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義理と人情について

こんばんは、


玄関を開けると、金木犀の香りがふわりと鼻をくすぐる。

いよいよ秋だなあ、と感じた今日のお昼。


金木犀は、なぜあんなにもいい香りなのか。

あんな香りを身体から発するおじさんになりたい



と、それはさておき。

好きな映画のひとつに「ヤクザと家族」がある。

初めて見たのは、2021年2月。号泣した。

NETFLIXでも見れるようになったので、2021年8月に2回目。今度は大号泣だった。

あらすじ等は書かない。面倒だからね。

百聞は一見に如かず。ぜひ見てほしい。エンドロールまで。




あれ、今日は映画を勧めるだけですか?

否、それもまた一興ではあるけれど。


では、何が言いたいのか。

それは、タイトルにもあるけれど、「義理」と「人情」について。

生きていくうえで、”大事にしなくてはいけないこと”である。



人はひとりでは生きていけない。

そして、生きていく中で他人に迷惑をかけるかもしれない。

そして、ある他人は、それに寛容になってはくれないかもしれない。

一方で、寛容な人もまたいることだろう。


では、どっちを大切にするか。

当然、後者である。


その寛容な人が、何か困っている。

私にできることはないだろうか、と考える。

何か恩返しできないだろうか、と行動する。


自分以外の誰かのために、深く思慮し、考動すること。

簡単に言えば、それが「義理」なのではないかと思う。




では、人情とは。

先ほどの例でいえば、他人からの迷惑に対して寛容になること、だと思う。

人はひとりでは生きていけない。(大事なことだから2回目)

だからこそ、迷惑をかけられても寛容な他人の存在が大切なのである。



つまり、「義理」と「人情」とは、

自分のことを大事にしてくれる他人を大事にして、自分は多くの他人を大事にしようぜ、ってこと。

簡単なことじゃあない。むしろ面倒だよね。

でも、「大事なことって大体面倒なんだよ」って宮崎駿も言ってたし、

それってあながち間違いじゃないと思う。



(できるだけ)他人に迷惑をかけちゃいけない。

ごもっともではあるが、それは同時に義理と人情から遠ざかってしまう気がするのだ。

かけられる程度の迷惑であれば、かけちゃえばいいじゃん。



私は、図々しく生きていくと決めている。

その分、他人に優しく、寛容にいることを心掛けなきゃね。



新しい1週間の始まり。ワクワクするな。


それでは。

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