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微笑みの国で知られる仏教国・タイ。その国技「ムエタイ」 に流れる、知られざるタイ文化とは?

タイといえば篤信な仏教国として知られています。しかし、その国技は、タイ式キックボクシングとも称されるムエタイです。互いにぶつかり合い、時には流血も辞さないほどの激しいスポーツ。「微笑みの国」とも言われる仏教国・タイのもうひとつの顔ともいえるこの文化について、本願寺新報記者である星 顕雄さんが探っていきますが、その結末は思いもよらぬ方向に……?

築地本願寺の法語掲示板

「やられても やり返さない 仏教だ」

出典「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」(『法句経』(ダンマパダ)より、中村元訳)

 築地本願寺の法語掲示板に昨年10月、このような言葉が書かれました。
「やられても やり返さない 仏教だ」
 これはお笑い芸人、オリエンタルラジオの中田敦彦さんが、築地本願寺に取材に来た際に、自身が運営するYouTubeチャンネルで発した言葉です。語感としては人気ドラマ「半沢直樹」のパロディ、内容的には初期仏典『法句経』(ダンマパダ)を踏まえたもの。『法句経』を踏まえたものとはいえ、子ども向けの仏教の本に意訳されたものを見ておっしゃったものなので、内容的に厳密なものではありませんが。

築地本願寺英語法座でもおなじみ、ケネス田中先生との会話

 些細なことではありますが、私はこれを見てあることを思い出しました。それは5年ほど前、武蔵野大学名誉教授のケネス田中先生に、私がかつて格闘技雑誌などを作る仕事をしていた経歴を伝えた際、「仏教は戦わないのでは?」と言われたことです。私は仏教に関わるようになったのが割と最近で、格闘技を見ていた時にはそんなことは考えもしていませんでした。

 だからその質問をされた時も、「仏教国のタイでもムエタイが盛んですし、格闘技というのは普遍的な文化なのでは」と苦しまぎれに答えるにとどまりました。タイで出家経験があるケネス先生も、それ以上言葉を続けなかったため、その話題はそこで終わりましたが、その問いは私の心の中に魚の小骨が刺さったように、引っかかり続けてきて現在に至ります。

 さて、法語掲示板。私がタイの立ち技格闘技・ムエタイを想起した理由を理解してもらえましたでしょうか。

※ムエタイ(ムワイタイ)……タイの国技とされている立ち技格闘技。パンチとキック、肘打ち、膝蹴りを使って戦う。寝技はない。日本のキックボクシングの源流。

「やり返す」ムエタイ

 タイは昨年10月、王政改革とプラユット首相の退陣を迫るデモ隊が、バンコク(クルンテープ)の王宮前広場を占拠するという混乱に陥りましたが、かつて先代のプミポン国王だった時代は、誕生日の12月5日になると、王宮前広場をムエタイの観客が埋め尽くし、国技であるムエタイの祭典が行われていました。

 そんなムエタイの試合には不文律のようなものがあります。表現するのが難しいのですが、ミドルキックを受けたらとにかく打ち返すのです。たとえ先に攻撃を受けても、打ち返せばチャラ、むしろ審判の印象が良くなるようなのです。 

「彼らはやり返すじゃないか!」 

 法語掲示板を見て、こんな些細なことを想起する人も滅多にいないとは思います。また、「仏教者は戦わない」という言いまわしも、不殺生の思想からくるもので、現代スポーツにまで当てはめるべきではないかも知れません。けれども私は一瞬そう思ってしまったので、今回少し調べてみることにしました。

現役選手、元選手が感じた印象は?

 まずはタイ人との試合も経験している現役選手に話を聞いて回りました。愛知県の真宗大谷派寺院のご出身で、現役K−1ファイターの不可思選手にご意見を伺ったところ「ムエタイの『やり返す』文化と仏教との関係は考えたことがなく、くわしくはわかりませんが」と前置きした上で、「本場のムエタイは日本のキックボクシングと違いポイントゲームの側面が強く、やり返す(ポイントを取り返す)という特色がでているのでは」としつつも、「ポイントゲーム」とした意図を「スポーツとしてよりも、賭けごとの対象だから、といったイメージが強いですね」と印象を語ってくれました。

 しかし、やはり格闘技イベント「RISE」で今年、那須川天心と戦ったことでも知られるファイター、志朗選手のブログによると、ムエタイではリングに上がる際、三宝(仏・法・僧)に祈りを捧げ、また選手たちがリング上で踊る「ワイクルー(言葉の意味は「師への礼」)」の内容にも、仏教的なものがあるといいます。選手が身につけるモンコン(頭の飾り)やプラチアット(上腕に巻く腕飾り)も仏僧に祈祷してもらったものを身につけ、プラクルアンという、仏をかたどった首飾り状の護符も身につけられます。

 では試合内容は。
 不可思選手の所属ジム近くでタイ料理店を営んでいる、1990年代から2000年代にかけて新日本キックボクシング連盟で活躍した2階級王者の深津飛成さんからは「ムエタイと仏教の関わりはあまり感じません」というご意見をいただきました。

 おや? と思った私は、日本ムエタイ協会会長で、かつてタイのムエタイ王座に就いた石井宏樹さんなど名選手を多数育てた名伯楽・鴇稔之さんにお話を伺ってみました。するとやはり「仏教とムエタイは関係ない」「ムエタイをやっている人に仏教徒が多いというだけ」という答えでした。

精霊信仰とムエタイ

 それでもまだそんなはずはない……と思いつつ、今度は東南アジア仏教史の専門家で、浄土真宗本願寺派の僧侶でもある、武蔵野大学の山田均教授に同じ質問をしてみました。奇しくも山田教授は、30年以上前にタイでムエタイのジムに所属し、試合も「多少はしていた」そうです。

 山田教授は「ムエタイは仏教の思想がどうこうというよりも、タイ的な価値観が強く反映された世界」といいます。「タイ的な価値観」とは、仏教伝来以前からタイに根づいている精霊信仰のことのよう。山田教授は続けます。「精霊信仰には儀式という定型がないため、仏教の三宝(仏・法・僧)に祈るかたちを取りますが、祈っている内容は仏教に関係がないと思います」と自身の体験も絡めて語ってくれました。

 「リングに上がる前にもリングに頭をつけて(三宝に)祈ったりしますが、それもワイクルーと同様、その技術を伝えてきてくれた先人たち・先生への感謝の祈り。日本人には『場に対する礼』というと理解しやすいと思います」と儀式的側面に対する見解を示しました。

 山田教授が所属していたジムの敷地内には大樹があり、試合前になると一同でその樹の精霊に試合の無事(双方ケガをしたりしないで立派に戦えるよう)を祈念する儀式をしていたといいます。

 ここまできてようやく、「タイ=篤信な仏教国だからムエタイも〜」という言説を、一度棚上げしなくてはならないことに気がつきました。タイの仏教の根底には、タイに仏教が伝来する前から根付いていた精霊信仰があるということが浮かび上がってきたからです。

 だからそもそも「ムエタイの戦い方は仏教的にどうか」とご質問差し上げたところで、「え? そもそもムエタイと仏教は関係ないし」という取材対象者からの反応が返ってきていたことに合点がいきました。ガッテン。

再び問う。なぜ「やり返す」?

 その上で、もうひとつの問い「なぜムエタイは『やられたらやり返す』のか?」という試合内容についてのお話を、みなさんに聞いてみました。

 まずは「現場の声」ということで、深津飛成さんに再登場を願います。深津さんは「やり返さなくても、相手の攻撃をすべてかわしたら、圧倒的実力差ということで勝つことがあるらしい」と情報をくれました。

 また鴇さんからは、「昔のムエタイは勝つことが試合の最大要素で、倒しにいくムエタイだったので、攻撃に対するポイントが優先的につけられましたが、80年代から90年代にかけてタイ経済が良くなり、ムエタイの試合で人々が賭ける金額がかなり増えました。そうすると賭けている観客は損をしたくない。したがって勝っている選手には、リスクを冒して深追いするような攻撃より、防御に撤しさせて賭け金を守るような試合運びを要求するようになりました。選手もセコンドや会長、客(!)などの指示を守り、好き勝手に攻撃することは許されなくなりました。そして審判も、昔のように純粋に強さを求めるポイントを入れられなくなり、防御にもポイントが入るようになったのです」と防御が重視されるに至った「カラクリ」を解き明かしてくれました。

 深津さんの情報については「防御だけでは勝てないかもしれないが、序盤で少しだけポイントを取って、あとは防御していれば、一生懸命攻撃を仕掛けている選手(日本ではここが重要視される)よりも防御ポイントで上回り、勝ってしまうこともあり得るかも知れませんね」と述べました。

今回無視してきたこと

 調子に乗って、格闘技に関する雑誌や書籍を多数編集・執筆してきた「フル・コム」代表取締役の山田英司氏にもご意見を伺ったところ、「質問の設定が間違っている」「仏教徒である日本人もやられたらやり返す」「ムエタイに疑問を思うなら、まず相撲にも疑問を抱くべき」「日本は仏教徒であっても武装し、仏門同士でやられたりやり返したりしていたれきしがある。仏教の教えと自衛とは、関係がない」「突き詰めても意味のないテーマ」という痛烈なお返事をいただきました。

 しかしこれはまったくおっしゃる通り。私の些細な疑問は、ダンマパダの一節を、子ども向けに言い換えた言葉への反応で、また日本の僧侶がやられたりやり返したりの歴史を繰り返してきたことも周知の事実。そもそも私は今回、本願寺教団が織田信長と激しい戦いを繰り広げていたことなどは意図的に丸ごと棚に上げて識者からご意見を募ったわけで……。

 しかし、山田氏は厳しい言葉の中にも優しく「相撲が仏教に関係のない神事であるように、ムエタイも仏教と関係のない神事なだけ」というヒントをくれました。

ムエタイにおいて「試合に勝つ」とは?

 要するに精霊信仰息づくタイで、「試合に勝つ」とはどのような意味を持つのか、そこを理解しないとムエタイの試合運びについては理解できないという結論に至り、再び武蔵野大学の山田教授のご回答に目を向けてみました。

 山田教授はムエタイの試合内容が拮抗していることについて、「試合の際に大切なのは礼儀正しいということ」だから「実力差のある相手をノックアウトするのは褒められる行為ではない」「そのようなカードを組んだ側の瑕疵」という視点を示してくださいました。「勝利を得たからといってピョンピョン飛び跳ね」たり「相手への礼を尽くさない」ことをしたら非常な不作法。これらは山田英司氏が言う如く、相撲にも通じることかも知れません。また、打たれて痛い顔をしたり、相手を蔑むような顔をしたりすることだけで「審査員の印象は悪くなる」と山田教授は指摘します。

 そして最後の疑問。「技を返す」ということ。山田教授は「試合は一種の対話」と定義します。「(やり返すのは)自分も同等の技術を持ち合わせているぞ、負けてないぞ、という表現であって、熱くなってやり返しているのではないと理解しています」と述べます。その上で再び「タイ的な価値観」について「熱くなることは下品なこと」「激しい戦いの中にあっても、常に落ち着いて余裕のある態度をしていることが男性的であるととらえられており、その価値観の表現がムエタイ」とされました。

「ムエタイ博士」に聞いてみた

 最後に、やはりムエタイの元選手で、ムエタイをテーマに博士号(人間科学)を取った菱田慶文(リングネーム・菱田剛気)さんに、社会的経済的背景を伺いました。菱田さんは鴇さんとともにアマチュアムエタイの普及活動を熱心に行っており、鴇さんのお話とリンクする部分もありました。菱田さんは著書『ムエタイの世界 ギャンブル化変容の体験的考察』(めこん)の中で、現在のムエタイでKO決着が少なくなった理由を縷々述べていらっしゃいますが、特に力点を置かれているのは、本のタイトルにもなっている「ギャンブル化」についてでした。

 やはり原因として指摘されているのは、80年代からおこる経済の急発展です。賭ける額が大きくなる。ジムぐるみで賭ける場合もあるし、親族が賭ける場合もある。そしてもちろんスタジアムで観客同士も賭けている。必然、選手はポイントを取ったら、それ以上は深追いしない。賭けている観客も「もういいよ(ポーレーオ)」と言う。というカラクリ。

 また、現代ムエタイでは、「回し蹴りの芸術点」が審査の基準にあるといい、これがおそらく、私の印象に残っていた「ミドルキックにはミドルキックで返す」という応酬についての答えかと思います。回し蹴りを1発打たれたら、より強い、あるいは2発の、あるいはより美しい回し蹴りを返す。手数勝負プラス、蹴りの美しさもジャッジの対象に入るようです。

 ラウンド後半になると、やり返しもしなくなり、防御で実力差のある相手を封じ込める。KOを狙ってパンチを売っていくのは、「自分が負けているのをアピールするようなもの」という面白い見方もあります。

結論・やはりムエタイは仏教とはあまり関係がない!

 今回の取材を通して、「タイは仏教国だけれども、その国技であるムエタイは、仏教とはあまり関係がない」という一般的には知られていない事実が浮かび上がりました(一般的にムエタイが知られているかどうかはまた別として)。

 その上で、ムエタイを精霊信仰が根づくタイ文化を表現したもの、というタイ人の精神的側面から捉えれば、「礼を尽くす」「相手に敬意を示す」「熱くなることは下品」「余裕のある態度が男性的とみなされる」などの理由から「実力差のある相手をノックアウトすることが褒められる行為でない」という、他国の格闘技ファンからしてみたら理解しづらい、拮抗した(ある意味退屈な)試合展開が生まれてきた背景がわかります。また経済の発展によって、賭博の対象としてのムエタイが変容してきたことも、この問題を考える上で必要であることもわかりました。

 お寺のnoteなのに、結論が「仏教とはあまり関係がない!」でいいのかという気もしますが、今回、快く取材を受けてくださった方々に厚く御礼申し上げます。

(本願寺新報記者 星 顕雄)