エッセイ:認知モデルと環世界
ドイツの生物学者であり哲学者でもあるユクスキュルの著書「生物から見た世界」の中で”環世界”という面白い概念が出てくる。
彼の言う環世界とは、”すべての生物が自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物おのおのが主体的に構築する独自の世界”だということだった。
ユクスキュルの主張はとてもおもしろい。
私自身、一人称、つまり主観的な世界の見方・理解の仕方をベースに生きているが、彼に言わせるとそれは私の知覚が形作っているというのだ。
その主張に納得できる。
知覚というのは単なる五感(人間の場合)として捉えるならたしかに私は自分の身の回りの世界を特に解釈しない場合は、知覚から得られるダイレクトな情報から世界を捉えることになる。
一方、ユクスキュルの書籍の中では特に触れられていなかったが、人間の場合は知覚は必ずしも五感だけに限らないものだと私は考えている。
私の環世界を考えると明白だ。
五感からの刺激を直接受け取ることもあれば、受け取らないこともある。
人間には刺激と反射の間に認知の隙間があるからだ。
私の環世界は独自の認知モデルを通して作られている。
言葉(聴覚・視覚)も刺激(触覚、嗅覚、味覚)もすべてその認知モデルを通じてから知覚される。
苦い青汁を飲んで健康的な気分になったと感じることも、誰もやったことのない課題に直面して面白そうだと思うことも、すべて独自の認知モデルを通して生まれた知覚である。
なので、認知モデルを持つ人間は、他の生物よりも画一的でない、人によって異なる環世界を持っていると言えそうだ。
ユクスキュルの言う、客観的ではなく主観的な世界の中に我々はまさに生きているのだ。
最近ではSNSなどを通じて他人の環世界の一端をみることも多くなったが、その世界を客観的に理解しようとすると難しい。
なぜなら認知モデルをうかがい知ることは、主観者以外の人間にとって(あるいは主観者にとってさえ)難しいことだからだ。
だとすれば、他人の環世界がひどく自分にとって気に触るものだったとしても、感情を荒ぶらせることに意味はないのかもしれない。
なぜなら環世界は主観的にしか理解することができず、理解できない他人の環世界(ブラックボックス)に怒ってもしかたないからだ。
話が脱線したが、私は環世界という考え方がとてもしっくりきている。
今の私の知覚を通じて作られた環世界は面白くスリルと好奇心にあふれているが、幼少の私の環世界は曖昧で怖いものだった。
同じ人間でさえ、環世界は変化するのである。
いろいろな出会いや学びが認知モデルに作用して、結果として環世界が変化しているのだと思う。
変化する主観的な環世界の中に我々は生きているのだ。
以上
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