自由について:イマニュエル・カント「実践理性批判」
学問の自由や、表現の自由、が話題になり、また、米国大統領選や、各国の、とりわけ中国とアメリカ・ヨーロッパのCOVID-19への対応の差を見ていると、ここのところ「自由」とはなんだろうかと考えさせることが多い。
しかし、考えれば考えるほど、よくわからなくなってきたので、辞書で調べてみた。新明解国語辞典で「自由」とひくと以下のように書いてある。
紛糾した議論を見聞きしたときに、自分の中でうまく整理がつかなくなるのは、Aの「自由意志=個人の言動の自由」とBの「自由権=自由に言動ができる個人の権利」をごっちゃにしているからだ、と気づいた。
当たり前のことではあるが、本来、人間は自由に意志決定できるし行動ができるはずであるからして、「自由を侵害するな」と叫ぶ人には、「自由に行動したらいいんですよ」と言うこともできる。しかし、社会の中での自由(自由権)は権利として勝ち取ったもの(あるいは与えられたもの)であり、失うことが無いように注意して見る必要があるし、努力して守られるべきものであるということだ。
以下、自由意志の自由についてつらつらと書く。
ところで、今年の7月からずっと、カントの「実践理性批判」を少しづつ読んでいる。思弁的理性・科学的思考の限界の外側にある「私たちはどうあるべきか」「世界はどうあるべきか」ということについて議論している。論理を超えたところを論理で議論しようとしているので、少々難しい。(*1)
つまり、「純粋理性批判」によれば、思弁的理性は、私たちがどのような世界に生きているのかを明らかにするものである。それに対して、私たちがこの世界(実践の場)でどのように生きるべきかを扱っているのが「実践理性批判」という位置づけになる。
私たちが周囲にあるものや環境を認識するときに、様々な感官器官から得られる現象・直観を、空間と時間というア・プリオリに持つ枠によって認識する。空間と時間という枠は人間が経験によらず持っているものなので、それによって客観性が保証される。そして、これが悟性の働きによって概念化されることで、誰でもどこでもいつでも適用でき再現性のある数学・物理、そしてその応用としての科学技術が生まれる、と考える。
私たちが周囲にあるものや環境を認識するときに、もう一つの認識がある。意味と合目的性だ。私たちがものを見、感じるときには、必ず意味を伴っている。少なくとも自分に関係あるかないかという意味の枠をはめていることは、誰しも納得いくところではないか。自らの生存にとって脅威なのか、それとも機会なのか、という意味の枠があることも容易に納得できるところではないだろうか。
ある特定のものや環境に関わる意味は、自身が持っている目的によって変わる。だから、人それぞれ、意識しているかどうかは別として、持っている目的が異なることから、枠もかわる。だから人によって、同じ「もの」や「こと」に対して捉え方、感じ方が変わってくることになる。
では、誰もが純粋に、生まれてからの経験によらず(*2)持っている普遍的で客観的な意味と目的の枠はあるのだろうか。
もし、私たちに何にも左右されない「意志の自由」があるとするならば、そのような、普遍的で客観的な意味と目的の枠はあるはずだ。
私たちが意思決定する際に、身体的な快・不快、感情や打算・欲望・執着といったいわば経験によって身についたものに由るのであれば、それは1人1人違ったものであり、普遍的でもなく客観的なものでもない。せいぜい、その意思決定がが多数派であるかどうか、といった程度のことだ。そして、それらは、結局のところ状況に流されているのと同じことだ。つまり、そこに意志の自由はない。
そのような、一人一人の身体的な快・不快、感情や打算・欲望とは独立に、時にはそれらを否定する自由な意志はあるはずだ、とカントは説く。たとえば、金銭的な損得勘定から考えるとあのようにしたい、という思うところを抑えて、敢えて不利であってもこのように行動しよう、と意志決定する場合である。
自由な意志は、自由のない困難な状況の中で、むしろ必要とされるのだ。
カントは「道徳的法則(*3)」があるはずだ、という。道徳は、なんとなく自由な意志を制限するように思うかもしれない。が、むしろ、それは逆なのだ。私たちがみな人間として由るはずの道徳があるから、そこにむしろ、意志の自由が生まれると考える。何もなかったら、自然の法則に従って、そのときそのときの状況に振り回されて、受動的に生きていくだけであろう。
しかし、それにしても、目的があって意味づけがされ、客観的な法則があったとしても、客観的な唯一の目的などあるのだろうか。それは、人間が「もの自体」を認識できず、現象を直観することしかできないことと同様、わからない、ということであろう。あると信じるべき理由がある、なぜなら、そのような法則があるからだ、ということなのだろうか。
私たちが私たちであるのは、全知全能でないからだ。
しかし、次のようにも考えられないだろうか。自由は幻想である、と。
そもそも、自分、意志、目的は幻想であり、あるのは自然のみだ、と考えることもできる。すべては自然法則に従って生起し滅亡していく。人類の歴史は地球の歴史のなかのほんの一瞬でしかないだろう。地球もいずれは滅ぶ。宇宙全体も、膨張していって冷え切るか、収縮して特異点に収束するのか、いずれは終わりがある。
仏教はラディカルだ。毎日、「ブッダのことば」スッタニパータ著・中村元訳を、パラパラめくっているが、次のような理解である。
「自分」とは、身体的な快・不快、感情や打算・欲望・執着に支配されている幻想であって、すべての矛盾(*4)や苦しみはその中にしかないのだ、と。そこから解き放たれて平安を得るには、自らの生への執着含めてすべてを捨てさり、次にこの世に生まれないようにするしかないのだと。
そんなことを考えていたら、今、読んでいるもう一冊の本「さすらいの仏教語」玄侑宗久著の中に「自由」が取り上げられていて、わかりやすく書かれていた。
最近、ことさら「自分」「自己」、そして「自由」を声高々に主張する向きが多いように思うが、カントに言わせれば「それは周囲に振り回されているだけだろう、そこに自由はなし」ということにもなるだろうし、仏教の説くところによれば「そんな「自分」なんてないんですよ」ということにもなろう。
「自分」なんてそんなもの、と割り切りながら、自らが由って立つものをしっかりと持って、なぜだかわからないまま放り込まれたこの世を渡っていくしかない、そして、自分だけでなく周囲の人もみな同じであると思えば、人に対する慈しみもわくということではないだろうか。
今回、考え考え書いていたところもあって、なかなかうまく表現できず書きっぱなし気味になってしまったと思うが「自由」について自分の現時点での整理にはなったと思う。まだまだこれから理解も考えも変わってくることだろう。
最後にボブ・ディランのSlow Train Comin'から一曲、「誰でもみな、何かに仕えなければならない」と歌う "Gotta Serve Somebody" をリンクしておく。
■注記
(*1) 去年から今年の6月にかけて読んだ「純粋理性批判」は上中下3巻で計900ページ弱あったが、むしろ320ページほどの「実践理性批判」のほうが難しいと思う。また、「実践理性批判」を読もうという人は「純粋理性批判」を読まないと、議論がよくわからないかもしれない。
(*2) 「経験によらず」というのは客観的であることと同義であると考えられる。つまり、経験によって獲得され、したがって経験によって変わる、そのような感じ方や考え方は、人それぞれ異なることになるわけだから、主観的な感じ方や考え方となるわけだ。客観的で普遍的な感じ方や考え方があるとするならば、経験によらずに持っているものでなければならない、と考えるわけだ。
(*3)法則は、カテゴリー表によれば、主観でも客観なく、それを超えたものであるが、ここでの議論では明確に区別していない。私があまりちゃんと理解できていないからだ。そのうち分かることであろう。-その時は、本文、大幅に修正するかもしれない。
(*4)自然に矛盾はない。
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