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値上げラッシュの世の中で、北海道で出会った忘れられない「50円の値下げ」

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「値上げ」と「値下げ」です(本記事は2023年5月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。 

  北海道の北広島市に、エスコンフィールドという新しい球場が完成しました。日本ハムファイターズの新しい本拠地ということで、鳴り物入りでオープンしたのです。

 実は私、オープン早々にこの球場で野球を観戦してきました。
「アメリカのボールパークみたいなんでしょ、いいなぁ」
などと友達から羨ましがられつつ、楽しみに現地へ。

  しかしどのような施設も、オープンしたての時は混乱するもの。特に試合が終わった後、球場前は大混雑となりました。最寄りの駅が遠いため、バスにもタクシーにも、尋常でない大行列ができてしまったのです。  

  私も、行列に並んでじっと待ちました。覚悟はしていたので様々な防寒対策はしてきたのですが、しかし春まだ浅い北海道の夜は、東京者の我々にとっては真冬の寒さ。吹き荒ぶ風が、容赦なく体温を奪っていきます。

  小一時間待って、やっと乗ることができたタクシーの中は、楽園のようでした。
「寒かった……」
「つらかった……」
 と口々に言う我々に、年配の運転手さんは、
「大変でしたね」
 と優しい声をかけてくれます。それどころか代金の支払いの時には、
「端数はいいからね」と、50円もおまけしてくれたではありませんか。

 「いえいえ、そんな!」と遠慮しても、「いいからいいから」と受け取らない運転手さん。「わざわざ来てくれたのに寒い思いをさせて、申し訳なかったね」という思いから、まけてくださったのです。

 私はこのことに、思わず目頭が熱くなってきたのでした。あまりの寒さにプンスカしていたのが、運転手さんの行為に接して、「いい所だ……」という感覚が湧いてきたではありませんか。
 
  今、世の中は値上げラッシュ。毎日のように、何かの値段が上がっています。先日も、新聞の購読料がいきなり500円も上がるということで、「えっ」となりましたっけ。

  対して収入が上がったという話は、耳にしません。もちろん、そういう人がいても、「お給料、上がっちゃった!」などとペラペラ話さないのでしょうが、収入は上がらないのに支出だけが上がっていく、という実感を持つ人が多数派なのではないか。

  そんな中で北広島の運転手さんは、ただ遊びに来ただけの私のような者に、代金を50円も値下げしてくれたのです。運転手さんは、球場や球団の人ではありません。また地元の人々としては、球場のオープンによって突然大量の人が押し寄せてきて、困惑しているところもあろうというのに。

  タクシーから降りると、私の身体はまだ冷えていたけれど、心はジーンと暖まっていたのでした。それは、「50円もうかっちゃった、ホクホク」というものではもちろんありません。運転手さんの優しさが、湯たんぽのように心身に沁み入ってきたのです。

  あまりの寒さに「もうここには来ないかも」と思っていたのが、タクシーを降りたら「もう1回くらい、来てもいいかな」と思っていた私。その時にまたあの運転手さんの車に乗ったなら、今度は「お釣りはいらないです」と言いたいものよ、と思います。
 

酒井 順子(さかい・じゅんこ)

エッセイスト。1966 年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003 年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『女人京都』(小学館)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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