見出し画像

「写真集を読む」第五回|宮沢りえ『Santa Fe』

その裸体を、18歳の若さにして日本中に晒した彼女は
果たして写真のジェンダー論にどのような影響を残したか

今回扱うのは 宮沢りえ『Santa Fe』
宮沢りえはモデル、撮影者は故・篠山紀信。
言わずと知れた、日本で最も売れた芸能人写真集です。
(注:集計方法によっては田中みな実『Sincerely yours...』が1位、ヌード込みでは宮沢りえとのこと)

連載開始の際に、この一冊は安易に触れるのは難しい、と書いています。
いかんせん様々な問題というか、社会に対しての影響が多分に含まれる一冊であって、本来なら学術的に調査が必要だと調べていて思ったので。
今回は真に十分な調査ができたわけではないものの、とりあえず触れてみて、私がモヤモヤと抱えている課題について、役者さん方と話してみたいという試みです。

前置きはここらにしておいて、本題に。
※本稿はセンシティブ、セクシャル、ジェンダー等について扱うものです。苦手な方はブラウザバック。
あと1万字を超える長編になったので、お時間のある時にご覧ください。

前回記事はこちら。


『Santa Fe』

本の表紙や購入リンクを貼るのは憚られるのでWikipediaリンクで。

日本のポートレート写真の第一人者、篠山紀信が、当時人気絶頂であった宮沢りえのヌードを撮影。
その話題性は発売前から相当なものであり、圧倒的な売り上げを見せ発行部数累計155万部超、芸能人の写真集としてはアンタッチャブルレコード。

爆発的な売り上げとともに、その後「ヘアヌードブーム」と呼ばれる潮流を生むことになります。
芸能人の写真集、一般人の公募による撮影など、日本の写真集産業における認識を変えてしまうほどの力持っていたのでした。

ただ困ったことに、発売当初筆者は生まれておらず、当時の状況が何も分かりません。
なので推測と参考情報からすべて書いていきます。

観た感想

話がとっ散らかるので、先に感想だけ。

・当時の宮沢りえの人気がわからないから、今観たところでよくわかんない。
・そもそもヌードである必要が(商業的な面でなくアート的な面で)感じられない。
・現代的な「巨乳」「爆乳」的グラビア・セクシー女優が普遍化した時代においては、特筆して価値を認めにくい。ただし当時の認知から今日の文化に繋がっている点を考慮すると、歴史的な価値はあるのかもしれない。
肌面積多めを撮らないポートレート撮りのポジショントークとしては、これを”素晴らしい作品”だと認めることは、彼女の年齢や背景を鑑みるに出来ない。
・ただし、いわゆる”ヌケるヌード”のような露骨な表現は控えめで、どこか近寄りがたい雰囲気を残しているのは、氏の表現によるものだと思える。

といった感じです。
踏まえたうえで本編。

未成年のヌード

まず本書において触れておかなければならないのは、当時の法律上未成年に該当する女性のヌード写真集である、という点。

Wikipediaの情報を参考にするのであれば、撮影日によっては17歳とも、18歳ともいわれているとのこと。
篠山が参加した週刊現代の鼎談では「撮影時点で18歳」と語られています。

記事にて、篠山は次のように語っています。

タナカ そもそも、どういう経緯で宮沢りえのヌードを撮ることになったんですか。

篠山 あの年の4月に勅使河原宏監督の『豪姫』の撮影現場にりえを撮りに行ったとき、りえママ(マネジャーでもあった)と立ち話になって、「りえちゃんも18歳になったし、きれいなうちにヌードでも撮らなきゃね」と言ったわけ。僕としてはお世辞というか挨拶のようなもので、断られることも承知の上だった。

ところがりえママが手帳を開いて「可能性があるとしたら連休明けかしら」と言い出した。まさか撮れるなんて思っていないから驚いたよ。

参考[1] より引用

当初、撮影の構想については本人抜きで進められたのでした。
その後どのタイミングで本人に告げられたのかは定かではありませんが、当該鼎談においては「知らされていなかった」というニュアンスで語られています。

タナカ もちろん、最初から、りえちゃんも脱ぐことを了解していたんですよね。

篠山 実はそれが謎なんだよ。最近彼女に聞いたんだけど「私は(脱ぐことを)知らなかった」と言うんだ。

中森 えっ、本当ですか!

タナカ じゃあ、初めてヌードになるときは躊躇する感じもあった?

篠山 もし仮に彼女が「嫌だ」と言えば撮らないつもりだった。ところが「じゃあ脱いでみようか」と言うと、こっちが拍子抜けするほどあっさり脱いでくれた。彼女は一度覚悟を決めたら、最後までやり遂げるタイプ。度胸のある子だからね。

参考[1] より引用

この話から、「ポートレート写真における同意と外圧」を考えます。

ポートレート写真における同意と外圧

ポートレートは、”基本的に”同意のもと撮影されます。
街中で同意なしに撮るものはスナップと呼ばれ別ジャンルです。
富士フイルムの販促動画炎上事件の前後からスナップで見知らぬ人を写すことは社会的にタブーであると共通認識が形成されたように思われますので、今回は話の対象外とします。

さて、”基本的に”とダブルクォート付きで書いたのは、実際にはそうでない事例が確かに存在したからです。
代表的な例として荒木経惟を取り上げます。
noteでこのテーマをまとめてくださった記事がありましたので参考情報として挙げさせていただきます。

仮に”撮影自体”に同意したとしても、その内容であったり、周囲の状況が想定されていなかったものであったときに、果たしてそういったものが合意形成されていたのか、という問題。
それが脱ぐ脱がないであったり、契約などの金銭的・商業的なものであったり。

またそういった話とは一線を越え、身体的接触や性的交渉などのセクシュアルハラスメントなど直接的被害が発生するケースもあります。
これは”撮影自体”の同意とは全く異なる話ですのが、撮影という特殊なシチュエーションにおいては無視できない話であることは確かです。

ここで考えたいのは、「仮にヌード撮影に合意していたとして、それは本人の真なる自由意志のもとによるものなのか」というもの。
つまり、社会通念上その相手に対して逆らえない状況など、契約という側面においては後から無効審判が可能な外圧がかかったうえでの合意なのでは、という話。

宮沢りえは真に自分の意志で脱いだか

例えば事前に仕事の受ける・受けないが選べる状況であったとして、本心としては嫌な仕事のオファーがあった時、それは自由意志によるものの判断が可能であると考えられるでしょう。
つまり「嫌な仕事だから断る」「嫌な仕事だけど挑戦してみる」の選択ができるわけですし、その上で「やっぱ嫌だった」のであればそれは自分の責任である、と。

一方で、「この仕事を断ったら自分の人生に悪影響がある」「自分の今の状況を打破するには、この仕事を受けざるを得ない」という心理的背景があった場合。
告発で見るケースで言うなら「この話を断ったら今後仕事を振らない」や「君が断るなら他の人を優先的に使っていく」のような脅迫めいた話。
ある種この選択においても、その道を諦めて新たな人生を進むという選択ができるとはいいつつも、状況的に困難が伴って「嫌だけど受ける」が発生しうると考えられます。

今回は撮影の話で進めます。
オファーが来て撮影をしたけど、「実は嫌だった」と告発した。
ことの善悪を判断する術は、合意形成に至った経緯と、上述の「外圧」がどの程度関与していたかでしょう。

ここで無敵の武器を取り出します。
「社会は男性によって形成されているから、すべての女性の判断は男性からの圧力を受けている」とするジョーカー。

この答えは宮沢りえ本人が語っていますが、嫌ではなかったようです。

しかし。
たとえば「撮影の場において『脱いで』と言われ、母が反対していない状況で断れなかった」「ヌードを撮られることによる社会的な影響を考慮できなかった」と考えると、状況は変わるのではないでしょうか。
篠山が語るには、宮沢の母が強く要請したことが伺えます。

タナカ それにしても未成年ですよね。撮影ではいきなりヌードから始めて大丈夫でした?

篠山 いくら僕でも18歳の聖女に「はい、じゃあ脱いで」なんて言えるはずがない。だから初日はほぼ着衣のカットだけ。
ところが撮影を終えてポラロイドの確認していたとき、りえママがこう言うんだ。「こんなものを撮るためにサンタフェまで来たんじゃないわよ」と。僕が気を遣ってたのに、そんなこと言うなんてすごいよね。それで2日目から馬力をかけてヌードの撮影が始まった。

参考[1]

撮影から25年が経過した時点での語りですし、責任逃れで語っていることも考慮しなければなりませんが、少なくとも宮沢の母の影響は存在したことが各種情報から伺えます。
状況を全く知らない人間は推測で語るしかできないので真偽のほどは定かではないですが。
少なくとも現代の視点から考えれば色々まずい、と言わざるを得ないです。

一方、宮沢りえ本人の口から「ヌードに対しての抵抗感はそんなにはなかった」と公に語られていて、告発などもない以上、現代の価値観から当時へ遡及して咎めるのはキャンセルカルチャー以外の何物でもないです。
改めて結論は「真に正確な判断ができた状況ではなかったにせよ、社会的責任を追及するほどの精神的苦痛は無かった」でしょうか。

なぜ脱ぐのか、ヌードの価値とは

『Santa Fe』に対する論の一つに、長島 有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』を挙げます。

女性、もとい女性写真家の視点から、当時の社会情勢や写真界における権力構造について切り込み、女性がどのように写真へ向き合ったかについて述べています。

本書で記載されているトピックスとして、『Santa Fe』発売後に篠山が読者ヌードモデルを募集した件について触れられています。

(篠山紀信が読者代表モデルを募集したことに対して)モデルには一六二六名の女性の応募があった(『anan』 1992: 74)。ランキング形式でまとめられた応募動機は、一位が「青春(一生)の記念に」、二位「篠山紀信さんに撮っていただきたい」、三位「ひとに見てもらいたい」、四位「自分に自信を持つため」、五位「何かに挑戦したくて」(『anan』 1992: 78)の順であったという。二位の動機については編集部が「”宮沢りえさんの『サンタフェ』に感動した”(二五歳・フリーター)というように、『サンタフェ』の影響が強い」(『anan』 1992: 78)としている。

参考[2] p.315 より引用

少なくとも、この企画に応募した人々はヌードで撮られることに対して抵抗がなかった、と受け取れます。
また補足して次のようにも書かれいます。

ランク外の動機も一二位まで紹介されており、例えば六位の「自分が美しい時に撮っておきたい」という理由には、女性にとっては”若さ”が市場価値であるような規範の影響を読み取ることができ

参考[2] p.316 より引用

公募という形で、自らの意思でもって応募した人々であっても、その背景には社会が醸成した価値観があって、真に自由意思によって起こされた行動ではないのでは、という論が展開されています。
あわせて、『Santa Fe』発売ときっかけとした「ヘアヌードブーム」へも以下のような論を展開しています。

いっぽう、一〇代の長島にとって「ヘアヌード」写真ブームは”他人事”ではなかった。「大部分は、一九七〇年代以降生まれ」(飯沢編著 1996: 156)だった女性たちの多くは、このブームによって自分の身体が社会からどのように意味づけられているのかを目の当たりにしたのではなかった。「ヘアヌード」写真ブームは、(特に若い)女性の身体に金銭的な価値があり、それは市場で取引されうるという暗黙の了解が、公にコンセンサスを得る契機を生み出したと言えないだろうか

参考[2] p.335 より引用

これまでの論に対して、部分的には肯定しつつも首肯はできない、というのが私の感想です。
『Santa Fe』発売当時の社会規範が家父長制であって、女性の扱いに現代のような不平等是正の動きがなかったという論については、当時の状況を知らないながらも頷けます。
しかし女性の身体に金銭的価値が発生するという認識自体は、女性が『Santa Fe』に憧れたところを見るに、女性もその社会情勢を作り上げた一端であることが否定できないのではないか、というのが私の考え。

ただ無敵の反論として「社会は男が作ってきたから」を盾に出されると、もう言うことがなくなってしまう。
(本書には書かれていないが)「家父長制が法律的には解消されたが、いまだに婚姻に伴う改姓は圧倒的に女性が行うことが多い。社会規範においては女性が抑圧されていることに変わりはない」とすると、もはや歴史や倫理観そのものを一度リセットしないと何も変わらないのではないか、と。

ヌードは”アート”か、”わいせつ”か

この辺の話は、拙作『女性が撮る写真、男性が撮る写真、自分が撮る写真』でも書いておりますが、改めて。

いま現在私の見解は、「アートと名乗ろうが、”ヌけるヌード”と名乗ろうが、すべてが猥褻であって、すべてがアート」です。
アート的なヌードの代表例が、西洋絵画における宗教的な表現でのヌードでしょう。
代表例として、ボッティチェッリの名作『ヴィーナスの誕生』。

Wikipedia「ヴィーナスの誕生」より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F

アプロディーテーの誕生の逸話を見るに、たしかに裸である必要はあります。
ただし当時の世相として「ヌードは神々を表す」とされており、逆説的に「ヌードを書くのであれば神話や聖書の逸話を描く」となっていたようです。
作家がどういった経緯でヌードを描くに至ったかは真相を知れないですが、少なからず題材を口実としていた作家がいたことを否定も同時にできないでしょう。

別の例として、日本での芸能人写真集、もとい写真集全体での発行部数2位である、菅野美穂『NUDITY』を参考に挙げます。(いろいろセンシティブなので表紙が載ってないページを貼ります)

都内の古本屋なら複数冊売ってます。
それほどまでに売れた、いわば”ヌケるヌード”の代表例です。
様々ないわくがついている本書なので、詳細には触れませんが、まぁ確かにわいせつ要素が強い。

もう一冊。
こちらも篠山紀信撮影の『神話少女』。
参考リンクを載せたいのですが、本書は児童ポルノで引っかかるので詳細は別のリンクで。

とある場所で閲覧できるので、本稿を書くにあたって観てきました。
この一冊についても、この年齢の少女を撮る目的は一体…と考えると正直吐き気を催してしまうのですが、当時の倫理観的にはセーフだったのでしょう。
さかのぼって断罪することはなりませんし。
ただ、これもまたアートだったのです。
篠山をはじめとした写真家について、長島は以下のように記しています。

マーティンによれば、一九九〇年代の初期から中期、日本の写真において女性のヌードは、しばしば表現と議論の主題であった。露骨なヌードの出版、特に世紀と陰毛の描写を全般的に禁じる当局の検閲を受け、そのような仕事に拍車がかかっていたように見受けられたとマーティンは言う。当時、荒木経惟のような作家たちは、なにが出版可能かという限界を押し広げようと試みており、
(中略)写真集『Santa Fe』を撮影した篠山紀信のような写真家たちも、ある程度まではそうした検閲への反逆者だと考えられていた。

参考[2] p.304 より引用

表現規制という、ある種憲法によって保護されているはずの権利を侵害するものに対して、表現によって反発するというコンテクストは、アートの潮流であると言えるでしょう。
ただこの点については個人のプライバシーや時代の倫理観といった外的要因が複雑に絡むので、放置することもまた倫理に反するという、非常に難しい問題であることもまた確かではあるのですが。

どちらにおいても「別に脱いでいる必要はない」けど、「脱いでいることで価値が上がっている」ことも確かでしょう。
どちらかがアートで、どちらかがわいせつで、みたいなカテゴライズしたい人がいるなら、何かしらそこに恣意的なメリットがあっての発言では、と勘繰ってしまう性根の悪さを発揮してしまいます。
私自身は(生物学的・数学的なものを除いて)カテゴライズほど愚かな恣意性はないと考えているので、十把一絡げに「すべてわいせつで、すべてアートです」と述べます。

脱がないポートレートもまた搾取なのか

私が撮影のない期間でよく考えるテーマ。
「脱がないポートレートもまた搾取なのか」
ここで述べることは、少なからずポジショントークが含まれることをご留意の上お読みください。

前述のとおり、世には「若い女性には価値がある」という認識がどこか共有されているように思います。
他方、「歳を取ったのだから落ち着いたほうがいい」という論調も、逆に「歳を取っても美しいことは素晴らしい」ことも言われているように思います。

ここでもう一冊参考に引きます。
笠原 美智子 『ジェンダー写真論 増補版』。

本書ではこのような論が述べられています。

社会から、メディアから、教育から、観衆から、女性は絶えず<女役割>を、意識的あるいは無意識的に教え込まれる。受動的であり、感情的であり、主観的であり、非合理的であり、自然に根ざしている、といった男性の創った<女性性>を学ぶ。そして、そうした<女性性>に対し本来の自分が拮抗して居心地の悪さを感じた時、女性はダブル・バインドの状況に陥るのである。「男は自分の目で世界を見ているが、女は二種類の眼を使い分ける-男と同一化した目(自分のではない目)と、女としての目(自分の目)との両方で」。

参考[3] p.17 より引用

そして一方で、観る側、その写真を解釈する側の視点がある。写真に限らず視覚芸術は、観衆があって初めてそこに意味が与えられるのではなかったか。いかに解釈し、評価するか。解釈する側が彼女/彼の属する文化の在り方に依存する限り、そしてその文化が性差の別も問わないほど成熟しない限り、個々の作品においてその性差の重要性の比重が異なるにしても、芸術における中立性などありえない。

参考[3] p.19 より引用

本書では写真家について述べられていることを留保したうえで。
さきの「ヘアヌードブーム」しかり、写る側の女性って常に被害者なのでしょうか?と疑問を抱かざるを得ないのです。
男性によって作られた社会や倫理規範の被害者で、かわいそうで、自分の考えなど持てない存在なのでしょうか?

たしかにジェンダー論の勃興の過程においては、それまでの家父長的な、男性優位で女性が虐げられる時代の打倒が必要であったことは確かです。
女性が社会進出を遂げ、自己実現に向け、自らの意思で道を切り開いていくことを実現できる環境を作ることは、歴々のフェミニズムの方々がそうであったように必要であり、素晴らしい功績です。

翻って、そういった社会規範の是正が(以前よりは)解消の傾向にある現代においても同じことが言えるのか、と。
つまり、「妙齢の女性を写真に撮り、それを世に発信することは、男性の欲求を満たすために女性を消費する行動なのではないか」というフェミニズム的な論に対して、「そういった時代を経てなお、カメラの前に立つことを決めた者を背中から撃つことはできるのか」という話。

SNSが発達し自由に発表ができるようになった現在、ましてや匿名性が際立つようになった現代で、少なくとも発表側に求められる性役割は、これまでの時代と比較して多様化しているのではないか、というのが私の認識です。
服を素敵に着こなすファッションモデルでもいい。
プロポーションを生かして、水着や裸になってもいい。
一切表に容姿をさらすことなく活動してもいい。
その背景に強要・脅迫がないのなら、本人の意思によって「強みを生かせる」と判断したうえで取られた行動だ、と私は考えます。
それは性別に関係なく、一人の人間として平等に見ているから。
写るのが嫌なのなら避ければいいし、かりに見る側に搾取的構造があると批判するなら人間から欲を無くさなければなりません。

女性でおっぱい好きだって言ってる人いるくらいですから。

ただし年代や出自によるロールモデルやステレオタイプ的役割、性質でのバイアスやフィルターは存在するとも同時に考えています。
女性はかわいくアイドルチックに、男性はたくましい体もしくは中世的な韓国風アイドルのような。
それらはプロダクションのプロモーション戦略であると同時に、市井の人の公約数的な好みとのマッチングによって起こるトレンドであって、ファッションやグルメとなんら変わらない、搾取構造とは別のものではないかと。

写真は現状打開のための搾取か、自己表現か

篠山紀信がヌードモデルを公募した件で、アンケート結果に
四位「自分に自信を持つため」、五位「何かに挑戦したくて」
とありました。
私はこれを「ヌードが現状打破のための策」となったと見ています。

つまり、宮沢りえのブームに乗っかれば、自分の人生が好転したり、うまく行っていない状況を打破できるのではないか、と見た層が一定数いる、ということ。
写真というメディアには、(少なくとも当時は)それだけのエネルギーと影響力があるのです。

これは現代においても同様で、例えば2023年に開催直前で中止させられた水着撮影会の話の中で伺えました。
「体系維持もしてきて、衣装も買って、会場も抑えて、この仕打ちはない」として、グラビアアイドル自らが発信していたのです。
もし搾取構造があるのなら離れればいいだけですが、彼女たちは誇りをもって取り組んでいるのです。
人前で肌をさらすことが恥であると同時に、それを得意とする人もいることを認めることは、本来の意味の多様性でしょう。

グラビアアイドルとして大成できるのはほんの一握り。
それこそ週刊誌の表紙を継続して獲得できるレベルでないと一本で生計を立てるのは難しく、大半がバイトとの掛け持ち生活をしながらカメラの前に立っています。
それでも自分のプロポーションが武器になると認識していて、生きる道に選んでいる層が一定数いる
写真に写ることは、現状打破や大成することへの願望と同時に、自己表現でもあると考えます。

もう一歩進んで、一般のポートレートにおいても同様か、と。
これは持論ですが、ポートレートは手軽に不特定多数へ好意的な印象を植え付けられるツールであって、フォトグラファーはその幇助をしていて、現状を好転させるためであり同時に一つの自己表現手法である、と考えています。
ただし全面的に善というわけではなく、自分が必要としない言葉が投げかけられるリスクも同時に存在しており、誰にでも勧めてよいものでもないです。

結論と感想:『Santa Fe』とは何だったのか

一言で表すなら「時代の潮流を作った一冊」。
それが善か悪かの判断は難しいですが。

宮沢りえという人物を語るうえで欠かせない一冊であることは確かであって、日本の写真倫理、写真ジェンダー論において重要なファクター。
女性の裸を商業の潮流にのせ、女性を商品として消費する材に仕立て上げた悪の根源であり、同時に実在の人間が衣服を脱ぐことが表現につながることを示した開拓者。
アートの側面で言うなら、例えばバンクシーの落書きが高額落札されたとか、マネの『草上の昼食』が批判されるなどの流れが印象派の勃興につながるなど、それと似たようなターニングポイント。

正直、私が単にこの一冊を見たからと言って人生が変わったりしません。
比較するものではないですが、私にとってはビーバーさんの写真集の方がよっぽど写真界には必要な一冊だと思っていますので。

一つ言いたいのは、私は表現者さん、とくに女性を中心に撮っていて、常に搾取する人間としての振る舞いができる立場であることを自覚したうえで行動しています。
たとえそれが既に搾取しているのだという事実が無自覚にあったとしても、私は私のことを求めてくださる方のために撮るのです。
だからこそステレオタイプな女性像を避けるような表現をしているので。
男性に限らず誰かに媚びるのではなく、その人の素晴らしさを写真で表現するには、と(出来てるか否かの別はあれど)考えて表現しようと藻掻いています。

本稿を書くにあたって読んだ書籍や文献の知識は、無駄にはならないと確信しています。
あとは実践するだけ。
頑張ります。

おわり。

参考

[1] 現代ビジネス 「宮沢りえ『サンタフェ』の衝撃を、いま改めて語り合おう」https://gendai.media/articles/-/50272

[2] 長島 有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』大福書林, 2020 

[3] 笠原 美智子 『ジェンダー写真論 増補版』  里山社, 2022

関連記事


ご覧いただきありがとうございます! サポート頂きましたら、役者さんのコーヒー代、撮影機材への投資、資料購入費として使わせていただきます🙏