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万軍の主の名によって


――
だが、ダビデもこのペリシテ人(ゴリアテ)に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。
――


羊飼いの少年ダビデと、屈強の戦士ゴリアテとの戦いは、聖書をよく知らない人であっても、一度は耳にしたことのある有名な史話に違いない。

さりながら、

この戦いにおいて、ダビデがいったい何によって自分よりもはるかに強大な相手に立ち向かい、敵国における最強の戦士を討ち取ったのかを、その身をもって知る者はほとんどいない。

ことに、私がいつもいつも批判している「教会」とか「クリスチャン」とか「キリスト教」とか「ユダヤ教」とかいう世界において、私はこれまでの人生でただの一度たりとも目にしたこともなければ、耳にしたこともない。

その真逆の、逆さまの、正反対の種類の人間にならば、それこそ掃いて捨てるほど、邂逅して来た――まことにまことに不幸なることには。

すなわち、

自分の所属している宗派や組織やにおける信者の総数とか、

自分が神学や教義や歴史や手法やを修学した大学や神学校やの名前とか、

自分の師事している偉大な宣教師や伝道師やの名前とか、

自分の教会で新しく洗礼を受けた者の数が、ある期間にどれくらい伸びたかとかいう事実とか、

自分の持っているアカデミックな知識とか、過去における奉仕活動の実績とか、長日月の中の経験とか、

あるいは、

自分の支持するイスラエル国の国力だとか、軍事力、経済力、文化力だとか、、、


――おおよそ、こんなふざけにふざけたシロモノをば、さながら「剣や槍や投げ槍」のように振りかざしてみせる人間の集合体ならば、子供の頃よりイヤというほど目の当たりにして来たし、させられて来た。

はっきりとはっきりと言っておくが、それゆえにそれゆえに、私は心の内でシラケにシラケて来た。

箸がこけてもおかしい青臭い幼心にとってさえ、もうあまりにもクダラナくて、バカバカしくて、カタハラ痛くて、ちゃんちゃらおかしくて、しょーきのさたとも思えなくて――

なんだってまあ、こんなにも「マトハズレ」な活動をば何百年となく、もしくは何千年となく続けられるのであろうかと、不思議で不思議でならなかったものである。


そして、もっとも面妖不可思議だったこととは、

上のような「剣や槍や投げ槍」を手にしている人々は、それらによって、いったいどんな「ゴリアテ」に相対しているのだろうかという、素朴な疑問であった。

自分が所属している教会でも、信じている教義でも、学んで来た神学でも、慕っている先生でも、尊敬している大伝道師でも、一緒に讃美歌を歌っている仲間でも、奉仕活動に共に汗を流す同志でも、毎日マジメに読み込んでいる聖書でも――

なんだっていいが、そんなものによって、彼らはいったい何に相対し、何に立ち向かっているというのだろうか――?

あらかじめ断っておくが、かかる低劣な疑問をば質したいがために、私はこの文章の筆を執ったわけではけっしてない――なぜとならば、今も昔もこれからも、上述のような人々のオツムの中身になど、私は動物園のパンダの生死ぐらいの関心しか抱くことがないのだから。

さりながら、

はっきりとはっきりと言っておくが、

もしも、「血肉ではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」こそが、自分たちの「ゴリアテ」だなどと思っているのならば、

宗派だの教義だの歴史だの偉大な先人たちの名前だの、そんなものの上に成り立っているような教会だの礼拝だの奉仕だの洗礼だの、そのような「剣や槍や投げ槍」は、なんの役にも立ちはしない。

もう一度言うが、なんの役にも立ちはしない。

なんどでも言うが、なんのなんのなんの役にも立ちはしない――少なくとも、それが「わたしの見出したところ」であり、私が「自分で食べて、自分で味わって」来たところである。

これを別な言い方をもって言うならば、以下のようになる。

もしも、

「聖書」について詳しく学びたいのならば、ヘブライ語やギリシャ語について学ぶ態度は、必須も必須である。ユダヤの古代史なんかに至っては、それこそ貪欲に尋ね求めなければならない知識である。

同様に、

「教会」をより大きく発展させたいとか、より良い場所にしたいとか願っているのならば、教派でも宗派でも教義でも、一心にお勉強しなければなるまい。ユダヤ教の歴史でも、キリスト教会史でも、鼻血が出るまで調べ尽すべきである。

同様に、

「伝道」を命をかけてやりたいと思っているのならば、過去の伝道師たちの方法を忠実になぞらえなければなるまい。ペテロやヤコブやヨハネやパウロから始まって、古今東西におけるありとあらゆる「偉人たち」の手法に学び、失敗に学び、同志を募り、連帯を深め――というふうに多量の汗と血とを惜しむべきではなかろう。

同様に……


しかししかし、

はっきりとはっきりとはっきりと言っておく、

「イエス・キリスト」について知りたいと本気で願う者には、そんなすべては不要である。

もう一度言うが、不要である。

なんどでもなんどでも確言してまったくまったく憚るつもりもないが、そんなすべてのものは、いっさいいっさいいっさい、不要である――!

なぜとならば、

「イエス・キリスト」を知るために必要なものは、「いま生きているイエス・キリストの霊」、ただそれだけだからである。

もう一度、いや、この命が尽きる最後の瞬間までくり返してやるが、

「イエス・キリスト」を知るために必要なのものとは、「イエス・キリストの霊」だけである――!

「神のことを知るのは神の霊だけである」という言葉のとおりに、

神の霊だけが、神の思いを知るのだから――。


それゆえに、

他の何を有していようと、神の霊を持たない者には、神のことはいっさい分からない。

教会について、聖書について、ユダヤについて、伝道について、宗派について、教義について、奉仕について――その他のいかなるシロモノについての完璧な知識と、完全な実績を持つ者であろうとも、

いま生きているイエス・キリストの霊、復活したイエス・キリストの霊、再臨するイエス・キリストの霊、イエス・キリストを死者から復活させた父なる神の霊、イエス・キリストによって遣わされた聖霊、インマヌエルのイエス・キリストの霊、わたしの神イエス・キリストの霊……このような”霊”が心に住んでいない者は、

「イエスはキリストである」ことを知らないし、「キリストはイエスである」ことも分からない。

「イエス・キリスト」を知るためには、「イエス・キリスト」だけが必要なのである。

はっきりとはっきりとはっきりと言っておくが、

これについては、私は「自分の意見」なんかを述べているのでは、けっしてない。

万軍の主、イエス・キリストに言えと言われたまま言っているまでである。

(これは余談にすぎないが、「私はこう思います」とか、「あくまでも私の意見ですが」とか、「聞いた人の自己責任です」とか、「信じた人の自己責任です」とか――おおよそこのような類の予防線のような逃げ口上のようなものを張った上で、口から出まかせな戯言か、見せかけばかりの詭弁ばかりをべらべらと、さも気持ちよさげにしゃべりまくっていた教会の指導者たちが、ものの見事に失脚していくブザマな姿をば、私はつい最近も目撃した。)


それゆえに、

「イエス・キリスト」を知るためには、「イエス・キリスト」だけが必要なのである――

この言葉について、もしも反論なり異存なりがあるのならば、どうぞ「万軍の主」に向かって申し立てたらよろしい。

かく言う私も、これまでもなんどなく、文句や抗議や不平不満やを述べ連ね、がなりたてて来た――ほかでもない、王の王、主の主であるところの「イエス・キリスト」に向かって。

さりながら、

だからといって、万軍の主、イエス・キリストによって滅ぼされもせず、命を取られたりすることもなかった。

「毎週マジメに教会に行ってるじゃないか」、「毎日毎日真剣に聖書を読んでいるじゃないか」、「目を皿のようにして、耳をダンボのようにして、長老たちの言動を吸収しているじゃないか」、「昼も夜もなく、祈り祈り祈り続けているじゃないか」、「聖書に書いてあるとおりにしているじゃないか」――

まあ、おおよそこんな類の泣き言をば、私は若き頃、なんど投げつけたかしれない。

あまつさえ、

もっともっと、はるかにはるかに「悪質な暴言」をば芸術的に着飾らせて、カタパルトのごとく投げつけたことさえある――そうせざるを得ないほど追い詰められて、悩み苦しめられていたから。それゆえに私は、ヨブやダビデの文句なんか、まったく芸術性においてもスバラシキものに違いないと知るのである。

さりながら、

かつて、「マジメに教会へ行くこと」や「毎日聖書を読むこと」やといった世界から、うら若き少年は追いやられた。

「神は追いやられた者を尋ね求める」という言葉のとおりに、追いやられた事実につけこんで、万軍の主なる神は、そんな裸一貫の少年をば「荒野」に連れ込み、引きずり回した。

爾来、無一物の少年が何をどう言おうとも、「わたしは主である」というひと言ばかりが、くり返された。

来る日も来る日も、来る日も来る日も、

貧しき少年の汗と涙と血と咆哮と呪詛に対するたったひとつの「報酬」は、「わたしは主である」というひと言だった。


さりながら、

そんな鬼か悪魔のような「わたしの神、イエス・キリスト」とは、まことにまことに寛大にして、忍耐強く、憐れみ深く、慈しみと恵みに富む神である。

なぜとならば、

望む者、祈り求める者、捜し求める者には誰にでも、惜しみもなく与えるからである。

なにを与えるのかといえば、「神そのもの」をである。

狂人さながらの奇声をあげようが、ケダモノさながらの咆哮を叫びあげようが、悪魔さながらの呪詛を唱えあげようが――それでもなお必死に叫び求める者には、「イエス・キリスト自身」を値なしに与えてくれるからである。

私はこのようにして、「信仰」を授けられた。

このようにして、イエス・キリストの肉を食べ、血を飲んだ。

このようにして、心に割礼を受け、聖霊を与えられた。

このようにして、かたくなな心を十字架につけて、新しい心として復活した。

このようにして、イエス・キリストの霊が心に住み、キリスト・イエスの父なる神の霊が住まう「まことの神の家」となった。


私はいかなる教会にも属しておらず、いかなるヒトサマの神学も知らず、いかなるキリスト教的知識のへんりんすらもない。

ユダヤ古代史にもすこぶる昏く、イスラエル国家にも関心なく、ヘブライ語なんかよりも母国語であるところの日本語を愛しており、トーラーに書かれてある食べ物の規定を守る義務もなく、定めの祭りを祝うつもりもない。

それでも、

それでも私は「イエス・キリスト」を命をかけて捜し求め、祈り求めた結果、見出した――見出された。


貧しき少年は、ヘブライ語で聖書を読んだから、聖書が分かるようになったわけではなく、「信仰」によって自分の人生という聖書を読んだからこそ、本である聖書についても教えられたのである。

愚かなはなたれ小僧は、教会に行ったから、新しい心を与えてもらったのではなく、教会とかクリスチャンとかいう世界と疎隔が生じたからこそ、「心の割礼」を受けたのである。

神を憎んだ青二才は、教会の授ける「教会のバプテスマ」を授かったから、聖霊を与えられたのではなく、教会のバプテスマなぞ形骸化した儀式でしかないことをその身をもって知ったからこそ、「霊のバプテスマ」を授かったのである。

無一文の貧者は、教会の献金をつづけたから、命のパンのための仕事を見出したのではなく、無報酬でイエス・キリストの福音のために働くことを決めたからこそ、日々の生活の糧まで与えられているのである。

無教養にして無教育な愚者は、「この世の賢さ」もって探し求めたから、イエス・キリストを見出したわけではなく、「神の愚かさ」をもって探し求めたからこそ、イエス・キリストから見出されたのである。

無能にして無名な小説家は、他人の「自己責任」という予防線の中だから、口から出まかせな言葉を語れるわけではなく、「イエス・キリストの責任」という福音の中だからこそ、生き生きと、正々堂々と文章をしたためることができるのである。

無資格にして不適格なイエスの最愛の友は、モーセだのエリヤだのパウロだのケファだのいう偉人たちの名前をなぞらえたから、インマヌエルというイエス・キリストの名前を知ったのではなく、偉人たちの名前をなぞらえているような人々から離れ去り、たったひとりぼっちになったからこそ、インマヌエルという「神とふたりぼっちの世界」を、生き生きと生きているのである――今日も明日も永遠に。


そのような無力にして無価値なる「わたし」にとっては、歴史や組織や集団や文化や民族や国家なんぞを「剣や槍や投げ槍」のようにふりかざして来る「偽預言者」や「偽りのユダヤ人たち」こそが、「ゴリアテ」である。

それゆえに、

私はこの世界において、たったひとりぼっちであっても、まったく構わない。

というよりも、これまでもずっと、私はたったひとりぼっちであった。

もとい、「ふたりぼっち」であった。

なぜとならば、私のかたわらには、いつもいつでも「復活したイエス・キリスト」がいたのだから。

それゆえに、

まことにまことに不幸にも、「偽預言者」や「偽りのユダヤ人たち」に相対してしまったならば――そんなことを自ら望んだりする馬鹿がどこにいるのか――

無邪気にして無鉄砲なる私は、これまで通り、「わたしの神、イエス・キリストの名」によってのみ、立ち向かうこととしよう。

その名とは、「インマヌエル」である。

恐いもの知らずの虫けらは、「インマヌエル」という名によってのみ、いっさいの恐れを知らない勇者となり、けっして退かない獅子となり、腰に帯した男の中の男となり得る――

無知で無学で非常識な私は、「インマヌエル」という名前こそ、ほかならぬ万軍の主の名であることをこの身をもって知り、この身をもって誇っているからである。



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