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冷たいからだ ①


――
ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚着せられても暖まらなかった。
そこで家臣たちは、王に言った。「わが主君、王のために若い処女を探して、御そばにはべらせ、お世話をさせましょう。ふところに抱いてお休みになれば、暖かくなります。」 彼らは美しい娘を求めてイスラエル領内をくまなく探し、シュネム生まれのアビシャグという娘を見つけ、王のもとに連れて来た。 この上なく美しいこの娘は王の世話をし、王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。
――


「列王記」、すなわち、ユダとイスラエルの腐敗と堕落の史話は、上のような場面をもって始まる。

はばかりながら一介の文筆家であり、芸術家を自称する人間として、以前にもどこかで書いたことがあるが、おおよそ物語の始まりには、その作者の「意図」が包み隠されているものであり、

それの巧みにものされた文章であればあるほど、創作者の「想い」というやつが強く込められているものである。

であるからして、

ユダとイスラエルの分裂と滅亡の顛末を綴った「列王記」についても、ご多分に漏れることなくそうであり、若き日において数多の武勲と戦功をあげながら、老年に至って心鈍くなり、霊の灯火も消えかけて、あとは死ぬばかりの老兵に成り下がったダビデ王の体たらくとは、

まさにまさしく、その後の王国においてくり返される反逆と背信――すなわち、心かたくなになり、相互愛も冷め、憐れみの灯火も消えていった衆愚の史劇そのものであり、ということは、冒頭の一場面もまた、疑いも間違いもなく最良のストーリーテラーたる神によってほのめかされた、まるで予言のような「暗示」にほかならなかった。


で、この「衣を何枚着せられても暖まらなかった」ダビデの晩年に触れる時、いつもいつも思わされることとは、老いさらばえた彼の心とはもはやなんという「夢」をも抱けなくなった、荒涼とした荒れ野のようでしかなかったというひとつ事であり、

戦(いくさ)から戦に明け暮れて、ついには全イスラエルの統一に成功し、一国一城の主たりえた者にしてなお、己の死を前にしてもはや霊を焚きつけ、四肢を躍動させるべくいかなる「内なる火種」も見い出せず、それゆえに、国中でもっとも美しい娘によって仕えられ、同衾されようとも「王は彼女を知ることがなかった」のであった。

くり返すようであるが、

古代イスラエル王国のすべての民の上に君臨しながら、己の身体ひとつ暖めることもできなくなった老い人の胸の内に、いったいどんな思いが去来していたものか、とりわけて興味もないものであるが、きっと――

私はもう戦えない、もう竪琴を奏でることも、詩歌を詠むことも能わない、処女を知ることもできず、何を食べ、何を着、誰がかたわらに居たとしても、老いたるこの体はずっと冷たい――

このようなみじめな、孤独な、不幸せな老いの繰り言であったであろうことと推量される。

少なくとも、全会衆の前で神を賛美してみせる様子の記された「歴代誌」とは、ほとんど正反対に、ただただ個人の恨みつらみばかりをこめたような遺言をのこして死んでいく「列王記」のダビデ王の姿は、最後の最後まで「冷たいからだ」に苛まれた老君たるにすぎなかった。

だから、「歴代誌」のダビデと「列王記」のダビデとは、同じ人でありながら、実に多角的に見られ、描かれたということが分かるのであり、ここにもまた、最高の小説家たる神の創作意図が見て取れるのである。


これは余談にすぎないが、そんな「列王記」におけるダビデの死に様たるもの、やはり同じように戦から戦の日々を継ぎ、戦乱の世を統一しえた豊臣秀吉の詠んだとされる辞世の句にあって、「露と落ち露と消えつつ我が身かな」なる代物でしかなかったという逸話をおのずと連想させ、

かつ、ダビデや秀吉の、いずれも裸一貫から始めて位人臣を極めたその経歴もまた、まことに良く似かよっていると言わざるを得ない。

そして、これら「偉人」たちの老い様であるが、たとえば、ダビデとよく並び称されるようにして語られるモーセのそれとは、およそ対照的な有り様だったとも言わせてやまない。

というのも、「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」といった記述にも見られるように、いかにモーセなる指導者のダビデとは異なって、その心の内側の永遠に燃えさかるような者であったか――

それゆえに、彼が最晩年の日にあって登攀したネボ山の頂で何を見て、何をして、どのような望みを抱きながら死んだのか――

しょせんはあらゆる人と同様虫けらのごとく息絶えながらも、なにゆえに誰も知らない場所に葬られていったのか――

このような問いかけを、彼の「荒野の旅」の物語に触れるすべての者に対して、今日なおもって生き生きと投げかけるものだからである。

そして、

なんどもなんどもくり返すようであるが、そのような「けっして消えることのない火」や、「永遠に生き続ける希望」のようなものに感じ入って、私は先般、『わたしは主である』という文章を書き下ろした。

そのとき、モーセの胸の中で燃えさかっていたような炎は、私の内においても激しく燃え上がり、かつ、いまもこうして筆を執り続けていることそれ自体が、同じ「消えることなき炎」の実在の証左であり、継続の証明にもなり得るのである。


それゆえに、

話もだいぶ枝道に逸れていくようではあるが、現在、私の暮らしている我が国でも寒冷地として知られる地域において、毎年毎年、同じ私はとても上手に冬季をやり過ごすことを得ていると思うものである。

すなわち、外気も氷点下まで凍てついてなおのこと、私は衣を何枚も重ね着するようなこともしなければ、煌々と薪ストーブを焚いたりするわけでもなく、ひねもす猫のようにこたつに丸くなることも、毎日皮膚もただれかねないほど激しく熱せられた温泉に浸かることも、夜な夜なそんな熱水を含ませた湯たんぽを処女の肌を抱くようにして床の中に入れたりすることもしない。

むしろ、屋外が寒くなれば寒くなるほどに、表へ向かって飛び出して行っては存分に四肢に汗をかかせたり、外からではなく中から身を温めるための食べ物を摂取したりすることを心がけるようにしている――たとえば、近所の薪割りや雪かきを手伝ったお礼にもらったショウガを絞りこんだ白湯の中に、自家製の味噌やカラメルを溶かしたものを飲むことなどによって、手足を末端にいたるまで内側から熱らせようと試みるのである。

がしかし――

ここから先が、この文章の主眼となっていくのであるが、

そんなふうに頭と体を駆使しながら、いかに健やかにふるまって、いかに今年もまた骨の髄まで凍えるような厳冬を巧みにしのぐことを得てみせたところが、もしも私の「心」の有り様が、かつてのダビデ老のような「もはや夢も希望もない」それのようであったならば、

私の人生模様とてきっときっと、どれだけ薪ストーブだ温泉だ無添加発酵食品だのを「重ね着」したところで、寒くて寒くてたまらないような体たらくであったに違いない。

それは、往々にして人を苛む「冷たいからだ」とは、まったく肉体の問題にあらずして、よって、そんなものをいかに外側から内側から熱らせようと試みようとも、「人生の冬」――すなわち、たとえ天下を手中に収めても、後はただひたすら裸で塵に返るばかりという厳然たる運命――を前にして、情け容赦もなく吹きすさぶ「心の木枯らし」からまでは、人はいつの時代にあっても、何をどうしても、「暖まる」術を知らないからである。

であるからして、

古(いにしえ)の英雄ダビデにせよ、関白太政大臣秀吉にせよ、いやしくもその力と知恵をもって乱世を治め、すべての民の上に君臨し、国中でもっとも贅沢な生活をし、もっとも美しい処女を御側にはべらさせることを得てみせたところが、圧倒的な「絶望の晩年」に相対しては、そんなすべてもひっきょうただの悪あがきに如くものでなく、よって、若き頃は当たり前のように燃えていた「内なる火」をば、ふたたび己の中で熾すことができなかったというわけである。


それゆえに、

ダビデの時代から約千年の時を経た後に語られた、

「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」

というイエスの言葉とは、まことにまことに人生の核心を突いたキリストのひと言にほかならず、

さらには、

「…死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」

という使徒パウロの文章も同じように、真実と希望の言葉たり得たものと言いうるのである。

すべては、イエスにせよパウロにせよ、彼らがどのように生き、どのように死に、誰の手によって、どこに葬られるのかを、日々信仰によって確信していたからであり、

すなわち、「望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認すること」によって、イエスが死んで葬られても三日後に復活し昇天したように、パウロもまた死んで葬られても、かの日にあって復活し昇天することを――そのようななんぴとたりとも奪ったり否定したりできない「夢と希望」とを――内なる霊において確信していたからにほかならない。

だから、

話もまたぞろ小市民的生活の次元にまで下っていくようではあるが、

人が金持ちになることと、豊かに暮らすこととは、まったくの別物である。

それ以上に、人が豊かに暮らすことと、明日を思い煩うことなく生きることこそは、完全に別次元の議論でしかあり得ない。

もしも、このような私の言葉に触れて、たちどころにピンと来ない者とは、情けも容赦もなくはっきりと言っておくが、疑いも間違いもなく、神を知らず、神からも知られていない者である。

よって、今はまだ若く、力も知恵も分別も十分に備わって、ひとかどに働くことも、日ごとの糧を立派に稼ぐことのできたとしても、老年に至れば――あるいはある日ある時突として――同じその者とはそれぞれの人生において、何をどうもがいてみせようともけっして暖まることを知らなかった、「老いたるダビデ」へと成り下がるばかりなのである。



つづく・・・



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