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「虹」と揶揄するマヌケたち

性の多様性条例

すでに全国の各自治体で成立している「性の多様性を尊重する条例」あるいはそれに類するものは、その多くが差別禁止を掲げたものだ。この10年間で、60以上の自治体で同様の条例がつくられてきた。そして禁ずる差別として、就職や住居の差別などにくわえ「アウティング」を挙げているものがある。差別の状況を説明するために書かれた「性自認」という言葉。その条例ができたことで、痴漢は増えただろうか。
杉並区で今回成立した「 杉並区性の多様性が尊重される地域社会を実現するための取組の推進に関する条例 」(以下略称、性の多様性条例)も、アウティングを禁じている。そしてアウティングを被るものとして「性指向」「性自認」を明記し、この文言の説明をつけている。性指向、性自認を本人の承諾なく暴く「アウティング」が、現代の日本社会においては不利益を生じさせる、差別的扱いを生じさせるため、これを禁じているのだ。

アイデンティティ

性自認は gender identity の訳語であることは知られているとおりだ。これについては詳細を省くが、ジェンダーに限らず一般的なものとして、アイデンティティの獲得は決して「自分がそういったからそうなる」というようなものではない。
性自認について、私感では「心の性」という文言が誤解を広げていると考えている。心と身体、それは分かちがたく実際には一体のもののはずだ。これも社会が陥っている悪しき二元論なのではないか。そしてシスジェンダーにも「性自認」が「ある」ことを多くのトランス差別者はあえてか知らないが見過ごしている。それはトランスジェンダーに投げかけられるのと同様に、「客観的に証明できる」ものだろうか。
「自分が女といったら男が今日から女になる」意図的なこの誤謬が、トランスジェンダー差別のデマとして多用されている。これを理解していないひとは、どのように自分のアイデンティティができあがっているのか考えてみた方がよい。疑問を持つことなくアイデンティティにたどり着けているなら、それはある種の特権に守られているからだ。アイデンティティは自己決定のなかにあるものだ。アイデンティティのため他者や社会との同一性を鑑みるのは当然だが、規定できるのは自己決定によるものだ。身分を騙るようなものとそれを混同してはならない。「わたしがこのようにしてわたしであることが、わたしをわたしたらしめている」という自己規定がアイデンティティなのだ。それは確信であり、同時に強い訴求や切迫とは別の状況で次第と流れ込むようにたどり着くものでもあるだろう。アイデンティティのかたちづくられ方も様々あるのだ。
他者のアイデンティティを認めないことは、他者の尊厳の否定であり、人権侵害にあたる。つまりこれは差別だ。そして、トランスジェンダーという立場特有の人権があるわけではない。誰もが同じく人権を持っている。トランスジェンダー特有の状況があるために、そこになにか自分とは違う人権が存在しているよう勘違いしているなら、それは間違いだ。

差別とは

前提として、差別とは「特定の属性に基づき不利益を強制する行為」のこと。差別には制度的な差別に加え、個人による憎悪感情の発露も挙げられる。前者は制度を改善することで再分配を是正することができるため、行政に働きかけがされてきた。後者は憎悪の表明だが、その表明は他者に受容され連鎖することによって煽動となる。その表明は、対象を社会から切り離し孤立させ、対象の尊厳を奪う行為となる。憎悪により特定の属性を悪魔化することは、また制度的差別を温存することにつながる。悪魔化のなかではその属性に瑕疵があるようにデマが喧伝され、制度が不公平なままであってもそれはしょうがないことだと、不利益をその属性の責任に被せることが行われるからだ。
これが差別だ。

差別のステレオパターンなのだが

性の多様性条例は、前述のようにアウティングを禁じているに過ぎず、そこにはトイレ・風呂の取扱いは明記されていない。にも関わらず一部の者はなぜそれを言い出すのか。
それは、国際的にもトランスジェンダー差別の典型となっており、トランスジェンダーに対する嫌悪を持つ者が、その嫌悪(そして差別)を正当化するために持ち出すお決まりのパターンだからだ。女性の安全を持ち出すことで、それを聞いた人権知識の乏しい者がトランスジェンダー差別に引っかかってしまう、その効果を狙ってされているものだ。他者への知識の乏しい者、少数者が被る困難に無関心な者が、いともたやすく煽動され、トランスジェンダーへの嫌悪に共感してしまう。これは繰り返されてきた差別の手法だ。もちろんこれでは循環論法に過ぎないため、もう少し説明を加える。

もし女性トイレで (条例の核心にあるアウティングの禁止)

もし女性トイレに、あなたから見て「女性にみえない」人物がいた場合、あなたはそれを誰何し女性かどうかを確認する手立てはあるだろうか。
仮にその人物が、シスジェンダー女性だった場合。不審に思ったあなたはまず誰何し、自己申告を求めるだろう。そして答えに納得できなければ服を脱がせて、身体の形態を確認しようとするだろうか。この確認行為はどの層においても「プライバシーの侵害」である。つまり人権侵害であり、他者の尊厳を尊重しない行為として非難されるものだ。
では仮に、その人物がトランスジェンダー女性だった場合はどうだろう。どのようなかたちで確認をしても上記の場合と同じく(つまり自己申告を求めようが、服を脱がせようが)、これもプライバシーの侵害となる。トランスジェンダー女性のみが、プライバシーの侵害を受けてもやむを得ないと考えるなら、それは人権という考えへの理解が足りないのだ。つまりこれは差別だ。
同時にこの行為は、トランスジェンダーに対しては「アウティング」となる。他者が勝手に「性自認」を暴くことは、即ち禁じられるべきアウティングだ。性的少数者が被るアウティング被害は、社会がもとから排他的な本質主義でできていることが背景にあるだろう。この背景が変われば、アウティングが被害とならない状況が生まれると考えるひともいるかもしれないが、その変化を待っているわけにはいかず、目の前で起こる差別としてアウティングは許されない。
「女性にみえない」「トランスジェンダーかもしれない」それらはどれも、このような人権侵害を引き起こす。他者は他者として存在し、現実に生きており、それはあなたの都合にあわせてはくれない。あなたが誰かの都合にそって生きていないのと同じく。その程度の理解ができない者は、稚拙であり、やすやすと差別に手を出すのだ。他者の尊厳を尊重することが理解できていない。つまり人権を理解していないのだ。
この社会は家父長制を引きずっており、女性蔑視や性被害はそれを背景としているだろう。性被害は不当なものだ。だから、女性が性被害の恐怖を語ることは理解できる。だが、そのことは他者の人権侵害を正当化しない。あなたの恐怖は、誰かの性器の形状とは関係のないものだ。同じ空間に恐怖する形状の性器がもし存在していたとしても、それは排斥できないし、してはならない。ましてやそれが公共の空間であるなら、なおさらだ。あいつは気持ち悪い、あなたがそんな内心を持っていたとして、その発露を正当化できる状況などない。その発露は、偏見以外の何物だというのか

オリンピックでの身体検査

ちなみに、オリンピックにおいてトランスジェンダー・アスリートの参加資格が問われる過程で、女性かどうかの身体検査が行われていた歴史をご存じだろうか。見分けのつかないトランスジェンダーが混じっているかもしれないという考えから、多くのシスジェンダーの女性選手も目視の検査を受けていた。これが人権侵害にあたると非難されたことで、このような検査は廃止された。トランスジェンダーを見分けるために身体検査することは、すでに歴史のなかで否定されてきたことを学ぶべきだ。そして、シスジェンダーが非難したことでこれが廃止に至ったなら、そこに差別的状況があったと認識すべきだ。マジョリティが声をあげて初めて差別に気づくのでは、すでに差別にあっているマイノリティにとっては遅いのだから。

言い掛かりの言説

このようなことを踏まえて人権侵害とならぬかたちでの防犯を考えるなら、それは検討すべきだろう。だが、その場合の「性犯罪者」が、イコール・トランスジェンダー女性でないことはいうまでもない。ましてや、性の多様性条例にあわせて検討されるものではない。そこを引きずられるなら、差別煽動や差別に基づくクレームにまんまと乗っかってしまうことになる。この点は強調しておきたい。防犯を検討するなら、犯罪者を対象に考えねばならない。それが原則なのだ。
繰り返すが「性自認」は禁止すべきアウティングを説明するための一文として、性の多様性条例のなかで明記されているに過ぎない。性の多様性条例はトイレ・風呂をなにひとつ規定していない。条例にかこつけて持ち出されるトイレ・風呂の問題は、トランスジェンダーの排除を願うものであり、その時点で差別であることが理解できるだろう。それがどれだけ「女性の安全」をうたおうとも、結果的に言い掛かりなのだ。条例にはまったく関係がない。関係がないばかりか、条例が禁じている差別事案(アウティング)を引き起こしかねないものだ。つまり、この言い掛かりは差別となりうるものであり、また条例の立法事実となりうるものといえるのではないか。

人権

トランス差別に引っかかってしまう者は、トランスジェンダーがどのように生活を送っているかに関心を持とうとしない。トイレはどのように選択しているか、風呂はどうか。実際にさまざまな生活の実態を聞く必要がある。トランスジェンダーは均質な一群ではない。個人個人それぞれが、その状況・環境に応じてさまざまな生き方をしている。ステレオタイプなものをみて分かった気になっているなら、それではまるで足らないのだ。
だが生活の実態を聞かずとも、人権という概念を理解していれば少なくとも上述したような人権侵害が不当なものだということは、分かるはずだ。
これまであなたがトランスジェンダーに気づかないでいたのは、トランスジェンダーが波風を立てないよう目立たないよう生活を強いられてきたからだということは、よくいわれていることだ。そしてそれを強いるのは、あなたを含むこの社会が狷狭な本質主義・性別二元論で営まれてきたからだ。それは、トランスジェンダーに限らずシスジェンダーもが克服を願ってやまないもののはずだ。もちろんフェミニズムが闘ってきた相手もそれだ。だが、トランスジェンダー差別を行う者たちは、この狷狭さの肥溜めに引きこもり、性別二元論を、家父長制を、結果的に強化している。女性のためといいながらされるこの転倒は、女性の解放を阻害するし、個々の人生の選択肢を狭めるのだ。

恐怖される一群

考えてみて欲しい。誰何されることを前提として生きるひとたちのことを。外国人登録証の携帯を強要されるひとたちを。アウティングに怯えながら生きる外国籍や被差別部落を。疾患や障害を持つ家族の存在を結婚相手に隠さねばならない状況を。そのようなさまざまな被差別の状況と、トランスジェンダー差別は似たかたちを持ち、同時に特有の違い、個別の物語を持っている。そしてさらに個人それぞれの別々の物語を持っている。想像が働かないなりに、勉強しひとつひとつの差別問題を並べてみて、似た構造、違う物語を自分なりに整理して勉強しなおしてみるべきだ。
それら差別の被害を受けるひとたちは、いつも「恐怖」の対象として物語られてきた。トランスジェンダーを「恐怖する」ことは、差別の典型をなぞっているに過ぎない。特定の属性を犯罪や治安紊乱に結びつけることは、差別なのだ。

差別するあなた

人権について理解し、トランスジェンダー差別はシスジェンダー含めたすべてのひとの生きる社会を破壊することを理解して欲しい。それでもなお、あなたが「トランスジェンダーは別」と考えるなら、あなたが強い偏見・差別意識を持ち、それを克服できないでいることを疑った方がよい。それはトランスジェンダーの問題ではなく、差別者であるあなたの問題に過ぎない。



補記
今回杉並区では現職の一部の議員が、条例を否決させたい者たちのロビーに感化されたか、あるいは元より偏見を持っていたか、条例の主旨を理解せず無関係なトイレについての質疑を行っていたようだ。区担当者の答弁は聞く限りかなりまともなものだった。このテキストはそれらに向けてある程度かみ砕いて書いたものだが、特にあなたたちの行いがアウティングを引き起こすことを理解していただきたい。そして、散見された差別を拡散するロビー団体に対して、議員のみなさんには耐性を持ってもらいたい。差別煽動は「扇情」を持ってされる。情のまえに理性は儚いものなのだろう。本当にそれが弱者であるならばともかく、それが聞くべき情なのか、もう少しセンスを磨くべきだ。そしてなお扇情の肩を持つなら、あなたが元から偏見を持っているか、ポジショナリティを意識して立ち振る舞っているかなにかなのだろうと思う。また、岸本区長を攻撃したいためにトランス差別を展開している者もあっただろう。恥知らずとしか思えない。立憲、共産、いのち・平和クラブにくわえて公明党も賛成にまわった。そして自民党は自主投票に任せたと聞く。条例の可決が社会の潮流につながることを願う。

トランスジェンダー差別は、家父長制・復古的家族観を持つ保守に加え、女性を常に搾取される弱者とみなす極左勢力からも行われている。そのため、自称リベラルやフェミニストがネトウヨに混じって参与する状況が生まれている。人権を否定したい者、人権を曲解したい者、どちら側からもトランスジェンダー差別が行われていることを、強く意識するべきだ。

また、杉並区は選挙活動においてヘイトスピーチを許さない姿勢を示した。すでに2019年に法務省はこのことを示しているが、実効力のある対応を杉並区には期待したい。選挙活動とは当然、事前活動も視野に入るだろう。これによって街頭で叫ばれるヘイトスピーチがなくなることを期待する。「表現の自由」を担保するためにもヘイトスピーチがなにかを峻別し、それを糾していかねばならない。

もちろん、このテキストでは語り足りていないことが多々ある。関心をもった方には自主勉強をお願いしたい。特に、トランスジェンダー個々の生活がさまざまなものであることを、知っていただきたい。

語り足りていないこと、例えば、LGBTからTだけは別と引き剥がす差別言説。これもステレオタイプなもの。Tだけといっている者が、Tの排除に勢いづいてやがてLGBにも攻撃を向けることも、目撃できると思う。
また、例えばトランス排除の正当化に「女性と子ども」の安全を掲げている者たちがいる。この「子ども」は、トランスジェンダーをペドフィリアとみなす差別デマに基づいている。荒唐無稽な差別デマは、なにも知らないひとにはやすやすと受け入れられる場合があり、それを悪用しているのだ。その例として、下記の者たちがそれを拡散していることを明示しておく。このような者たちが行うローカルでのママ友へのロビーがどれほど有効なのだろうか分からないが、害悪である。
https://twitter.com/3_colourful
https://twitter.com/joseikodomo

このテキストはわたなべ友貴区議のこちらのツイートに応える意味でも書いた。差別と指弾されたことに対して「なにが差別か分からない」というのは、マジで勉強が足らないか、不遜なのだと思う。まず自分で勉強してみなさいよと思う。トランス排除に対抗する言説はいくらでもみつけられるだろう。それらどれにも「人権」について書いてあるはずだ。それをみてまだ分からないから説明せよといっているなら、本当に不遜な差別を続けたい者なのではないか。「発言のどこ」に差別があったのかではなく、条例にかこつけて「性自認が女性のトレイの安全を損なう」ような質問自体が、差別の言い掛かりなのだ。わたなべさんのために半日ほど使いこれを書いた。そのため可決を祝うために区役所前で行われた街宣に参加することはあきらめた。もし学ばないなら、わたなべさんにはこのテキストの執筆料を請求したいものだと思っているのだが。

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