池波正太郎の足音「かつ平」築地場外

築地の路地裏に池波正太郎の愛したとんかつ屋がある。そう聞いて、これは一度は行ってみたいと一念発起し、築地方面へ自転車で出かけた。

築地場外って言われても相当広い。築地で働いていた人なら、ああ、あそこね、とすぐにわかるだろうが、とんでもない。

迷った。

池波正太郎の書籍は、その多くが文庫化されていて、食をテーマにしたエッセイ集も今も変わらぬ人気ぶりだ。若かりし日の池波先生は、「兜町」で働いて、「銀座」や「築地」あたりでご飯を食べて、下町の我が家に帰っていたのだろうか…まあ、私のように都心部の地理に疎い人間には知る由もないが、最先端の江戸の町を闊歩していたようだ。

しかししかし、なんでまた「かつ平」がお気に入りだったのだろう。銀座からは明らかに遠い。築地と言っても相当奥まった路地の中に入らなければならないので、わたくしなど、手前にあるうなぎ屋の灯りがなかったら、いつまでたってもたどり着けなかったはずだ。

いつもはひれをお願いするのだが、せっかくなので、ロースかつを頼む。瓶ビールで手持無沙汰をごまかしていると、出てきたのは、ドドンとおおきなわらじ大のとんかつ。衣は荒々しく、黄金色に輝いている。和辛子も華々しい。

そりゃあ、おいしい。おいしいに決まっている。食事も過半を過ぎると、口周りがうっすら油でてかってくるような、昔ながらの豪華なとんかつだ。キャベツの千切りにパセリを少し。ケチャップで炒めたスパゲティまで、みんなが思い浮かべる「とんかつ」の最上級活用。非の打ちどころがない。

ボリューミー、かつ、オイリーな一品。池波正太郎先生の食のエッセイを読んだことのある方なら誰しも思うだろうが、先生は「すし」だの「天ぷら」だの「カツレツ」だの、明らかにカロリー過多なものがお好きだ。こんなものを食べられるのも相当の健脚で、自宅から銀座辺りまで歩いていたからではないか。少なくとも、「かつ平」に行くには相当遠回りしなければならなかったと思うが。

都会の、働き盛りの人たちを楽しませるおおきなとんかつ。いつまでこの地で提供されるだろう。時代が流れても、今もとんかつは人気メニューだけれど、ロースかつを週に何度もぱくつく人はめっきり減ったようだが。

かつ平の近隣にはいくらか飲食をさせる店があるようで、日も暮れて店を出たところ、会社員とみられる人々の笑い声や酒瓶のにぎやかな音が聞こえた。

築地場外の歴史もきちんと堪能できないまま、豊洲に市場は移ってしまった。けれども、豊洲でも場外に面白い好い店がたくさん生まれるに違いない。今度その辺りを訪れる小説家は、ステッキの代わりにマックブックを携えているかもしれない。


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