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22.3.27 アートと対話する

こんばんは、多部栄次です。
毎日日記やっていきましょう。

とある原画展に行ってきました。印象派の画家の抽象画、というにはギリ異なる不思議な絵画を見てきましたね。そのほかのジャンルの絵画も閲覧してきました(ファンタジーを重きに置いた流麗な自然画)が、やはりその方の絵が記憶に残っています。

抽象画っぽくてもストーリーを感じさせる魔力がありましたね。こちらの勝手な妄想に過ぎないかもしれませんが。

絵画の主な舞台はフランスのジヴェルニーにあるクロード・モネ邸と庭園ですね(タイトルにジヴェルニの○○って書いてあったので)。青々とした厚みのある緑と、活気ある鮮やかな花園、かつその花や植生の種類から夏を思わせました。影と光の相対性がやさしくも明確に分かれており、華々しくもどこか寂しく、あるいは閉じ込められたように閉塞的だけど、光照らす世界が一枚の中に広がっている、いわばノスタルジックな気持ちに駆られました。少年時代に一人か、あるいは親友と遊びにいき、庭園という小さな世界にして壮大な世界を目の当たりにしたときの瞬間を捉えたようでした。

その太陽の光の色や角度、香り(想像)からたぶん夕暮れ時(15:30~17:00)かなと思える絵がいくつかありました。もちろん真昼や明朝の時間帯だと思えるものもありましたが、夜を描いたものは見られなかったです。

その方の手法なのですが、キャンバスの中にもう一枠囲って(第二の額縁)絵を描いたものが多く、ベタ塗りの枠の外側は青や紫と単一の寒色が多くみられました(真っ白もありましたが)。また、筆を振って飛沫をキャンバスにぶつけることで飛び散った様を絵として表現する方法もふんだんに使われていました。それが光の粒子のようで綺麗だったんですよね。

また、距離で見え方が変わるというのも印象的でした。遠くから見ればリアリズムを彷彿させる風景画に見えましたが、近くで見ると抽象画、またはその人の心の表れのように見受けられました。なんとも不思議です。なので、平面画には見えなかったんですよね。立体的で、それで額縁に収まりきらない世界が(僕の頭の中で)広がっていました。思わず左右を見渡し、地面や天井を見て、後ろを振り返りました。絵の世界の中に飛び込んだような感覚に溺れかけたかもしれません(大袈裟)

スタッフの方に訊いたところ、中心の風景画を描いてから第二の額縁で境界を作り、その外側に背景となる単色を塗っているようです。中→外の順ですね。そうだとすれば、自分の中で溢れる記憶が溢れて、こぼれないようにするために第二の額縁で留めたようにも考えられるんですよね。あくまで僕の妄想ですよ

飛沫は外から集まってきたものか、既にある記憶の風景から霧散するように逃げて言っている様を表しているのか。描いた順番を考えると、後者かなと思います。あるいはそのどちらでもない心情で描いたかもしれませんが。

自分の心は寒々しく、シンプルだと。その中をかき分け、目に飛び込んできたのは夕暮れ時の真夏の花園。その記憶は時が経てば溶け爛れ、粒子として散っていく。また空虚で無味な白いキャンバスに戻ってほしくない。だから第二の額縁で記憶を守ろうとした。しかしそれでも、その額縁という窓からは曖昧という液体と化して漏れていく。そんな心の表れがあるのかなと勝手に憶測を立てていました。

荒唐無稽なことを話したかもしれません。しかし、そこに正解も不正解もありません。アートと触れることは、それをツールとしてクリエイターと通じ、対話することなんだなと。自分は問いかけ、絵画は答える。それに耳を傾ける

アートに触れるって、結構頭使うんですよね。時代は、場所は、時刻は、季節は、香りは、温度は、音は、味は、風は、人は、生き物は、周囲は…いろんなものを問いかけてみると、たった一枚の絵から無数の情報を得られると思います。それの解像度を高める時は、何がどれだけあるのかを具体化・数値化させるとより一層、そのアートの深部へとのめり込められると思います。推理をするみたいで楽しいですよね。

あ、関係ない話ですが、話しかけてくれた女性スタッフとってもかわいかったです。とてもフレンドリーな方で、雑談を楽しむこともできました。
他のスタッフの方々も優しく話しかけてくださって、嬉しく思いました。コミュ障なので緊張しましたが(笑)

いやぁ…学ぶことが多い一日でした。

あ、画家の名前はリャドさんという方です。ジョアキン・トレント・リャド。よかったら調べてみてください。

それではおやすみなさい。明日も良い1日を。

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