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生成AIと国語教育のこれからと

生成AI時代の到来に伴い、国語教育も転換を迫られています。

とはいえ、ただ焦るよりもこれからの時代、技術革新によって「何を得られ」「何を失うのか」ということを整理して我々教員も進んでいくべきだろう・・・ということで、昨日セミナーが行われ、登壇しました。

〈告知一部引用〉

THE 生成AI時代~国語科授業改革セミナー2024皐月in札幌
日時:2024年5月11日(土) 09:10~16:50
会場:札幌市産業振興センター
登壇者:西村弦・冨樫忠浩・髙原隼希・太田充紀・髙橋和寛・有原賢治・藤倉大志・宇野弘恵・矢野宜利・髙橋拓也・大野睦仁・藤原友和・堀裕嗣

<引用 終>

僕は「身体性と連動する知性」というお題で依頼を頂きました。

僕自身はもともと、AIにできる・できないことというより、AI時代が到来しても身体性のある描写は一定の言語技術をもって読みとり、読み手に体感されるものであると考えている。

我々の質問やプロンプトを介して出されるAIの回答は「描写の再現」について限りなく現実に近くなっていく。しかし「再現に伴う行間描写の発生(発露)」は我々人間でしか体感できないし、こうした読み方は仮にAIを介そうとも、読み手の言葉の見方を豊かにさせると仮説を立てました。

題材は『握手』。動きの描写をテキスト(字面)でだけ再現することと、文脈をもとに再現することの間には、やはり「行間読み」に差が出る。当たり前なのだが、AIが得意とする分野には一石を投じるアイディアとして、今後芽が出ていけば本望である。

実は、今回はGW終盤まで、授業内容にいくつか候補があり、その選定に迷いがあった。

・「音読→朗読」の身体性 と
・「課題作文の繰り返し」の身体性、
・そして「文学的文章のテキストと解釈」の身体性(題材:握手)。

先述の通り、当日は3つ目の内容を提案した。

提案への採用理由は、一つ目二つ目は「こんな手法があるんだよ」というネタ的な授業にとどまってしまうイメージが拭えなかったからである。しかし、実はもう一つ、この5/11に知人の葬儀が仙台で行われることが、GW終盤に知らされたからという理由があった。

どこか、こうした状況、タイミングに「AIに背叛する何か」を感じたので、同じく仙台での対象人物との死別を設定とした『握手(著:井上ひさし)』を題材として登壇すべきだという思いが、これを選ばせた。

持ち時間15分の条件に対して文量に若干の無理は感じていたが、考えうる準備をしてドン!と構えて臨めた背景にはこうした要因もある。

さて、すべての授業が終わったリフレクションの時間で、ある参加者がおっしゃった「〜の分野はAIには譲れない部分である」という言葉にはよくよく考えさせられた。

「譲れない」という言葉は、矜持を感じる一方、ある程度「追い詰められている」状況でないと使わない言葉でもある。

AIにできることは、これからもさらに増えていく。
たしかに、12本の授業を受け、どれもかなり授業としてしっかりとした哲学や理念を感じた。しかし、「この授業にAIが介入するとしたら…」と考えるたびに、大抵のことは我々と代わってしまうとも感じた。それを参加者みな大なり小なりそれを感じた結果、その感覚が「譲れない」という言葉に現れたのではないだろうか。

記録終了、明日からまた考えながら楽しく頑張ろう。

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