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桂千穂さんのこと

「桂千穂です。もうすぐ死にます」

 2005年の暮れにはじめてお目にかかったとき、ご本人の第一声がそれでした。
 その数年前に癌で余命1年だと宣告されていたにもかかわらず、当時75歳ぐらいだった桂さんはとてもお元気そうでした。ご近所にお住まいだったこともあり、それから15年近く、ときどき会って映画やミステリーの話をうかがいました。
 8月の半ばに亡くなって、すでにご親族によって葬儀などがすまされていたことが、先日公になりました。謹んでお悔やみを申しあげます。

 桂千穂さんは、文章を書くにあたってわたしが最も影響を受けた5人のうちのひとりです(あと4人は田村義進、東江一紀、蓮實重彦、寺山修司 [敬称略])。くわしいいきさつは15年前の《映画芸術》に書いた『多重映画脚本家 桂千穂』の書評に記し、旧ブログに全文を転載したので、興味のある人はそちらを読んでください。
 10代後半から20代前半のわたしは、桂さんのような簡潔で切れのいい台詞が書きたいと思って、シナリオの勉強をしていました。いま、翻訳のクラスなどで、「台詞は短ければ短いほどいい」「ことばは短ければ短いほど力を持つ」などとよく言いますが、その考え方の原点にあるのは桂千穂のシナリオです。

 学生時代に仲間と作っていた映画評論の同人誌を何度か献本していたので、桂さんが近所にお住まいであることは前から知っていましたが、お話しする機会はありませんでした。上記の《映画芸術》の記事を機に、桂さんがわたしに興味を持ってくださって、編集部の紹介で、はじめてふたりでお会いすることになりました。よりによって〈ホテル強制わいせつ事件 犯して!〉を絶賛するやつなんて、どんな変人だろうかとお思いになったそうです(変人ということにかけては、桂さんのほうが数段上ですが……)。
 それ以後、年に1、2回は近所の喫茶店で会って、古今東西の映画やミステリーの話を聞かせていただきました。電話をして待ち合わせたこともあるし、試写でばったり顔を合わせて、そのままいっしょに電車で帰ってきたこともあります(癌で闘病中でしたから、酒はお飲みになりませんでした)。桂さんのほうが年長ということで、毎回どんなことがあってもぜったいにコーヒー代を払わせてくれませんでした。若いころの思い出として、師匠の白坂依志夫さんから何百杯コーヒーをおごってもらったかわからない、その恩はけっして忘れない、などとよくお書きになっていましたから、ああ、いまは逆の立場を全うなさろうとしているんだろうなあ、と思いました。そればかりでは申しわけないので、一度自宅にお招きして、食事を召しあがっていただきましたが、かなりの量だったにもかかわらず、すべて平らげてくださいました。80歳を超えた余命宣告者とは思えませんね、と申しあげたら、大笑いして「いや、もうすぐ死にます」とおっしゃっていました。

 映画の話を山ほどしたのはもちろんですが、桂さんは筋金入りの海外ミステリー通でもあり(ポケミスを全巻そろえていらっしゃいました)、強者のミステリーマニアが集まるSRの会のメンバーでもあったので(そちらでは本名の島内三秀さんとして親しまれていました)、ミステリーについても数えきれないほど多くのことをご教示いただきました。
 桂さんは若いころにフランス書院の翻訳で生計を立てていたことがあります。大売れして印税も多くはいり、翻訳の仕事をそのまま生業とすることも本気で考えていらっしゃったそうです。「翻訳家になりたかった脚本家と、脚本家になりたかった翻訳家がこうやって話してるのは不思議なものですね」とおっしゃっていました。
 去年の暮れあたりにお見舞いにうかがう予定でしたが、直前にやむない事情で出向けなくなり、その後連絡が途絶えて、そのままになってしまったのが残念です。

 最後に、桂千穂作品の私的ベストテンを掲げます。映画としての出来だけでなく、シナリオに「桂千穂らしさ」がよく見られるという点を加味したもので、順不同です。

  鏡の中の悦楽
  暴行切り裂きジャック
 (秘)ハネムーン 暴行列車
  色情妻 肉の誘惑
  ホテル強制わいせつ事件 犯して!
  HOUSE
  廃市
  ふたり
  花筐/HANAGATAMI
  俗物図鑑

 あらためて、謹んでお悔やみを申しあげます。
 桂千穂さん、長いあいだ、ありがとうございました。

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