値上げラッシュの世の中で、北海道で出会った忘れられない「50円の値下げ」
北海道の北広島市に、エスコンフィールドという新しい球場が完成しました。日本ハムファイターズの新しい本拠地ということで、鳴り物入りでオープンしたのです。
実は私、オープン早々にこの球場で野球を観戦してきました。
「アメリカのボールパークみたいなんでしょ、いいなぁ」
などと友達から羨ましがられつつ、楽しみに現地へ。
しかしどのような施設も、オープンしたての時は混乱するもの。特に試合が終わった後、球場前は大混雑となりました。最寄りの駅が遠いため、バスにもタクシーにも、尋常でない大行列ができてしまったのです。
私も、行列に並んでじっと待ちました。覚悟はしていたので様々な防寒対策はしてきたのですが、しかし春まだ浅い北海道の夜は、東京者の我々にとっては真冬の寒さ。吹き荒ぶ風が、容赦なく体温を奪っていきます。
小一時間待って、やっと乗ることができたタクシーの中は、楽園のようでした。
「寒かった……」
「つらかった……」
と口々に言う我々に、年配の運転手さんは、
「大変でしたね」
と優しい声をかけてくれます。それどころか代金の支払いの時には、
「端数はいいからね」と、50円もおまけしてくれたではありませんか。
「いえいえ、そんな!」と遠慮しても、「いいからいいから」と受け取らない運転手さん。「わざわざ来てくれたのに寒い思いをさせて、申し訳なかったね」という思いから、まけてくださったのです。
私はこのことに、思わず目頭が熱くなってきたのでした。あまりの寒さにプンスカしていたのが、運転手さんの行為に接して、「いい所だ……」という感覚が湧いてきたではありませんか。
今、世の中は値上げラッシュ。毎日のように、何かの値段が上がっています。先日も、新聞の購読料がいきなり500円も上がるということで、「えっ」となりましたっけ。
対して収入が上がったという話は、耳にしません。もちろん、そういう人がいても、「お給料、上がっちゃった!」などとペラペラ話さないのでしょうが、収入は上がらないのに支出だけが上がっていく、という実感を持つ人が多数派なのではないか。
そんな中で北広島の運転手さんは、ただ遊びに来ただけの私のような者に、代金を50円も値下げしてくれたのです。運転手さんは、球場や球団の人ではありません。また地元の人々としては、球場のオープンによって突然大量の人が押し寄せてきて、困惑しているところもあろうというのに。
タクシーから降りると、私の身体はまだ冷えていたけれど、心はジーンと暖まっていたのでした。それは、「50円もうかっちゃった、ホクホク」というものではもちろんありません。運転手さんの優しさが、湯たんぽのように心身に沁み入ってきたのです。
あまりの寒さに「もうここには来ないかも」と思っていたのが、タクシーを降りたら「もう1回くらい、来てもいいかな」と思っていた私。その時にまたあの運転手さんの車に乗ったなら、今度は「お釣りはいらないです」と言いたいものよ、と思います。
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966 年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003 年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『女人京都』(小学館)など。