釈迦と苦しみとフランクル、時々労働
現時点の理解なので、多分に誤解があるかもしれません。
執着に固執して考える
諸行無常とはどういったものか
あらゆるものはすべからず滅びる
自分の外側はコントロールができない、変化する
自分自身も変化し、滅びる
そういったコントロールできないものに執着することは、最終的には苦しみを生む
一切皆苦(全ての物事は苦)
釈迦は苦しみとその解放を四諦で説いていた
欲望とはどういったものか
外に向かう
外に対しての支配や変化、作用を与えたい
社会的影響に関わる度合いが高まる
欲望・執着・実現性・苦の関係性
欲望が大きいほど執着が強い。比例関係
欲望が大きいほど、実現性が低くなる。反比例関係
欲望が大きいほど実現性は低いため、執着がより大きくなる
何度も求めているのに手に入らないため
大きい欲望の実現(大きな社会的成功)には執着を必要とする
以下はどちらも強迫観念/obsession
Amazonの理念の1つであるCustomer Obsession
Elon Muskはある種の強迫観念にかられている
彼らは運と遺伝的資質と実力があるため、それを実現できているとおそらく考えられる。しかし、多くの人はそれを実現できない
執着が大きいほど、叶えられない場合の苦しみが大きい
欲望は必ずしも執着ではない?
欲望を持つことが執着への道に続いているのは確か
釈迦は縁起という形で表現しているが、要は因果のこと
因果を観じて、原因を手放すことを説いていた
縁起の話がなされるということは、原因を手放すことが重要であるということ
そうなのであれば、執着の原因の1つである欲望を手放すことが重要であるということ
それを言い出すと、苦を生み出すあらゆる根源を滅する話になってくるがこれはどうなんだろう。極論だが、自殺や反出生を支持することになってくる
とはいえ、大事な点として、欲望を無理に抑える話ではない
執着が大きいほど抑え付けた後の反動は大きい
問題なのは執着であって欲望ではない。確かに欲望と執着は相関性はあるが。
重要な問い
如何にして不必要に欲望を増やさないようにするか
世俗や外界との接点を少なくする、離れる
資本主義で染め上げられたネットは、ヒトという動物性アルゴリズムの脆弱性を容易くハックする。ヒトの自由意志はアテにならない
価値判断/評価軸を外側に寄せない。また、比較しない
外界は無常である。無常なものに委ねるのは苦
比較しないというのは、他者との比較だけでなく、過去や未来の自分との比較も含む
現時点で執着に近い欲望を持ってしまっている場合、どうすれば手放すことができるか
欲望を叶えようとする
運が良ければ実現できる
運が悪ければ執着が増え、苦しみが大きくなる
(外界に触れることで)今の欲望よりも大きい欲望で執着先を入れ替える
借金をより大きい借金で返すのと同じなので、いつか破滅する
(外界に触れることで)他の欲望を複数持って、執着を分散させる
気を紛らわせることはできる
執着が大きい場合は限定的
上記以外の方法で、執着を手放す
執着をどうにかする
理性を用いて(=言語化を繰り返す)、執着の対象と原因/理由を捉える
欲望の大きさを小さくする、欲望を分解することで、執着を解体する
執着はそのままにする
(瞑想で徹底的に観ずることで)諸法無我(あらゆるものは我ならざるもの)を認識し、執着はそのままに切り離す
釈迦の教えが行き着く先はどこなのか
必ずしも欲望は否定しないものの、欲望の否定と捉えられかねないのではないか?(釈迦が欲望も否定しているのであれば、話はここで終わるが。。)
欲望を持つことが執着への道に続いている。執着は苦に繋がる。
縁起の話と釈迦の教えから、因果における原因を滅することが重要である
欲望=現代社会
欲望は資本主義の根幹である
欲望を糧に(資本主義は)成長がある
現代社会は資本主義を前提とする
現代社会での成功は資本主義での成功を大なり小なり意味する
現代社会での成功/発展/イノベーションは、執着やこだわりを必要とすることがある
上記より、釈迦の教えは現代社会そのものと相容れない部分があるのではないか?
また、いわゆるミニマリストや社会不適合、脱成長のような生き方に行き着いてしまうのではないか?
日本人は葬式仏教で一部なりとも仏教に触れている。
日本人の多くは反社と言えるのか
追記:「責任」もownershipという意味で、自我と関係がありそう。責任をとって首にするとか、腹切りとかも自我を自分以外に拡張した結果なんだと、ぜんにびさんの投稿を見て思った。経営者/幹部や重役に登る労働者は責任の倍々ゲームを強いられる。倍々ゲームで捻出した責任を担保にお金を引き出す感じ。それを現代社会だと良しとされている気がする。だけど、責任って概念は虚構だよなと。ヒトにしかない概念なんだろうか、猿にもイルカにもあるんだろうか。もし責任が自我と同義なのであれば、自我の範囲を広げてそれに耐えるという社会の美徳 (?) は、釈迦の諸法無我と真逆のように思える。
https://note.com/zenbyo/n/nef5b82044fa1
フランクルと釈迦
苦しみには意味がある
ヴィクトール・E・フランクル
どんなに苦しい状況に陥っても、生きることには意味がある
苦しみにも意味があるということ
態度価値を説いた
人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である
それでも人生にイエスと言う
一切皆苦
釈迦
諸行無常
全ては無常である
一切皆苦
形成された全てのものは苦である
諸法無我
一切の事物は我ならざるものである
捉え方の違い
どちらも苦しみに対しての洞察がある
しかし、フランクルと釈迦で苦しみに対してのスタンスが真逆
そしてどちらも洞察に対して、ネガティブな態度ではないということ
どちらをとっても、真理・智慧
労働という苦
今の私に限っていえば、生存に困っておらず幸福は十分認識可能である。
山の斜面ではなく、既に丘に到達している。
残るは苦である。例えば労働。アンチワークでいうところの強制された営み
いろんな選択肢
資本主義=能力主義のため
能力を高めて、労働苦を感じないほどに簡単にさせる
能力が見合ったところに環境を移す
様々な労働に手をつけて、苦でないものを引き当て、移転する。
youtuberとかそういう類も含まれる
生活コストを見直し、労働日数を減らす。つまり、苦の量を減らす
どうにかして労働の捉え方を変える。Mになって、苦を快とする
経営側に立ち、強制状態/常態から脱却する
起業
事業継承
株や暗号通貨、ギャンブルで一発当てて、投資家に回る
結婚して、主夫/主婦になる
ホームレス。炊き出し
社会に寄生する
ナマポ
誰かのヒモ
事故る
この世界からフェードアウトする
アンチワークの推進とBIの推進活動をして、BIの導入を早める
AIが労働を駆逐して、苦からの救済があるまで待つ
瞑想する。労働は労働であり、救いはなく、苦を観じ、労働を続ける
こうやって、いろんな選択肢を可能な限り洗い出すことで、苦を粉飾
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