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愚かな金持ちたち ①


――
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。
――


わたしの神キリスト・イエスから言えと言われたまま、ここにはっきりと言っておく。

たとえば上のようなたとえ話を、いつもいつも言っているように、「自らの身をもって」理解しない者とは、イエス・キリストを知らず、キリスト・イエスからも、父なる神からも知られていない者である。

それゆえに、そのような者がそのような者のいかなる出自、所属、功績を、はたまた礼拝、賛美、奉仕の活動の蓄積を誇ってみせていようとも、そんないっさいが「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない」という類のシロモノにほかならずして、

よって、いやしくも世界でもっとも多くの人間に福音を語り、世界でもっとも多くの系図的遺伝的民族的ユダヤ人をかき集めた国家の建設に成功し、世界でもっとも多くの信者だ信徒だ教徒だのを獲得した宗教的実績を積み上げてみせようとも、

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない」というひと言をば自分の身と心と霊をもって理解し、自分の人生においてその正反対の生き様死に様を表現できない者など、どこまでもいっても同じひと言によって、ことごとく一蹴されるだけの「愚か者」たるにすぎない。

それゆえに、そんなバカ者の末路とは、一様にして、「今夜、お前の命を取り上げられる」――

あげくのはてには、「お前の用意した物」もまた、すべてなべておしなべて、「神の前に豊かな者たち」のものとなる――

たとえば、そう、この私のような者のものに。


もしも、

もしもこの私のこのひと言に、文句のある者がいるのならば、それではぜひ、「お前」の書いたものをば見せてみよ――

この私のしたためた、たとえば、つい最近のものならば『能登の祈り』のような「駄文の中の駄文」よりも、はるかにうるわしく、はるかに美しく、はるかに憐れみ深いお前様の祈りの言葉をば、この私の鼻っぱしらの先に、匕首のごとく突きつけるようにして、見せてもらおうではないか――

これまで、お前が誇りに誇り散らかして来た、切り傷にすぎない割礼のような、あるいはガキの水遊びにも如かない教会のバプテスマのような、そんな宗派教義神学の旗下に寄り集まったばかりの、ユダヤ教キリスト教の諸教会におけるありうる限りの礼拝奉仕賛美の活動の実録でももってして…!

「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹である。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」

すでにもう、なんどとなく書き散らして来たが、母の胎に居た頃から「神の前に豊かであった」この私は、好むと好まざるとに関わらず、まだ陰部周辺にうぶ毛の先っぽの芽生えるさきから、上のような言葉の真実であることを、自分の人生として体験させられて来た。

その証拠の一端が、ここ二年あまりで綴った、「駄文の中の駄文」たちである。

そうして、ここにはっきりと言っておく、

1948年にどこぞのうるわしき土地の上に興った国家の歴史と、その営みのすべてよりも、地上のさいはての路傍の虫けらのごときこの私の謳った詩、なかんずく『楽しき荒野へ』の方が――こんなちっぽけな、あまりにちっぽけな短詩の方が――「神」の目においては、はるかにはるかに貴重であり、尊くして、また愛すべき「功績」なのであると。

もう一度、いやなんどでも、わたしの神イエス・キリストから言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

シオニズムなんぞいう世紀の虚偽と、全人類に対する詐欺の歴史よりも、そして、そんな人と「神」に対する死に至る罪をば陰に日向に擁護支援する、ありうる限りの宗派教義神学における人殺しの実績よりも、

一人の名もなき小説家がしたためた、ほとんど誰にも見向きもされない『モーセの葬られた場所』や、相手にもされないような『わたしは主である』といった駄文たちの方が、

「神の紡ぐ歴史」にとってはるかにはるかに、はるかにはるかに重要かつ重大な意義もたらしめる「働き」なのであると。


当たり前である。

少しく考えてみれば、当然も当然、確然、断然、厳然の事実でしかない。

なぜとならば、上に一例としてあげた私の文章とは、いずれも「真の約束の地」の方角をしっかりと見据えているけれども、

シオニズムとか、ユダヤ教キリスト教の宗派教義神学だとかいうものにいたって、「可視の不動産(あるいは動産)」ばかりしか、その目の内に映っていないからである。

その証拠に、私は私の文章において、こうはっきりと確言してみせた。

すなわち、

「モーセはヨルダンの向こう側の土地に入ることを、きっぱりと断った」

なぜとならば、

「その時、モーセの目はヨルダンの向こう側の山や谷や川やを見つめていたのではない、イエスの微笑をこそ見つめていたからだ」、

と。

このように美しい、あまりに美しい感動の言葉をば、お前はお前のどの文章のどの行間に、あるいは、どの信仰のどの行いに、あるいは、どの人生のどの働きにおいて、表現してみせたのというのか。

私は知らない――ただのひとつとして、見たこともなければ、聞いたこともありはしない。

かわりに、見たことも、聞いたこともあるものといえば、世界中の国々と民々に対する飽くことなき戦争犯罪、その殺戮と収奪と暴虐を正当化してみせる信仰ごっこ、そんな信仰ごっこが拠り所にしている金の力、金に力を与える愚かな金持ちたち、愚かな金持ちたちをだまし、まどわし、かどわかして、盗み取るためのエセ宗教、エセ宗教がかぶっている羊の皮たる宗派教義神学、宗派教義神学をまきちらす堕落と腐敗の教会、堕落と腐敗の教会が売り物にしているなんの救いにもしるしにもなりはしないガキの水遊びのようなバプテスマ、、、というふうに延々と続けられるほど、汚らわしい、穢らわしい、けがらわしいものたちばかりではないか…!


それゆえに、文句があるのならば、見せてみろ。

「イエスからやっぱりヨルダンの向こう側に行きたいかと問われたモーセは、それにきっぱりと首をふった」

このようなイエス・キリストとキリスト・イエスの父なる神をも喜ばせた一文をば、まるで最晩年のモーセのようにしたためるこの私の目睫に、「これがそれだ」と突き付けてみせろ。

はっきりと言っておく、「イスラエルにはふたたびモーセのような預言者は現れなかった」とまで言われた、モーセ当人においてさえ書き残すことのできなかった上の一文を書かしめたのは、「人の中の霊に悟りを与える”息吹”」である。

そして、ただ書く以上に、すべての被造物のためにその言葉のとおりに選択し、決断し、ふるまい、生きることをしてみせたのが、「イエス・キリスト」であったのである。

すなわち、

「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」

――神の子イエスの、この毅然たるふるまいこそ、「モーセはきっぱりと断った」というひと言に、私の込めたかった思いである。

もとい、私がというよりも私をしてそう書かしめたわたしの神キリスト・イエスが込めたかった、キリスト自身の「思い」であり、「感動」であり、すなわち「永遠に生きる”霊”」なのである。


であるからして、

「お前」とこの私とは、なにからなにまで対照的な存在なのである。

表向きの言論においていくらまことしやかに着飾ってみせようとも、可視の富を追求するばかりのそのふるまいにおいて、お前とは、頭のてっぺんから足の先まで「愚かな金持ち」でしかない。

すなわち、「悪い木からは悪い実しかならない」という格言のとおりの「悪い実」こそがシオニズムであり、「畑にまぎれこんだ毒麦」のたとえ話のとおりの「毒麦」こそ、ユダヤ教キリスト教の各宗派教義神学にほかならない。

かたや、「地に落ちた一粒の麦」であり、「地の塩」に相違ないのが、この私の書いた文章であり、そういう文章を書き綴るという私のふるまいである。

それゆえに、

わたしの神イエス・キリストから言えと言われたまま、ここにはっきりと言っておく、

たとえ世界でもっとも多くの人間に福音を語ろうが、世界でもっとも多くの系図的遺伝的民族的ユダヤ人をかき集めただけの国家の建設に成功しようが、世界でもっとも多くの信者だの信徒だの教徒だのいう奴隷を獲得した大都バビロンにおける繁栄を勝ち誇っていようが、

そのようないっさいの成功、功績、実績とは、さながら祭司エリとその息子たちとが、「肉刺しが突き上げたものはすべて祭司のものとした」という、神の御前に犯した堕落と背徳の罪に如くものでない、

そして、

その罪のために「エリの家をとこしえに裁く」という神の声を聞き分け、神の言葉を告げ知らせるサムエルこそ、この私なのである。


だから、

サムエルのようなこの私は、祭司エリとその息子たちであるところのお前に向かって、言えと言われたままはっきりと言っておく、

「今夜、お前たちの命は取り上げられる」――

また、

「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む」

また、

「お前の家の生き残った者は皆、彼のもとに来て身をかがめ、銀一枚、パン一切れを乞い、『一切れのパンでも食べられるように、祭司の仕事の一つに就かせてください』と言うであろう」――

さらには、

「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、お前の血を犬の群れがなめることになる」――

かてて加えて、

「イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる」――。



つづく・・・




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