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棘と愛 ①

――
さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
――



「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」という言葉のとおりで、良い木からは良い実がなる。

ここでいう「木」とは、人間(なかんずく、その心)のことであり、「実」とは、言葉や生活のことである。

そして、「あなたがたはその実で彼らを見分ける」という言葉のとおり、私はたとえば上のような言葉によって、パウロという「自称キリストの使徒」がたしかな、間違いのない、本物の使徒であることを知るのである。


同様に、

たとえば上のような「良い実」のならない「木」については、いかなるものであっても、私は若き頃より敬遠して来た。

すなわち、上のような言葉をマトモに語れない教会の指導者たちを、私は「偽教師」として見分けて来た。

上のような言葉をただただ棒読みするだけだったり、自分ではできもしないし、知りもしないくせに、ひたすら自分たちをよく見せるがために着飾ったり、知識として、あるいは嘉言として頭の上にかぶってみせたりする人々を、「偽善者」として見抜いて来た。

そして、上のような言葉よりも、安息日の議論だの、食べ物の規定だの、創造論だの、終末の予兆だの、戦争の噂だの、ユダヤの古代史だの、ヘブライ語だの、イスラエル国家だの、エルサレムの神殿だのと、そんな類の駄弁ばかりをベラベラと、のべつまくなしに弄する人間たちを「偽預言者」と認識し、そのような者たちから放たれるかすかな臭みも身に付かないようにと、離れ去って来た。

はっきりと言っておくが、

私はもっぱら、安息日だのユダヤだのいう議論になると異常なほどの熱量を見せつけるくせに、「イエスはキリストである」という話題になると一転して陳腐な、貧弱な、空っぽな、薄っぺらな、浅はかな、類型的な、猿真似な、教科書的な、はてしなく無感動な内容にしかならない、そんな「態度」をこそ「悪い実」だと言っているのである。

またはっきりとはっきりと言っておくが、

「イエスはキリストである」とは、ヘブライ語をもって研究しなければならない聖句でもなく、世界の終末などいう憂いのための備えでもない――

いかなるアカデミックな主題でもなければ、未曾有の緊急事態や超自然的な事件やを説いているのでもない――

そんなもの以上に、冒頭のパウロの言葉に表れたような生活的な、あまりに生活的な次元の問題をこそ、指し示しているのである。

「イエス・キリストの福音」とは日常的な、あまりに日常的な福音である。

同様に、「インマヌエルの神」とは、あえて悪し様に言うならば退屈な、あまりに退屈なイエス・キリストのことなのである。

それでも――

それでも、もしも二者択一を迫られたとしたならば、私はいささかも迷うことなく、「退屈で、日常的で、生活臭のするイエス・キリスト」の方を選好する。

なぜとならば、私にもまた、本当の使徒たるパウロに告げられた福音と同じ福音が告げられており、彼に与えられた信仰と、同じ信仰が与えられているからである。

それがすなわち、「生活のよりどころとしている福音」であり、

これを端的に言い表した言葉こそ、冒頭の「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」という「信仰生活」だからである。


もっともっと、直接的な言葉で言ってみようか。

すなわち、

この世界に終末があろうがなかろうが、イエスはキリストである――

この地上にユダヤ民族が存在していようがしていまいが、イエスはキリストである――

この地球上にイスラエル国家があろうがなかろうが、エルサレムに神殿があろうがなかろうが、イエスはキリストである――

あなたの街に教会があろうがなかろうが、

お前の手元に聖書があろうがなかろうが、

その他のなにがあろうがなかろうが、誰がそばいようがいるまいが、

あくまでも、あくまでも、あくまでも、イエスはキリストであり、キリストはイエスなのである。

なぜとならば、

この世界におけるいかなるものの有無に関わらず、私に与えられたものとは「わたし」であり、

その「わたし」というものの目睫に、いつもいつでも横たわっているのは、「生活」だからである。

それゆえに、

はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

そのような「わたし」や、「わたし」に押しつけられた「生活」にしっかりと根を張り、どこまでもあまねく、どこまでも深く関わって来ないような「福音」など、「たわ言」でなくてなんであろうか。

こう言っても分からない人のために付けくわえておくと、

パウロであれ誰であれ、その手紙の中で、神秘と生活と、どちらについて多くを綴ったのだろうか。

ナザレのイエスにせよ、この世の終とわり、この世における生活と、どちらについてより多くを説き、語り聞かせたのだろうか。

神殿の建設に成功したソロモンは、何について失敗したのだろうか――その日々の生活にではなかったか。

また、

アブラハム以前に存在したノアだのエノクだのアベルだのアダムだのいう人々にそばには、いつもいつもいったい何があったのか? ――ユダヤ民族か、イスラエル国か、エルサレムの神殿、終末論、戦争の噂、教会、本にすぎない聖書か――? それとも、「神の言葉」か? それと結びついた「信仰生活」か――?

いつもいつも言っていることだが、「からし種ひと粒ほどの信仰」があれば、そんなことくらい子供でも分かる話である。


だからこそ、

ここ数年の話にはなるが、

どこぞの国がどこぞの国を侵略したのは、聖書の某箇所の預言の予兆であり、

それゆえに、イスラエルという国家のために祈りましょう――

大患難時代は、もうすぐそこまで迫っているのです――

私たちが携挙される日も、もうすぐそこまで迫っているのです――

そのような「妄言」をば得々として語り散らし、

「水槽に沈めるばかりのバプテスマ」を促し回り、

当たり前のように「献金」をせしめ取り……

こんな体たらくをした大集団に、私は不幸にも遭遇してしまったことがあった。

――ああ、私は「わたしの神」に感謝する。

わたしの神は、私に知る力と見抜く力を与えることによって、まだ右も左も知らなかった子どもであった頃から、たとえば上のような「悪い実」――すなわち、「神(自分たちの主張する宗派教義神学)を信じない者は皆、地獄に堕ちる」的な類のたわ言――に接しても、それらをたしかに「悪い実」として見分け、そういう話にやっきになっている者たちを「悪い木」として見抜き、彼らを「偽預言者」として、自分の「心」から遠ざけることを習い覚えさせてくれたのだから。


習い覚える……

それはけっして愉快でも、痛快でも、快適な経験でもなかった。

むしろ、涙のかわりに鮮血をしぼり出させるような、虐待的な話でしかなかった。

それでも――

それでも私は、守られていた。

いつも、いつでも、守られていた。

それゆえに、これからも、いつもいつでもいつまでも守られ続けることを、私は「わたしの神」にあって、いささかも疑うことなく確信しているのである。…


本音を述べるのであれば、私はここで筆を置いてしまいたいくらいである。

これまでも、『わたしは主である』とか、『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』とかいう文章で書いて来たような、

イエスのことなど、できることなら一発思い切りぶん殴ってやりたいくらいだが、それと同じくらい激しく、さらにはそれ以上にしつこく恋慕しつづけている、なぜならば――

というような調子をくり返して、それで済ませてしまいたいと考えていた。


ところが、

ああ、「わたしの神」であるところの、「いま生きている神、イエス・キリスト」とは、

どこまでも「かわいい息子を懲らしめる父のように、愛する者を懲らしめる神」なのである。

私的な言葉に翻訳するならば、どこまでもどこまでもオレ様な、スパルタな、身勝手極まりなき神である。

だって、こちらが血反吐を吐こうが、下血をしようが、血の涙を垂れ流そうが、どこまでもどこまでもどこまでも、「わたしは主である」のだから…!

それゆえに、

パウロにも同じものが与えられたように、「わたしの神、イエス・キリスト」が、私にも「ひとつの棘(とげ)」を与えたことを、私は知っている。

なぜ――?

どうして――?

いったい、何のために――?

この問いかけこそが、この文章の目的なのだった。



つづく・・・

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