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知恵の遙かな頂

「あおいのきせき」は、全体どこからやってきたのでしょうか。
日本語、という言葉で書かれた、そこに含まれている叡知の源は那辺にあるのか。

勿論、身を粉にして、記憶をなくすほどの遠くへまで意識の旅をして、マッキントッシュのキーボードを叩いたのが僕であることは紛れもない事実です。

では、知恵は僕の中にあったのでしょうか?
(まさか!まさか!本の装幀を注意深くご覧下さい)

意識というものが記憶に縛られた閉じた世界であるとしたら、これはまったく説明がつきません(☞「説明がつく」については「あおいのきせき」の特に第四章を是非ご参照ください)

この問題(知恵の泉のありか)についての深い考察については、「あおいのきせき」そのものに当たっていただくとしまして、

そう、「精神のリレー」です。

「精神のリレー」につきましては、過去こちらのサイトにおいて、いくつかのトピックを書かせていただきましたが、「精神のリレー」その全てを語ることは、途方もない困難を伴います。というか、少なくとも今の僕には無理。語り尽くす、ということの困難に似ています。

さて、「知恵の泉」を守っていらっしゃる方々、その途方もない価値そのものを生業にしていらっしゃる方々との、個人的な、不思議なご縁につきましてを、記しておきます。

「あおいのきせき」を書き上げた直後の、2002年(平成14年)或いは翌年のことだったかもしれません。僕は父親から、白くて長い不思議な端布のようなものと、一冊のご本を一緒に譲り受けました。

それは、
「知恵の遙かな頂」という表題の、ラマ・ケツン・サンポ師の自伝と、その師から直々に頂戴した「カタ」というありがたい贈りものであったのですが、また一体どうして?

父に訊くと、師の歯科治療にあたったお礼に父が代表して頂いた、ということでした。

驚きました。
驚いたように思います。当時の記憶があまりはっきりしないことは、こちらで過去散々書かせていただきましたが、この一件についても同じようです。

そのお礼の品をまた父は何故僕に手渡す気になったのか。
いずれにしても、驚いて、有り難いと思って、いまも、そのご本は机の上に並んでいます。

表紙をめくると直筆の文字が並んでいるのが判ります。判るのですが、読めません。

勿論、当たり前ですが、翻訳なさった中沢先生なら意味が判ると思います。

不思議なことに、その前年の2001年に僕は中沢先生のご本に、知人を介してサイン(と一言)を頂いた事があり、それも同じ言語で書かれている(ように見受けられる)からです。

僕の手元には、ご本に著者から一言とご芳名を書いていただいた、所謂「サイン本」は、上の二冊と、あともう一冊があるのですが、その三冊は今も机の上に大事に並んでいます。

はじめにチベット仏教を学ばれ、今を生きる日本の偉大な思想家と、その人が師と仰いだ先生から、まったく別の機会に「偶然」に頂きましたサイン入りのご本と、あともう一冊のサイン本は、辰野勇さんのご本です。

辰野さんは、アイガー北壁を制覇なされた後に「株式会社モンベル」を創業された、ご存知、日本が誇る偉大な冒険家かつ経営者です。 

数年前に、横浜でモンベルフレンドフェアが開催された折に握手と一緒にサインを頂きました。

最近、岩合さんのネコ歩きの番組にお出になっているお姿を、微笑ましく拝見致しました。
登山という「死の結節点の限界を探る作業」

を潜り抜けて手に入れられた「生」の「本質」を「生業(株式会社モンベル)」へと見事に美しく「変換」なさったという希代稀有なアントレプレナーである事を微塵も感じさせないお姿に、また畏れ入った次第であります。

僕はほんとうに偉大な「何か」に心からの敬意を抱いている人にすぎません。

一聞しただけですと、或いは非科学的に聞こえるような話もしますが、そもそも非科学を科学に押しこむ事に成功したとも言えるのが「あおいのきせき」です。

問題は、
所謂正統な学会を有する「科学者」コミュニティが、「非科学」を深い論考もなく「門前払い」した結果、それらが「全て」所謂「新興宗教」コミュニティに回収されてしまい、"勝手放題"にされてしまっている現状にあります。

(それが一体何処のジャッジなのか、その大本を注意深く探ってみますと、漸く原田武夫氏のいう所の「アカデミー利権」というモノと、多種多様な"マスコミを騒がせるワールドニュース(世界規模の出来事)"の根本の理由がその「アカデミー利権(≒詔)」を巡る争奪戦である事が明らかになる訳ですが、その話と「あおいのきせき」の隠蔽工作とが深く関係しているという話は、いずれまた。)
∴デッカイハナシ、なのです。

「あおいのきせき」の周知により、そういった不幸な状況が劇的に改善される事が期待される訳ですが、それでは経営的に困る方々の妨害意欲の強い動機付けにもなる、という訳なのです。

科学と非科学の境界=グレーゾーンに巣くって都合の良い詭弁を弄して"活動"している(科)学者も同罪です。或いは彼ら彼女らは、(科)学者の肩書きをもっただけの"信者さん"というべきなのかもしれませんが。

個人的には、ハッキリ申しますと特段の宗教に帰依しているわけではありません。(辰野さんも、ご著作の中で同じ事をお書きになられていらっしゃいました)

ただ、生意気を申せば、「行って持ち帰った」事のある人として、「願えば叶う」とかなんとか緩いことを宣って、人類の叡知をふみじって平気でいる人間のなんと浅はかな事かを十分に理解する心は有しているつもりです。

皆で13回目へ。いざ。

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