼な口を利いた者」を、他に知っている。

それも聖書の中で、「神について正しく語った者」と神自身の口から言われた者において、知っている。

たとえば、ヨブである。

神からいわれのない苦しみを受けることになったヨブは、今の私のように無礼かつ非礼かつ辛辣な物言いを、神にむかってくり返している。

しかし、神の耳には、ヨブの語ったその言葉のとおりに、そんな「無礼な物言い」が聞かれたわけではけっしてない。

すなわち、ヨブは自分の身に起こった――まるでソドムとゴモラのような――破滅的苦しみについて、その「なぜ」を問うているようで問うていないのである。

ヨブは神の悪口を言い連ねることによって、その実、その奥にあるところのまことに「ヨブらしい心情」をば訴えているのである。

それゆえに、表面上に表れたちっぽけな「なぜ」は、神の耳にあってヨブらしい泣き言であり、そんな反抗期の子供のような「神の悪口」なんか、神にとってなんというダメージもない。

それでも、ヨブが包み隠そうとして隠せなかった「ヨブらしい心情」をこそ汲み取った憐れみ深き神は、その憐れみによって、最後の最後にはっきりとそれにむかって答えたのである。

たとえば、べヘモットやレビヤタンの描写を通しても、くっきりとした輪郭をした「神の回答」を、無知で幼稚で甘えに甘ったれたヨブに与えてやるのである。…

ヨブと同じ「信仰」を授かっている私には、そんなヨブと神との間にくり広げられた「会話のやり取り」が、しっかりと読み取れる。

「人」と「神」との間に交わされた、「生々しいやり取り」が手に取るように分かるのである。

分かるから、私は聖書を体系的に研究したりする必要もなく、そんな事をばオオマジメに行ったその結果、アブラハムの系図的な子孫の国や文化や伝統なんかを支持するような大愚を犯すしか手立てがなくなってしまった、ミジメな愚者とは決定的に違うのである。

分かるから、私もまた「わたしらしい心情」を「わたしの神」に訴えることによって、神の口から、わたしに対する神の回答をば吐き出させようとするのである。



つづく・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?