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麗しき毒蛇の復讐 第6章

第6章 闇の中で  

煌々と丸い月が闇夜を照らす曲がりくねった秩父の山道に、優子がスズキのGSX250Rを疾走させる。他にほとんど誰も走る者のいない、暗いワインディングロードに、GSX250Rの甲高いエキゾーストノートがこだまする。ハイビームのヘッドライトが照らす木々の中には、時折、野生の鹿のものらしき眼玉が妖しく光る。
GSX250Rは良くも悪くも癖のない、扱いやすいバイクだった。スピードを出して高速道路を走るというよりも、中低速での太いトルクを生かし、街中や曲がりくねった山道を走るのにはとてもいいバイクだ。
また昔の様に、こいつでのんびりとツーリングを楽しめたら……。
でも恐らく、そんな楽しい時間は、自分にはもう訪れないだろう。

優子は東から貰った資料から、麗巳の屋敷にいる敵工作員の数を、およそ二十五人から三十五人と推察した。
これほどの多数の敵工作員を、戦術としてどう倒し、どう海槌麗巳の元へたどり着くか。
何時間熟慮を重ねても、結局優子には取るべき戦術としての結論は出なかった。出た結論は、「やるしかない」。それだけだ。

不安がないといえばそれは噓だ。死ぬのは確かに怖い。
だが、今の自分ができることは「死中に活を求め」できるだけのことをやる、それしかない。
死んだ仲間達に、あの世できちんと胸を張って顔向けができるように。

ふいに脳裏に浮かぶ、胸を赤い血で染めた純子の顔。
純子もきっと、自分が考えた精一杯のことをしようとしていたのだと思う。
弟を人質に取られた彼女がどれだけ悩み、苦しんでいたのか。妹のために学生刑事になった優子には、純子の気持ちが痛過ぎるほどわかった。
優子はまた、血まみれのまま、苦しそうな顔で言ったみずきの言葉も思い出していた。
(優子。純子を恨まないで。あの子は弟思いの……)
「みずき、私は純子のこと恨んだりしちゃいないよ。みんなもきっと私と同じだよな。なあ、みんな……」

そんな優子の想いを現実に引き戻すかのように、後方から一台の青い乗用車が猛スピードで近づき、バイクを走らせる優子の脇を素早く追い越すと、あっという間に遠くへ走り去った。
いかにも走り屋が好きそうな型の車だった。確かスバルのインプレッサだ。
「こんな狭い山道であんなにスピード出して。大丈夫か、あの車」
しかしこの県道は、麗巳の屋敷から先の森川渓谷キャンプ場から杖先峠までの区間は、数日前に上陸した台風十二号による大雨の影響で未だ通行止めになっているはずだ。この先、秩父市方面に行くには、ここから一旦飯能市街まで戻って、本陣峠を経由する林道へまわるより道はない。あのインプレッサはいったい、どこへ行くつもりなのだろう。
あるいは、走る車が少ないのをいいことに、思い切りかっ飛ばして、安易なスリルを楽しんでいるのかもしれない。
「事故らなきゃいいけど」
そう呆れながらも、優子はインプレッサのドライバーが、どこか羨ましかった。

やがて県道から分岐した、麗巳の屋敷まで続く林道へ入ってすぐの、屋敷からはある程度距離を取ったところで優子がGSX250Rを止めた。ここから先は、杉林の中を歩いて進む予定だ。途中にある川などの地形の関係で、林道を歩くよりかなり遠回りになるが、敵に発見されないためには止むを得ない。優子のスマートフォンには、今回のために暗闇機関の天才エンジニアが大急ぎで作ったという特殊な地図アプリがすでにインストールされている。恐らくこれが役に立ってくれるだろう。
バイクのライトを消すと、途端に暗闇に包まれた。両側に高く杉の木が生い茂るこの林道に、煌々たる月の光はほとんど届かない。エンジンを止めると、辺りでは小さく鳴く虫の声が、寂しげに聞こえるのみだった。

(ありがとう、GSX250R。ここまで私を運んでくれて。お前との付き合いは短かったけど、私のあとは、いいオーナーに見付けてもらえよ)
突入の準備を終え、最後にバイクのシートを手のひらで軽くポンポンと叩くと、優子はライダースーツを着たまま杉林の中へと移動を開始した。
バイクを止めたところから少し先、ガードレールが途切れた辺りから杉林へ入り込もうと歩いていく。
するとさらに先の、暗い林道脇の狭いスペースに一台の乗用車が止まっているのが見えた。不審に思った優子が静かに車に近づいていく。
止まっていた車は、先ほど自分を追い越して行った乗用車とよく似た青い車だった。
(これは、さっきのインプレッサ? なぜ、こんなところに)
ボディに触ってみるとまだ温かい。後ろからそっと、中を覗くと誰も乗っていない。
と、その時。
背後に身じろぎする人の気配を感じ、慌てて振り向く、と黒ずくめの出で立ちをした二人の女性が手を上げて言った。

「やっ!」
「久しぶり!」

「結花さん! 唯さん!」
「やっぱり、この辺でバイクを止めると思ったわ」
確かに結花の声だ。
慌てて二人に近づき、優子が小声で尋ねた。
「どうしてここが?」
「うちらの一族に伝わる秘法と彼らのネットワークを使えば、これぐらいはね」と結花がにこやかな声で言った。
「ひょっとして、夜の公園でのことも?」
「二人でやれば、あれぐらいなんてことないわ」と、唯も明るく話す。
「先日はありがとうございました。でもここから先はダメです。危険過ぎます。帰ってください」
「もちろん、歳を取った今の私達に大したことはできない」
黒装束に身を包んだ結花が、冷静な声で優子に語りかける。
「まあ、良く見積もって全盛期の半分程度ってとこかしら。でもあなたの手助けくらいはできるわ」と、唯は素っ気なく言った。
「でも」
「優子さん。これはね、私達の敵討ちでもあるの」
結花は優子の目をじっと見つめる。
「暗闇さんは、私達にとってはある意味大恩人なの。あの人がいなければ、私達三姉妹が顔を合わせることはなかったかもしれないの」と、優子に語りかける結花の顔には、先ほどまで浮かんでいた笑みは完全に消え、これから戦いに赴く者の表情へと変わっていた。
「それに何より、可愛い後輩をみすみす死なせる訳にはいかないわ」
唯が優子の肩に優しく手を置く。
「大丈夫。決してあなたの足手まといにはならないから。ここは三人で力を合わせましょう。そうしなければ奴らは倒せない」
そう話す唯の目には、抗しがたい威厳と迫力といえるものがあった。
彼女達の実力は、先日の公園の出来事を見ても疑いはない。
「唯さん、結花さん。…………ありがとうございます」
優子は涙で頬を濡らしながら、深々と二人に頭を下げた。

三人はインプレッサの脇で、これからの作戦を話し合った。
作戦協議の最中、優子が唯に話しかける。
「唯さん。予備に持ってきたヨーヨーです。これ、使ってください」
優子がライダースーツのポケットの中から一個のヨーヨーを取り出し、唯に渡そうとした。
「必要ないわ」
「けど」
「そのヨーヨーはあなたが使って。実は私達、風魔一族という忍者の末裔なの。それに短期間だけど山寺でハードな修行を積んできたし。心配しないで」
「それでね、実は予め…………」
そっと結花が優子にささやく。
ほどなく、三人の作戦は決まった。

暗くうっそうとした杉林に三人が足を踏み入れると、湿り気を帯びた空気に入り混じる、草と腐葉土の匂いが鼻についた。
唯が先頭、次に優子、しんがりは結花が務めた。しばらくその順で杉林の中を進んでいく。せっかくの満月の光もほとんど届かない暗闇の林の中は、まるで見通しが効かず足元も悪かったが、優子は唯に離されまいと、彼女の黒装束の後を必死についていった。
道中、唯が屋敷への送電線を切断するため、電柱に手製の爆弾を仕掛ける。腕時計の時刻に合わせ、懐から出したタイマーのスイッチを入れると、爆弾に付属する小さく赤いデジタル表示のカウントが始まった。
麗巳の屋敷が、予備電源に切り替わるのに要する時間は、約十四秒だという。それを唯達はつい先日、台風十二号が秩父地方を襲った時に、わざと送電線を切断し何秒かかるかを計ったと言った。
何という用意周到さだろう。唯達はあっけらかんと、「タイミングが良かった」と小さな声で笑っていたが。

その後も慎重に、杉林の中を麗巳の屋敷を目指し歩いていく。月の光で少しは夜目が効くとはいえ、暗闇の森林の中を、それも大きな音を立てず歩くのは難しい。だが、唯と結花はこともなげに進んでゆく。

突然、先行する唯が先ほど決めた「待て」の合図を出した。
優子は一人緊張する。目に入った汗がやけに沁みた。やぶ蚊が顔の周りを飛び交う。だが優子は微動だにせず、静かに息を殺した。
やがて唯が「進め」の合図を出す。
結花が小声で、「この先に巡回中の工作員がいたけど、もう立ち去ったみたい」と教えてくれた。
優子には全くわからなかった。自分一人だったらどうなっていたであろう。改めて唯と結花に感謝する優子だった。

ついに、屋敷の塀から、およそ二百メートルを切った地点まで近づいた。突入開始時刻まで、ここで待機だ。唯は敵の次の巡回まで、多少時間の余裕はあると言う。
おもむろに優子がライダースーツを脱ぎ始め、その下からセーラー服が現れた。
これこそが、女子学生刑事の戦闘服だ。
唯と結花が優子のセーラー服を見て頷き、三人はお互いの顔を見交わした。

突入開始予定の三分前になった。懐から小さな笛のようなものを取り出した唯が、それを口に咥え、静かに目をつぶる。
両手の指を複雑な型に組み、何やら精神を統一させるような仕草をした後、カッと目を見開くと、屋敷に向けて勢いよく息を吹いた。
だが、優子には何も聞こえない。
いわゆる犬笛という奴だ。これで術をかけていた者達を操るという。しかし、犬笛で人を操るなどということが、しかも二百メートルも離れた距離で、できるものなのか。

唯達は風魔の情報ネットワークによって、とっくに麗巳の屋敷の位置を把握しており、しかもすでに幾人かの敵工作員に術をかけているという。
風魔の忍術らしいが、優子はいまだ半信半疑だった。それにしても風魔とはいったい何者なのだろう。
三代目麻宮サキについて、優子は風魔に関する情報を聞いた覚えがなかった。
暗闇機関から聞かされているのは、何やら敵が化け物じみた強い相手だったということと、あとはかつて存在した国家機関「青少年治安局」と戦った話だけだ。
(そういえば、唯さんが、「かげ」とか「かしんこじ」とか言っていた、あれも風魔と関係があるのだろうか)

風魔衆によってもたらされた情報は、密かに櫂庵から、かつての暗闇指令の部下で現在、国家保安委員会のメンバーでもある、垣田誠一という男にも伝えられている。だが、そのことはまだ、彼女らが知るところではなかった。

優子が犬笛を吹く唯を見つめている頃、屋敷の中では、うわごとを言って病室に収容されていた者達が一斉に起きだし、暴れ、他の工作員達を襲い始めていた。
病室で寝ていたとはいえ、そこは厳しい訓練を積んだ工作員である。元々病気でもない。
すぐに屋敷内のあちこちで同士討ちが始まり、あるものは仲間の銃を奪い、次々と工作員達を撃っていく。
優子達にも、敵の怒号や複数の銃声が聞こえてきた。

そしてカウントダウン。5……4……3……2……1。
次の瞬間、やや遠く離れた木々の奥から小さく「ボッ」という音がし、一斉に建物の電気が消える。
予備電源により再び電気がついた時、優子達はすでに屋敷の塀を飛び越し、敷地内に潜入していた。
復旧した監視カメラのモニターに、セーラー服姿の一人の少女と二人の黒装束の姿を確認したR機関の工作員が、次から次へと屋敷の中から拳銃やナイフを持って現れる。
優子にとって、これまでで最大の戦闘が始まった。

優子はダブルヨーヨーを華麗に駆使し、結花はいくつもの折り鶴を投げ、唯は体術で次々と敵を無力化してゆく。
結花が投げる折り鶴は直進するだけでなく、時折軌道を変え、敵の思わぬ方向から彼らを襲った。唯が右足で敵のベレッタを蹴り上げ、続く回し蹴りで工作員の腹を打ち据えた。
(全盛期の半分? 嘘でしょ)
目の端で二人の動きを追っていた優子が、彼女らの滑らかで力強い身のこなしに驚く。
それにやはり、唯の犬笛作戦はかなり効いているようだ。工作員達は混乱したところに不意打ちを食らい、明らかに浮足立っている。おまけに、武器庫から持ち出す暇がなかったのか、銃を持っている敵は半分もいないようだ。
優子と唯、結花は三人で力を合わせ、一人また一人と敵を倒してゆく。

(あれ?)
やがて、ちょっとした違和感に優子が気付いた。
(見える。敵が……見える!)

あるものはナイフを突き出し、あるものはナイフを投げ、またあるものは銃を構える。
そのひとつひとつの動作がまるでスローモーションのように、優子には見えた。
自分が戦いに集中していることがわかる。
それを支えているのは、唯と結花への圧倒的信頼感だった。
この二人には安心して背後を任せておける。目の前の敵に集中できるのだ。
優子の思いは唯と結花も感じていた。二人は常に、敵に優子の背後を取らせまいと動いていた。
まさに三位一体の攻撃と防御だった。
(行ける!)
優子は確信する。
敵工作員は次々と地面に倒れ、動いている者の数は、見る間に半減していった。

だが、やがて時間が経つにつれ、唯と結花の動きに少しずつ陰りが見えてくる。
特に一人武器を持たない唯は、やや苦戦しているように見えた。両腕、両足、さらに背中に赤い傷が見える。
すると倒れている工作員に足を取られた唯が、思わず尻もちをついた。
「しまった!」
「唯!」
敵を後ろ手にした結花が叫ぶ。
そこへナイフを逆手に持った工作員が、唯を目がけ襲いかかってきた。
腕一本を犠牲にしてでも、必ずこいつは倒す。そう、唯が覚悟した時。
「唯さん! 使って!」
優子が唯にヨーヨーを投げ渡した。
唯が右手でパシッとそのヨーヨーを掴む。

なんて懐かしい、手のひらにしっくりくる、この感触!

「しょうがない! 使こおてやるわい!」
地面に腰を着けたまま唯はヨーヨーを構え、敵の眼をキッと見据えた。
工作員が唯の喉を切り裂こうとしたナイフを、唯がヨーヨーで受け止めると、すかさず右足で工作員を蹴り飛ばす。背筋のバネを使って立ち上がるとヨーヨーを工作員の胸にぶつけ、二メートルほど先まで弾き飛ばした。
次に襲いかかってきた工作員が、唯のヨーヨーを鳩尾に食い込ませたまま胃の中の吐しゃ物を大量に吐き出すと、その場にうつ伏せになって倒れる。
唯が後ろを振り向き、ヨーヨーを投げ放つと、胸に打撃を受けた工作員が、体を大きくのけぞらせ後ろに吹き飛び、地面の上をゴロゴロと転がっていった。
さらにその奥に、唯は自分に向けて銃を構える工作員の姿を目にした。
ベレッタⅯ92FSの銃口から放たれた九ミリ弾が、唯の左腕をかすめる、と同時に工作員が手にしていたベレッタが、唯のヨーヨーに弾き飛ばされ、高く宙を舞った。
すかさず武器をナイフに持ち替えた工作員が、さらに襲いかかろうと唯に接近する。だが、唯のヨーヨーを眉間に食らい、白目を剝きながら仰向けになって地面に倒れると動かなくなった。
戻ってきたヨーヨーを掴み、構えながら次の敵を探す唯。
優子にはその時、唯が掴んだヨーヨーが、一瞬、青白く光ったように見えた。

麗奈は執務室のモニターで、戦いの様子をじっと観察していた。
自分の部下達があっけなく次々と倒されてゆく様を、憤怒に満ちた表情で見ている。
三十年前と同じだ。存在自体、そのものが認めがたい学生刑事によって、再び自分の野望が潰え去ろうとしている。
(やはりそうだ。学生刑事は危険な存在だったのだ。やはり完全に叩き潰すべきだった。自分の考えは間違っていなかった。しかし……)
麗奈の顔から徐々に怒りの表情が希薄になっていく。

二人の黒装束姿の女に見覚えはない。巡回中の工作員が次々と謎の症状で倒れていったのも、恐らく黒装束による仕業だろう。いったいこいつらは何者なのか。
だが、それよりも目を見張るのは、雨宮優子だ。雨宮優子の動きだ。
まるで相手の動きを読んでいるかのように、左右のヨーヨーを巧みに操り、次から次へと工作員をなぎ倒してゆく。その動きのスムーズさは、ある意味、美しささえ覚えるほどだ。
「面白いわね、雨宮優子。ちょっと直々に相手をしてみたくなったわ」

戦闘の舞台は屋敷の庭から、建物内部の一階へと移っていた。だがそれも、すでにほぼ終わったようだ。
建物の床や廊下には泡を吹き、血が混じった吐しゃ物をまき散らした何人もの工作員達が気絶し倒れている
目の前に動いている敵はいない。もはや敵工作員は、ほぼ全て倒したと言っていいだろう。だが肝心の海槌麗巳は未だ姿を現さない。
唯が優子に呼びかけた。
「私達はまず一階と地下を探す。優子は二階から上を探して!」
「はい!」
唯と結花、優子は二手にわかれ、麗巳の捜索を開始した。
彼女達はひとつひとつ部屋のドアを開け、中を確かめていった。鍵がかかった部屋はヨーヨーでドアノブを吹き飛ばし、ドアを蹴り破って強引に開けてゆく。

唯と結花が入り込んだ一階の広い部屋には、いくつかの大型コンピューターとサーバーなどの機器が設置されており、大きなシュレッダーらしき機械の横には、白衣を着た一人の男と病人服を着た男が、それぞれ足元に銃を転がしたまま、うつ伏せになって倒れていた。どちらも銃で撃たれた跡があり、背中の銃弾の射出口を中心に服を血で真っ赤に染めている。
「二人共、もう死んでいるみたいね。結花姉ちゃん、次の部屋へ」
「唯、ちょっと待って」
白衣を着た男が左手に持つ分厚いファイル、その表紙に見える「C計画」の文字。
不審に思った結花が男の手からファイルを取り上げ、パラパラとめくる。
「これは!」

優子はついに最上階に上がった。
「会長室」の表札が掲げられている部屋と、その部屋にはひときわ頑丈に作られたと見て取れる金属製のドアがあった。
非接触式のカードキーに反応して扉が開くシステムになっているそのドアは、もちろん、体ごとぶつかっても、いくら力を込めても優子の手では開かない。カードの読み取り機をじっと見ていた優子は、イチかバチか読み取り機にヨーヨーをぶつけた。
機械が派手に火花を散らし、一瞬ドアが動き開きかけ五ミリほどの隙間が開いた。しかし、そこからは全く動かず、扉は固く閉まったままとなった。
優子はヨーヨーをポケットに仕舞い、左の太腿に縛り付けたホルスターから、あの「究極のヨーヨー」を取り外すと分厚い鋼鉄のドアをめがけて投げ放った。
ぶつけたところが大きくへこみ、ドアが内側に歪む。
優子がさらに究極のヨーヨーを投げ放った。
派手な火花を飛び散らし、分厚いドアがくの字に折れ曲がる。
しかし、戻ってきたヨーヨーを掴んだ優子の左腕を、かつてない激痛が襲った。
(腕が使いもんにならなくなる)
東京駅で出会った、スーツ姿の女性の声がよみがえる。だが、優子は腕の痛みなど、もうどうでもよくなっていた。
私にはわかる。海槌麗巳は確実にこの部屋の中にいる。その麗巳を倒し仲間の仇を取るまで、あと一歩のところまで来てるんだ。
優子の脳裏にこれまで倒れていった学生刑事、一人一人の顔が思い浮かんだ。
彼ら彼女らの仇を取るためなら、私の腕の一本や二本。

痛みをこらえ、もう一度究極のヨーヨーを投げ付けた時、ついに鋼鉄のドアが完全に吹き飛んだ。
急いで中に入ると、さらに別の金属製のドアがあった。優子は究極のヨーヨーで、まずドア横のカードの読み取り機を一撃で破壊した。すると、読み取り機から大量の火花が激しく飛び散り、黒に近い灰色の金属製ドアが、人の悲鳴のような奇妙な音をたててゆっくりと開いていった。

会長室の中には迷彩柄の服を着て右手にムチを持つ、長い黒髪の女が不気味な笑顔を顔に張り付け、一人で立っていた。
間違いない。写真で見たあの女だ。
「貴様が……海槌麗巳か」
優子がキッと麗巳を見据え、鋭く睨み付ける。
「アハハハハ! その名前で呼ばれたのは何十年ぶりかしら。あなたが雨宮優子ね。一度会ってみたかったわ」
「海槌麗巳。お前にはどうしても答えてもらうことがある。貴様の目的は何だ! ただ過去の復讐のためなら、麻宮サキと暗闇指令を殺せばそれで済むはず。なぜ、今の学生刑事達まで殺す必要がある!」
「あなたが今そこにいることが、その理由よ」
「なにい!」
「学生刑事は危険な存在。いずれ私の前に立ちはだかり、必ず計画の邪魔をしてくる。だからその前に潰す。でも失敗したわ。あの、黒崎和也という坊やじゃなく、あなたを最初に殺すべきだったわね」
(!)
黒崎和也。それは戦闘能力では抜群の、R機関によって最初に犠牲となった学生刑事の名前だった。体術による格闘では、優子が唯一敵わないと思った相手であり、長身で妙に人懐こく、正義感にあふれる優秀な学生刑事だった。何より、優子がどこか憧れを抱いていた人。

「そこまでして成し遂げようとする、貴様の目的は何だ!」
「あなたは知る必要のないこと。例え知ったとしても、あなたにはどうしようもないこと。いや、むしろ知らない方が幸せかもしれないわよ」
「……。ならそれでいい。この場でお前をぶっ潰すだけだ」
「あら、あっさりしてるのね。気に入ったわ。じゃあ、ちょっとだけ教えてあげようかしら」
「……」
「もちろん麻宮サキは、私がこの手で始末する。でも私の本当の目的は、日本という国家そのものを、そっくり私好みに作り替えること。そのためには、ある程度の日本人には死んでもらう必要があるの。いずれ日本人はその目で地獄を見ることになる。この私を日本から追い出した、その報いを受けることになるわ」
「海槌麗巳。やはりお前は危険な存在だ……。貴様は必ず倒す!」
「でも、あなたはそれを見ることなく、一足先に地獄へ行くことになるわ。今日、この場でね!」
いきなり麗巳が優子目がけ、ムチを振るった。
床に倒れ込みながら最初の一撃はさけた優子に、麗巳のムチは続けざま、執拗に襲いかかってきた。
優子が究極のヨーヨーを麗巳に向けて投げ放つ。
だが、麗巳がムチをしならせヨーヨーに叩き付けると、破壊力抜群の究極のヨーヨーも、柔らかいしなやかなムチに力を吸収され、威力を発揮させることができない。
それでも優子はしびれがひどくなり、感覚がなくなりかけた左腕で究極のヨーヨーを麗巳目がけ放った。
すると麗巳は器用にムチをチェーンに巻き付け、優子の手からヨーヨーを払い落としてしまった。
究極のヨーヨーが、床の上をコロコロとむなしく転がっていく。
「ホホホホホ!」
勝ち誇ったように麗巳が笑い、続けざまに優子に叩きつけようとムチを振るう。
優子は必死に避けるが、ついに麗巳のムチを背中に受けてしまった。
「ウウッ!」
次に左手にもムチを喰らってしまい、腕の肉が裂け、鮮血が飛び散る。
その後も麗巳は決して手を緩めようとはしない。ムチはまるで意思を持つかのように執念深く唸りをあげて優子を襲った。
歯を食いしばりながら、優子は麗巳のムチを避け続けた。その間に、落ちていた究極のヨーヨーを拾い上げることができた優子だったが、ヨーヨーにチェーンを巻く余裕はなく、また麗巳の放つムチが優子の左手を打ち付ける。
たまらず優子は究極のヨーヨーを床に落としてしまった。
直後、麗巳のムチが風を切る音とともに、優子の脇腹、右手、太腿、また背中へと立て続けにヒットした。優子は歯を食いしばり、必死に痛みを耐え続ける。
「フフフ。あなたを楽には死なせないわよ……。なぶり殺しにしてあげる」
麗巳の目が怪しくギラつく。その顔は、獲物を目の前にした冷酷な毒蛇そのものだった。
だが次の瞬間、優子が右手でポケットから取り出したもうひとつのヨーヨーを投げ放ち、ムチをもつ麗巳の右腕に命中させた。
「アアッ!」
麗巳が手からムチを放り落とす。
するとすかさず、麗巳は自分のすぐそばにある、壁に設置された緑色のボタンを押した。
麗巳がいるすぐ近くの壁に脱出口が開く。
優子を睨み付けながら、麗巳が脱出口近くの赤いボタンを手で力強く押した。
突如、部屋のあちこちから白いガスが噴き出してきた。
同時に素早く麗巳が脱出口へと逃げ込んだ。
「待て! 麗巳!」
優子は慌てて麗巳の後を追いかけようとしたが、噴き出したガスを思わず吸い込んでしまい、激しくむせる。
突如めまいが優子を襲い、今にも気を失いそうになった。
あっという間に充満したガスで、部屋の中は真っ白になり、すぐに何も見えなくなった。

麗巳の屋敷の最上階で大規模な爆発が発生した。全てのガラス窓が粉微塵に吹き飛び、そこから赤い炎が噴き出す。すぐに二階でも大きな爆発が起きた。
ガラガラと天井が崩れ出し、落下する大小様々ないくつものコンクリートの塊が、唯と結花を襲う。
「ヤバい! 結花姉ちゃん! 早く外へ!」
唯と右手にファイルをかかえた結花が、慌てて部屋の窓ガラスに体ごと飛び込み、建物から脱出した。
直後、建物全体がド派手な大爆発を起こすと、空を焦がすほどの巨大な炎の柱が立ち昇った。
咄嗟に地面に伏せた唯と結花の体の上を、いくつものガラスやコンクリートの破片が飛び去っていく。幾人もの工作員達が、服に火がついたまま吹き飛ばされていった。

爆発が一段落した頃、体を起こした唯と結花が必死に辺りを見回した。
「優子は? 優子はどこ?」
だが、優子のセーラー服姿はどこにも見当たらない。辺りにはただ、火が付き、くすぶる煙を立ち昇らせる工作員の遺体が、そこら中に散らばっているだけだった。
「まさか。優子はまだあの建物の中なんじゃ」
燃え盛る建物を見つめる唯が、うろたえた声を出した。
「そんな!」
動揺した結花も大声で叫んだ。
唯と結花は、激しく火の粉を舞い上がらせる建物を、ただじっと見つめることしかできなかった。
炎に照らされ、赤く染まる二人の顔。その目に、みるみる涙が溢れ出てくる。

すると二人の耳に「ゴホゴホ」と咳き込む声が聞こえ、やがて炎上する建物からやや離れた倉庫の陰から、優子が炎の光を浴び、口に手を当てながらゆらゆらと立ち現れた。
「優子!」
唯と結花が涙を流しながら思わず優子に駆け寄ろうとした、その時。
まだ盛んに炎を上げている建物の、地下駐車場のスロープから飛び出して来た一台の黒い大型ジープが、優子を目がけ猛スピードで近づいてきた。
左手一本でジープを運転する麗巳が、右手で持つ回転式拳銃(リボルバー)の銃口を優子に向け、続けざまに引き金を引いた。
地面を転がりながら、優子が必死に銃撃をかわすが、三十八口径の銃弾が優子の左肩をかすめ、艶やかな黒い髪の毛をちぎってゆく。
そのまま走り去るジープは、テールランプの赤い残像だけを残し、暗闇の中へと消えていった。
「あれは麗巳! バイクで追いかけなきゃ!」
優子はジープの後を追跡しようと、自分のバイクを止めたところを目指し、急いで走り出した。

林道を走ればここからバイクがある場所まで、そう大した距離ではない。それに恐らく、麗巳は通行止めとなっている秩父方面ではなく、この林道から左折して飯能市側へ向かったはず。その市街地へ向かう長い坂道は、いくつもの急なカーブが延々と連続する曲がりくねった山道だ。麗巳の重くでかい図体をしたジープでは、コーナリングスピードも大して出せないだろう。
でもGSX250Rと私のライディングテクニックをもってすれば、麗巳のジープよりもはるかに速いスピードでコーナーをまわることができる。たとえ、今は多少遅れを取っているとしても、あのバイクなら必ず麗巳に追いつける。いや、追いついて見せる。
優子は地面を蹴る両足に、いっそうの力を込めた。

やがて、月光の陰となった暗闇の林道上に、一人の人間が倒れていているのを、優子は見て取った。
ポケットの中からペンライトを取り出し、ライトの光を路上の人の顔に当てる。
「東っ!」
優子は慌てて駆け寄った。
そこにはワイシャツの胸を血で赤く染めた、東智也が仰向けに横たわっていた。
優子は東を夢中で抱き上げる。
「海槌麗巳を……」
「しゃべっちゃだめ!」
「待ち伏せ……てたが……逆にやられ……」
「東! しゃべらないで!」
「タイヤと……フロントガラ……打ち砕いたか……う遠くにまで……逃げられな……はず」
「お願い。もうしゃべらないで」
優子は涙を流しながら、東に懇願した。
そこに後から走って来た結花と唯が追いつく。二人は、東の赤い胸を見て息を吞んだ。
「麗巳を……追いかけ……ろ」
「だめ! あなたの救護が先!」
「仲間の仇を取りたくないのか!」
東が急に語気を強めた。
「ゲブッ!」
東が口から大量の血を吐き出した。
「東っ!」
優子が悲鳴を上げる。
「この程度の傷で俺は……死なん。早く……行け」
唯が優子のそばに駆け寄った。
「優子。ここは私達にまかせて、早く麗巳を」

優子は両目から大量の涙を流し、唇を固く食いしばりながら立ち上がると、俯いたまま「お願いします」と、そのひと言だけを何とか絞り出した。
直後、思いを断ち切るように勢いよく振り返ると、暗い林道を海槌麗巳の後を追いかけ、全速力で走って行った。
優子の夏服のセーラー服は、闇の中へ溶け込んでいき、やがてすぐに見えなくなった。


つづく



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。