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20年来の推しが更新されない世界で

20年来の推しが活動休止して、半年が経つ。

そもそも推しが休むことに関しては心の底から納得していて、ここまで走ってきてくれたことには感謝しかない。それに、自分たちで幕引きができることにもありがたさを感じていて、だから活動休止を選んだことについてとやかく思うことはなかった。

それに実際のところ、実感もなかった。活動休止を発表してから2年間、これまで以上に忙しくしている彼らを見続けていたことで、大晦日にどかーんと大きな花火を上げて光が消えたあと、自分がどう思うかなんて想像できなかったから。

彼らは20年以上もの時間、それこそ病めるときも健やかなるときも、わたしの生活の一部として存在していた。多感な10代も社会に揉まれた20代も、そして今も、ありがたいことにずっと活動してくれていたから、わたしの人生の中で彼らがいなかった時間のほうがもはや少ない。なんとなく不調だったときに「あ、推しの歌最近聞いてなかった」と気づくこともあった。彼らの歌を聞けば気分が自然と上がったし、推しが原因で病んでいたときも結局は楽しそうな推したちを見ていたら悩みがどうでも良くなったりもした。どんな薬より効果的、なんてうまく言ったものである。

そんな20年もずっと生活の一部だった推しが、半年前ぱたりと更新されなくなった。更新されなくなることはわかっていたけれど、理解はしていたけれど、実際にその世界を生きてみたらどうにも生活の張りみたいなものがなくなっていた。それでも個々人のレギュラー番組は続いているからどーんと喪失感を感じることはない。けれど、じわじわと寂しさや虚無感みたいなものが浸透して大きくなっていたことに半年経って気づいた。

わたしが中でも推している人は週に何本もレギュラー番組があるしドラマもやっていたしCMキャラクターだってやらせてもらえている。けれど、それでも、どこか虚空を見つめている気分に苛まれる。そして、その推し本人がメンバーと番組で共演するたび明らかにテンション上がっているし、うれしいんだろうなあと感じられるから、余計に胸がぎゅっとしてしまう。推し本人にとっても、きっと他では埋められない気持ちがぽっかり空いているんだろう。

少し大げさになるけれど、20年来の推しをなくすのはずっといっしょに生きてきた幼なじみをなくすことに似ているのかもしれない。幼なじみがいたこともないし、例えが大げさなのかもしれないけれど、でも、そのくらいに他のものでは埋められない空がぽっかりしているのが、推しがお休みして半年経った今のわたし。20年来の友人もいなくて18歳で親元を離れたわたしの生活に20年以上ある人たち。ただでさえこの世界に冷めているわたしが10代の思春期前、感性がまだふにゃふにゃだったころに出会って、そのままズブズブとハマってしまって居着いてしまった沼だ。その沼と同じようにハマれるものと、この先出会える気もしないからたぶんこの空虚が生活の一部になって、このまま時間が経つんだろう。

だからと言って、活動再開してほしいかと言われるとちょっと違う。推しがすこやかに生きられたらそれでいいので、無理に再開してほしくなんてないし、なんならもうこのままでもいいとさえ思う。


数日前に、活動休止前のライブ映像が1曲だけYouTubeに上がった。久しぶりに見た推したちが歌って踊る姿を見て、これまで半年間低空飛行を続けていたわたしの気持ちそのものが、上昇気流によってぐぐぐっと上がっていくのを感じていた。ああ、これなんだよなあ。好きだったんだよなあ。もうこんなふうに昔の映像を見て懐かしむことしかできないのか、と寂しい気持ちもあったけれど、この先同じようなときめきを人生で得られることはないんだろうなあとも悟ってしまった。

たぶん、この喪失感を噛み締めながら、わたしは生活を続けていくんだろう。だけど、それは決して寂しいことじゃない。

半年経った今は、そんな感じです。




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