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非言語という、救い
花になれたら……もの言わぬ 決して誰も傷つける事のない花に
GLAYの、TAKUROの書く歌詞には「もの言わぬ花」という言葉が、いくつかの曲に出てくる。TAKURO氏は、言葉がなくてもそこに咲いているだけで人が笑顔になる花を神の化身として書いていたり、インタビューでもそのワードを何度が出していたりしていた。
たぶん言葉というツールの限界みたいなものを感じていたんじゃないかなあ。学生のころのわたしは勝手にそう解釈した。
そのころTAKURO氏はラジオで「メールで友達とけんかした」というリスナーからのメールにこんなふうに返答していた。
この方がどれほどの文章力かわからないけど、ケンカするほどの内容を文字だけで伝えられるとは思えない。文字だけだから意味なんて何万通りにも取れるじゃない?仲直りしたかったら今すぐ息切らして会いに行け!(意訳)
言葉や文字を扱うプロに、文字という記号に感情や思いを完全に持たせることはできないんだと言われた気がした。
そして最近のTAKURO氏は、インストゥルメンタルのミニアルバムを発表している。しかも常に変わっていく思いを音楽に乗せるジャズに寄った音楽を演奏する活動をしているらしい。作曲家として常に音楽のそばにいるとはいえ、作詞家として「愛読書は広辞苑」と言っていたTAKURO氏が個人ワークでは言葉じゃなく音楽を選んだ。彼がかねてより「もの言わぬ花」に思いを馳せていたことは彼の歌詞を聞いて感じていたから、なんだかひどく納得してしまった。言葉を突き詰めた結果、非言語の表現を選択する。これはひとつの真理なのかもしれない。
文字は、言葉は、全能ではない。人の気持ちのすべてを表現するためには言葉だけでは足りないことを、あらためて突きつけられた気がした。
そんなことを突きつけられた現在のわたしの職業は、皮肉にもライターだった。文字を書く、言葉を扱う仕事をしている。
でも、言葉というものはなんて人を傷つけるんだろう。そんなふうに、少しやるせなさを感じていた。もちろん反対に人を大いに救うこともあるんだろうけど、それよりも正義の押しつけとか、正しさの暴力とか、そういうものに正直疲れてしまっている。
あのころわかったように思っていた「花になれたら」という歌詞が、何度もリフレインしていた。
いつからだろう。言葉を紡ぐことが楽しくなくなったのは。検索流入のため、情報を正しく伝えるために書く。……正しさとは、なんなんだろう。
はじめはだれかに読んでもらえることがただただうれしかったはずなのに、文章が窮屈になってきてしまったんだ。そして、それを軽やかに超えられるような強さも力もしなやかさもない自分がもどかしい。そんな日々が続いていた。
もちろん仕事だから楽しいとはまた別の次元でやることはやらなきゃいけない。わかっている。
そんな中で、先日趣味でつくったアクセサリーをたくさんの人に褒めてもらう機会があった。自分がいいと思ってつくったものを純粋に「いいね!」と言ってもらうのは、うれしかった。
アクセサリーは、わたしにとって音楽みたいだった。
気に留めてくれる人の気持ちをときめかせ、むやみに人に正義を押し付けない。基本的にだれも傷つけないそれは、いまのわたしにとって救いだった。
強さやしなやかさはまだ無いけれど、自分のバランスで文章と非言語的なものを使いながら世の中の波に乗っていけたらと、最近は考えています。
でも結局はこうして文章でそれを伝えているんだから、もうこれはwordholicとかsentence holicとか、そういうのなのかもしれないね。
5月が近づく。新緑の季節。花も、たくさん咲くのだろう。
そんな花をむやみに考えすぎずに「きれいだな」と穏やかに思える余裕を持つためにも、わたしには非言語の時間が必要らしい。
平成のおわり、わたしはそんなことに気づいたのです。
読んでもらえてうれしいです!とにかくありがとうと伝えたい!