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養老孟司・甲野善紀「古武術の発見」

2003年ごろ「ロボット歩き」を実践していたことがある。一般用語では「ナンバ歩き」というもので、右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出す歩き方だ。身の丈に合わないマネージャー職に引き立てられ、世の中の不条理に苦労していたときに、斬新なアイディアを出すために、あるいは苦手な人とのコミュニケーションを滑らかにするために、普段慣れ切ったこととは何か違ったことをして頭を柔らかくしよう(*1, *2) 、という工夫の一つだった。

実際、ロボット歩きは確かに脳みそを刺激する気はしたが、慣れない動きに気持ち悪くなることも度々で、1か月も続かなかったと思う。

身の丈を合わせようとしたら本当にやらなければならないことは違っていたはず、トンチンカンな努力の一つだったが、そのときは私なりに必死だったのだ。


そんなことを思い出しながら、1995年ごろに読んだ「古武術の発見」を改めて購入して再読していた。

当時、養老孟司はすでに「唯脳論」で一世を風靡していたし「涼しい脳味噌」など何冊か読んで私もかなり影響を受けた。とくに、人が生きる環境をコントロール可能な人工的な環境で囲っていき、コントロールできない自然を排除していく、そういう社会の在りようを「脳化社会」と名付けたが、その言葉は強烈に頭に残ったし、いまだにこの言葉をキーワードに度々考えさせられる。

「脳化社会」が指す具体的な部分は、「脳が描く目的や理念・理想に沿って都市を建設し田舎を変容していく、そこには作るべきものを表現する企画と計画、作られるべきものを描くドキュメントや設計図面、作られた施設と体制にしきたりと法制度。・・・ちょっと大事なことを忘れていませんか」そのような風景のことだけを指しているのではないと理解している。

自然は外部の環境だけではない。人はそれぞれ身体という自然を持っている。脳に都合のよいように自然を排除して脳が作りだした環境と社会のうちに生きるうちに、私達は、自分自身である身体という自然があたかもないかのように考えるようになってしまった。つまり「身体が消えた社会」となってしまったのだ。近現代の日本社会の問題や弊害を、この視点から語る養老孟司の切り口は新鮮だった。

自然も社会も自分自身も自分たちが思うとおりに自在に変えられると安易に信じる、そんな風潮が強すぎると思わないだろうか。自分のアイデンティティや自身の価値や人格といったものを、自分の心というよくわからない実体の見えないものに求めすぎて、苦しすぎやしないだろうか。理解できないものや人を無視して、自分に都合のよい部分だけをきりとって、見て話し行動する、そんなクセがついてないだろうか。

自分自身の身体を忘れない、という視点は、今だに新鮮で大事だと思われる。

心と身体は切り離せないというのは、ある人たちにとっては当たり前のことで今さら強調するものでもないだろう。身体に不自由を抱えている方や、死と隣り合わせの毎日を過ごさざるを得ないそんな境遇の方、あるいは、自分の身体を使って辺境を旅する人などだ。

芸事であれ武道であれ学問でも、どんなことであってもつきつめて考えていると、心と身体を分離して考えるようになり心を重要視していくうちに身体を忘れてしまい、「心と身体は切り離せませんよね」と人に言われて初めて感心して「御意」などと答えるのは、かなり脳化した社会に観念で生きている人かもしれない。

さて、本書はそのような視点が底流に流れながら、江戸時代あたりからの古武術を研究し実践している甲野善紀の話が面白く展開される。養老孟司との対談を書籍にしたものではあるが、問答を通じてポイントを絞って課題抽出から結論まで持っていくということでもなく、どちらかというとお互いの論点は少しかみ合わないまま、共通の話題であれやこれや楽しく雑談をしているという感じだ。

だから、「古武術の発見」とは具体的な中身はなんでどれほどの意義のある発見だったのか、あるいは、副題にある「日本人にとって身体とは何か」の答えは?と現代風の脳味噌で読もうとすると肩透かしをくらったような感じを覚えるかもしれない。この本はそういったことを新たな視点で自ら考えるきっかけを与えてくれる、というふうに思って読むほうがよいだろう。

面白かったのは、東洋ーあるいは日本の思想と、西欧の思想の差について度々触れられている部分だ。

どちらも、目に見えるものや経験する事象の背後には、私達には直接見えない真の世界があって、その世界の法則を会得すれば自分自身や他人、あるいは自然や社会を思い通りに制御できると考えている。制御できないのは真実を見つけられてないからで、理と法を見つければ制御できるはずと考えて探求していく。

そこをつきつめていく中で、やっぱりそのような見方は不自然なのではないか、目に見えるものや経験する事象そのものに真実がありそこを忘れた議論は個々の人間とそのかけがえのない経験をないがしろにするものではないだろうか、という揺り戻しがある。

西洋と東洋、といってもそこは同じだが、アプローチが異なる。

西洋は自分の外側に求める。実証でき経験でき言葉にできるものに求め、客観的で汎用的であり積み上げ可能となる。東洋(日本)は自分の内側に求める。本人の経験の中にしかなく実証はできず言葉で伝えられない部分に求める。したがって主観的であり積み上げ不能であり、広く汎用性は得られない。

このあたりは、平行して読み進めている湯浅泰雄著の「身体論」と呼応してなかなか面白い。この点はまた後日に譲ろうと思う。


ところで、甲野善紀の本は沢山出版されていて、ごく最近でもNHKの「趣味どきっ!」という番組で「古武術に学ぶ体の使い方。」というテーマで放送されていたようだ。

スポーツが好きな文学派の私にぴったりの food of thought がたくさん出版されている。

疲れのこない階段の昇り降りの仕方とか、買い物の荷物をどう持って歩くとよいか、など、実用に役立つ本もあるようなので気になる方は是非。




■注記

(*1) 他にも左ききで食事をする、というのもあった。こちらは学生のころから面白がって実践したりしたものだ。暇だったのだろう。

普段は何も考えずにしているできていることを、改めて指・手・腕あるいは手首や肘などの使い方を頭でコントロールしなればならないところが新鮮だ。とはいえ、左で箸を持って豆をつまんだりひらがなやアルファベットを書くくらいのことは慣れればすぐにできるようになる。意外に難しいのは右手のほうだ。茶碗を持ったり、ノートを押さえたり、左手が自然にやっているように適切に動かすことがいくらやってもできない。左手に意識を集中するから右手がおろそかになる、ということでもあるが、右利きにとって、左手がいかに重要であるかがよくわかる。

なお、野球選手では、ダルビッシュ有投手は右投げだが、練習で左投げも取り入れていることで有名だ。

まぁ、この人はすごい。筋肉や骨格、身体の鍛え方や身体の操法なども相当に研究してどんどん取り入れていると聞く。

(*2)

「ナンバ歩き」というのはこの本「古武術の発見」にも紹介されているが、2003年ごろに読んだ甲野善紀の本にあってふと思いついて実行していたのだと思う。読書メモや記録をこまめにとっているわけではないが、たぶん2003年に読んだ本は、甲野善紀著「古武術に学ぶ身体操法」だと思う。

当時、ジャイアンツのピッチャーだった桑田真澄が甲野善紀の身体操法を取り入れて成果をあげたり、高校のバスケットボールチームが取り入れて話題になるなどちょっとしたブームだったように思う。また、養老孟司も「バカの壁」で広く一般にブームになっていたのが2003年ごろだった。


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