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第3回 ご旧跡 歩いて記た~2人の僧侶が、ぶらぶら歩いて、ゆるゆる楽しむ~ 板敷山 大覚寺 護摩壇跡

【第3回】板敷山 大覚寺 護摩壇(ごまだん)跡/弁円(べんねん)懺悔の碑(茨城県石岡市)

 
来年、京都の西本願寺で「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が勤められることを記念して、関東の地に残された宗祖・親鸞聖人の由緒を伝える「ご旧跡」を、令和の時代に昭和の香りを残すおじさん僧侶2人が巡ってみました。

ご旧跡紹介


 大覚寺寺伝によると、親鸞聖人が常陸国(ひたちのくに)笠間の稲田草庵(いなだのそうあん)にいた頃、常陸国楢原(現在の常陸大宮市)に修験道の道場を構える山伏の弁円は、聖人の念仏のみ教えが広がり修験道の法門が衰退したことに怒り、板敷山南麓の大覚寺の地にて何日も聖人の行き帰りをうかがったが、出会うことができなかった。

 そこで板敷山の山上に護摩壇を築き、三日三晩懸命に念じたが、聖人に何ら危害を加えることができなかった。業を煮やした弁円は、単身聖人のいる稲田草庵に押し入ったが、聖人の尊顔に向かうと、危害を加えようとする気持ちがたちまちに消滅した。弁円は後悔の涙を止めることができず、親鸞聖人の弟子となり、明法房(みょうほうぼう)と名を改めた。聖人49歳、弁円42歳のことであった。

現地ルポ

 5月号に引き続き、常陸国石岡の板敷山大覚寺周辺を巡ってきたお話。親鸞聖人が居を構えた笠間市の稲田草庵から、当時の常陸国府の石岡や、一切経(お経の全集)を収蔵していた鹿島神宮などに向かう際、通り道だったのが板敷峠でした。聖人に危害を与えようとした山伏の弁円が、護摩を焚いた護摩壇跡が板敷山上に残っています。

 車で行く場合は、北筑波稜線林道(県道140号沿い入り口に「板敷山道」という石碑が建っています)途中の「板敷峠」に車1台分停められるスペースがありますので、そこから徒歩で200mほど登れば護摩壇跡、また徒歩で下ると弁円懺悔の碑に出ます。

 大覚寺から歩いて行く場合は、下から弁円懺悔の碑を通り、板敷峠まで約1・5㎞。弁円懺悔の碑には、「山はやま 道もむかしに かはらねど かはりはてたる 我こゝろかな」という歌が彫られています。

旅ある記


藤「山頂の護摩壇跡は東日本大震災で一度崩れてしまったらしいね」
星「今はきれいに整備されて、道も山道ですけど、きれいに草も刈って整備されていますし……はぁ、はぁ」
藤「星さん、また息上がってますよ」
星「今回は弁円さんの足跡をたどっているわけですけど、弁円さんは親鸞聖人を襲おうとした悪者として御絵伝などで描かれていますよね。でも親鸞聖人晩年のお手紙では、明法房、すなわち弁円さんが往生されたとき、親鸞聖人が特別な思いを門弟に伝えていますよね。弁円さんは少し悪者にされすぎじゃないですか?」
藤「まあ御絵伝の印象だけだとそうなるよね。だけど弁円さんはのちに熱心な念仏者になっただけでなく、かつて親鸞聖人を襲おうとしたときも、いきなり稲田草庵を襲って殺そうとしたわけではないですから。こうして近くで護摩を焚いたり、大覚寺さんに潜んだり、ホントは親鸞聖人と話してみたかったんじゃないかな」
星「ツンデレさんだったんですかね」
藤「……。弁円懺悔の碑も見に行きましょう!」
星「山はやま……今の交通手段は昔と変わってしまいましたが、弁円さんたちの時代はこの山や山道こそが生活そのものだったんですね」
藤「親鸞聖人も山道をお歩きになって、ご長寿の秘訣もわかる気がしますね」(藤本真教・星顕雄)

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※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。