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三度巡った季節に寄せて

 中学三年生になり、一学期も一ヶ月が過ぎようとした頃のことだった。
テスト期間で早帰りで、勉強のひとつでもしておけばよかろうものを、ゲームをしながら母の帰りを待っていた自分は、玄関の扉の鍵が開かれる音を聞いてそちらを見た。確かちょうど仕事が休みで、病院に行くと言っていたな。と、記憶していたはず。
 帰ってきた母の顔は影を帯びていて、何事かと思いきや、きつく閉じられたその口をようやっと開いてこう言ったのだ。

「お母さんね、ガンだって」





 中学一年生に上がったと同時に母は離婚をした。不仲からというより、単にお互い「夫婦として過ごしていくには難しくなったよね」という認識によるものからだった。親権について激しい争いがあったわけでもなく、自分が母についていきたいと言ったことから母に渡った。
 父とは以降、普通に会って食事をしたりしているので、恐らく離婚後の関係性は世の中の同じ立場の人達よりもかなり良好な方なんだと思う。今も定期的に会って、一緒に飲みに行ったりしている。

 それからは、子と娘というより、気のおけない友人みたいなノリで過ごすことになる。だけど母は母でまあまあ小難しい人で、なぜこの人についていくと言ったのかわからない程度には苦手だった。父も好きかと言われたらそうでもないのだが。
 自分の性質はこの人由来なんだろうと最近気付いたのだが、それはまた別の話。

 話は冒頭に戻る。
 「ガン」と言われて、最初は頭の中の処理が追いつかなかった。ニュースとか、保健体育の授業でよく聞くやつなのはわかる。その当時からも致死率はかなりのもので、有名人が患えばそれはそれは大きな話題になったものだった。
 そんな病気に、まさか自分の母が罹るなんて思ってもなかったので、思わず言葉を失ってしまったのを覚えている。
 続けて飛び出してきたのは、「ステージ4」という単語。より詳しく、丁寧に説明されたが、まったく話が入ってこない状態でも、はっきりと鮮明に、体から一気に血の気が引くような感覚で理解した。「かなり進行しているんだ」と。

 一通りの説明が終わると、母は頭を抱えて大きなため息を吐く。
 お互い何をどう言ったらいいのか、状況を受け止めきれていないが故に、今この場で何をしたらいいのかわからない。重苦しい空気感だけがそこに漂っていた。
 それでもいつも通りに過ごさないといけない。なので、自分の好きなことをして気を紛らわそうとした。そうじゃないと正気を保てないと思ったから。
 ある種逃げだったな、と今更考える。



 中学三年生の夏。最初の手術が行われた。
 まだ大人でなかった私一人ではどうしようもないので、親戚三人が家に来てくれて、身の回りのことをたくさん手伝ってくれた。
 手術は片方の卵巣を摘出したが、後に再発して子宮ごともう片方を摘出することになる。

 最初こそは現実味を感じず、手術が終わるまでの間自由に過ごしていた。親戚と一緒に待機室に居続けるのがなんとなく居心地が悪く、外の空気を吸うと言ってしばらく本屋で過ごしていたが、次第になんとも言えない、妙な落ち着きの無さが出てくる。
 どんな心地で待てばいいのか本当にわからなかったが、今だからわかる。本当に怖くて、いてもたってもいられなかったんだと思う。

 それは術後の、麻酔が効いて意識が浮遊しているその人を見たからこそ思える。
 終わってすぐに寝かされている場所へ向かい、ゆっくりと呼吸をし、胸を上下させている母を見て堪らず泣いてしまった。手を握って、何も言えないまま。
 そしてまどろみながらも、弱々しく自分の手を握り返す。私が落ち着くように、やわやわと何度も。
 「ああ、生きてるんだ。よかった」と、心の底から思った。人の生を身をもって感じ取った瞬間だった。

 余談になるが、摘出されたものを見せてもらう機会があったので見せたもらった。こんなものが人の中にあるのかと、逆に感動したことを覚えている。再発時の術後も見せてもらった。「こんな小さいのに……人ってすごいな」という所感を抱いたが、そうじゃないだろってツッコミを自分に入れたい……。

 手術だけで終わりじゃない。ステージ4と診断されたこの病気の闘いはこれから始まる。一定の期間ごとに抗がん剤を投与されるその様を何度も見てきたけど、当人のほうがもっとずっと辛いことは重々承知の上で、日常のちょっとしたフォロー程度しか出来ない自分が歯がゆくて、でもいつも通りに過ごしたい自分もいて、苦しかった。若かったなあ。

 そんなタイミングで、高校受験前に一度だけ喧嘩した時もあった。理由は私が単純に遊び過ぎてただけなんだけど、本当に最悪なのが母の言い方が当時気に食わなかったのか、猛反発して自室に引きこもったこと。引きこもって何をしたって、受験勉強だったわけだけど。
 「何も出来ないくせに」と思われるのが嫌だったから、自分の好きな曲が詰め込まれたMDをかけてムキになって過去問ひたすら解きまくった。ずっと遊びたかったゲームもあえて封印した。これもムキになって。その間会話もほとんどしなかったし、自室とリビングをつなぐフスマは必要最低限の開け締めだけで、基本的には閉じたままにしてた。

 他愛のない会話が再開できたのがいつだったかはよく覚えてない。けど、お互いほとぼりが冷めた頃には普通に話せていたので、多分自然な流れでそうなったんだろう。
 自分たちの関係はそんな自然の流れに身を委ねて行くものだった。




 高校に上がり、バイトを初めて自分の好きなようにやれることが増えてきた時期。この頃は母の体調もかなり安定していて、自分の行動を遠巻きから見守ってくれる機会がかなり増えたように思う。
 個人的な話にはなるが、同人活動を地道ながらも一番精力的にやっていた時期でもある。地元のイベントに加えて遠征もしていたので、その度に「一緒に行く?」と聞いたりして。ちょっとした二人旅にもなってとても楽しかったなあ。ただし現地であらゆるタイミングが合わないと機嫌を損ねる時があったので、それだけが嫌だったという思い出もなくはない。

 そうして過ごしていくうちにいよいよ次の進路のことを考える時期がやってきた。進路希望を提出する時に真っ先に浮かんだのは母の顔で、「今自分たちに必要なのはお金だな」という結論が出るのに時間は掛からなかった。
高卒で就職、世間一般としてはそこそこ不利な立場のスタートになるだろうとこの時は思ってなかった。”生きていくため”の手段であったのと、進学の道はそもそも絶たれていると悟っていたから、考える余地もなかったんだけど。

 高校を卒業し、晴れて就職した先は(環境について言いたいことが山ほどあったが)人に恵まれていた。一部モラハラやストーカー行為があったため現在は辞めてしまっているが、同期後輩とは今でも仲良くさせてもらっている。収入も高卒で見れば無難で、昇給も多少なりはあった。

 当時の会社に勤めてから一年経った頃に、母のガンの再発が発覚した。
 再発を聞かされた時、当時の感覚が津波になって押し寄せるような勢いで蘇ってきた。ずん、と全身が重たくなって、いろんな思考が混ざり合って、なにも考えられなくて、声も上手く出せない。
 前回と同じように手術をする、抗がん剤使うと決断するのは早かった。だけど一番の不安要素は「大人になってしまったこと」だけだった。
 以前は親戚がいてくれたことでメンタルダメージが軽減されたが、今回はすべて自分が対応することになる。とはいえ、念のため父にも連絡をしたので、それだけでも負担はかなり分散された。
 それよりも自分が壊れてしまうことが本当に怖かった。ただそれだけだった。けれどこの人の頑張りを見届けられるのも自分だけだった。
 二度目の大手術を一人で見届けた後、最初の手術の時のことを思い出して、心のどこかでうっすら「もうこんな光景見たくない」と考える自分もいた。

 術後の当人は本当に大病を患っているのか?と思うほどに元気で、抗がん剤を投与されている期間以外はフルタイムで働きに出ていた。しかし自分が最初の会社を辞め、転職先で適応障害とうつになってからは環境がガラリと変わった。
 ハローワークに通い、なんとか職業訓練へ行けるようになるまでがかなり苦痛だった。うつになってからだいたい3ヶ月ぐらいの出来事で、よくやれたなと思う。なぜこんなにも焦って行動に出ていたのかというと、昔から自分が体調を崩すと機嫌を損ねるから。無気力と焦燥感に苛まれて身動きがとれない間、不機嫌さを受け止める度に呼吸が出来ている気がしなかった。
 状況も症状も違うとは言え、お互い体が思うように動かないのに、そんな扱いを受けることはむしろ自分の体調を悪化させる。なので無理やりにでも転職活動を続けた。結局これが、後に適応障害とうつを再発させる流れを作ってしまうわけだが。かなり悪手なので、これを読んでいる人はうつになったときは否が応でも休むことを推奨したい。

 だけど、嫌な思いをすることのほうが、大人になってからは少なくなった気がする。自分の転職がある度、母の症状が悪化するタイミングがかちあう時もあった。その度に「本当にごめん」と謝っていたが、あの人はさもそれが当然といった様子で「あんたの悪い運を私が持っていってんだと思う。だから気にすんな」とあっけらかんと言い放ったのには心底驚いたし、助けられた。




 闘病生活から12年ほどが経とうとした頃。母の体調が急変した。勤めていた会社に暗に「病気を抱えているから退職してくれ」と告げられ、その後運良く受け入れてくれた職場で働き始めてすぐのことだった。
 その時期背中が痛いとよく訴えていて、改めて検査をしたら、小さながん細胞があらゆるところに転移していた。抗がん剤治療で経過を見ていたが、主治医から「そろそろ覚悟をした方がいい」と告げられ、「ああ、ついにか」と。

 ありがたいことに、母の家系がガン家系かもしれないという話をしたら、「遺伝子検査も受けれるから、いつでも言って」と主治医に言ってもらった。長いことお世話になったので、こちらの心配までしてもらって本当に嬉しかったです。こんなところで言ったところで届かないだろうけど、ありがとうございました。

 施設に行くか否かで話し合いもしたが、うちにはそんな余裕はなく、自宅での経過観察を選んだが、ちょうどコロナが流行り始めた時期だったため、面会をするまでの難しさを考えるとこちらの選択を取ったのは正しかったかもしれない。
 診察後すぐに相談員と話し合いをしたが、あらゆる福祉のサービスを駆使し、家で過ごしやすくするための手続きを済ませている間も、ぐったりと座り込む母の姿は全盛期の見る影もなかった。次第に身動きが取れなくなっていく母を見る度に、あんなに嘘みたいに元気だった姿を見たのはいつだっただろうかと、遠い昔の記憶のように感じた。一緒に旅行だってしたし、今度はあそこに行きたいねなんて話した後だったので余計に。

 ある日の深夜、母の痛みに苦しむうめき声で目が覚めた。
 急いで訪問医に連絡をしたはいいが、まるで子どもみたいに「痛い、痛い」と泣きわめき、身をよじらせて苦しむその姿に混乱し、冷や汗のにじむ母の手を握ることしか出来なかった。「ごめん、ごめんね、なにも出来なくてごめんね」と、泣いて謝ることしか出来なかった。
 そんな自分をなだめるように、あの人は声を絞り出してこう言った。
 「泣かないで」「謝らないで」と。
 こんな時もこの人に迷惑しかかけれないのかと、情けなさで余計に泣いたことを覚えている。そしてこの声は、三年が経った今でも、脳にこびりついて離れていない。

 訪問医が来て処置を施してもらってから個人的に呼ばれ、「そろそろ山かもしれません」と、深夜の車も走らない静かな空間に重く響いたその言葉は、体だけ大人になってしまった自分にはあまりにも受け入れがたい現実そのものだった。




 一人では対処のしようがないと、母の姉妹や親戚に助けを借りた。幸い、現職で介護をやっている人がいたので、困った時に頼らせてもらうことが多く助かったので、そういう点では心持ちはかなり良かった。
 だが介護をするというのは人の手を借りたとて苦しいもので、徐々に精神的に参ってきて当たってしまうこともあった。大層なことをしているわけでもないのになにしてんだか、と虚しくなり、もう何もしたくない、消えてしまいたいという気持ちでいっぱいになる時もあった。

 そんな中で声をかけてくれた友人たちや、離婚しても尚、母の心配をしてくれた父の存在は本当に大きく、もしこの人たちがいなかったら今頃自分はどうなっていたんだろうかと思うほどに救われた。この場を借りてお礼を言わせてほしい。

 父については顔を見たいと行って訪ねてくれた時もあった。
 当然彼も全盛期の母をよく知る人なので、その変わり様には一瞬言葉を失っていた。久しぶりにお互い会って、その時点で上手く喋れなくなっていた母も(最初は別に会いに来なくていいと言ってたけど)父の方を見てちゃんと「ありがとう」と絞り出すような声で声をかけていた。思わず泣いてしまった父も、母の手を握り、ただ頷いて応えていた。その光景を見て、少しだけ嬉しく感じたのはきっとふたりの子どもながらの気持ちだったのかもしれない。

 友人も会いに来てくれた。小学生からの長い付き合いで、なにかある度に相談に乗ってもらったりしている人で、自分と感性も近い。会いに来てくれたよーと母に言うと、少し嬉しそうにしていた。
 「きみもよく頑張ったね」と私のことを労る言葉をたくさんかけてくれたの、折れそうな心にすごく沁みたな。何をしたというわけでもないけど、少しだけ報われた気がした。

 他にもLINEやTwitter等で気にかけてくれる人が大勢いて、本当に自分は人に恵まれているなと、改めて感じた。




 親戚の手を借りながらなんとか過ごしていたある日。
 その日は仕事が休みだったが、窓の外を見ると雨が降っていた。

 いつものようにまずは歯磨きをしようとベッドから降り、洗面所へ向かう。母は視線だけをちらっとこちらに寄越してくれた。
 どうしてこの時、真っ先に「おはよう」と言わなかったんだろうかと、今でも後悔している。

 歯磨きを終えた途端、親戚が母の名前を何度も呼ぶ声が聞こえた。心臓が跳ね、慌てて洗面所から出て寝室へ向かう。
 はたから見たらまだ生きているように見えた。じっと見つめていれば、まだ呼吸しているようにも。
 だってまだ目を開けているじゃない。きっとまだ起きてるんだよ。って、言い聞かせながら母のそばに向かった。
 上下していたはずの胸元は動きを見せず、開いたままの瞳は徐々に乾いて、瞳孔も拡大されていた。口元に当てられた酸素マスクも呼吸していることを示す曇りと晴れは一切見受けられなかった。

 おはようと、この人に言えないまま。私はひとりになってしまった。

 母が当時気に入っていた服を着せ、訪問医から正しく診断書を書いてもらってからは怒涛の勢いで事が進んだ。葬儀の段取り、役所の手続き、お骨はどうするのか等々。
 前二つについては当然私一人でどうにかしないといけなかったし、初めてやることしかなかったので、亡くなってすぐの混乱した頭でやるのは本当に苦しく、親戚からの急かしも相まって心底無理の気持ちだけが募っていった。それでもやりきったのは偉いぞ、過去の自分を褒めてやりたい。

 ただ本当に、とにかく一人になりたかった。ひとりになってしまったという現実から目を背けるために、一人になりたかった。




 そこで横たわってたはずなのにただベッドだけある。使われてもないのに使っていたiPhoneが充電されずに置かれている。 そこに居たという名残が、現実を突き付けている。

 お骨を納めた時のなんとまあ呆気ないことか。先程まで皮張りの肉体だったのに、少し待てば骨だけに変わってしまう。少し待てば燃えて耐えうる骨だけが帰ってくる。 狭い瓶と小さな神棚に納まるのが、人間の最終的な形なのかと、ぼんやりと思ってしまった。
 自分はどの宗派にも属してない。家系の都合上それに則った形式で最終的に葬儀は進められた訳だが、あの人の 望んでいた形になっただろうか。「いらんことしなくてよかったのに」なんて声がなんとなく聞こえてきそうな気がした。
 先に進めないといけないならその手段を取るしか無かったというだけで、別に形式ばったものにこだわりたかったわけではなく。だから家系の型にはめて事が進むのが何となく嫌だなって思った。戒名もつけてもらってよかったねえ、とは思うけど、そこまでして欲しかっただろうか?と考えてしまう。

 今更考えても仕方ない。もう肉体として残っているのは、耐え抜かれた骨だけ。これを最終的にどう守っていくかは自分次第。 どちらの家の形式にも嵌りたくないから、自分で考えていこうと決めた。

 葬儀の最中、不思議と涙は出なかったし、火葬の時も妙な心地で待っていた。もう割り切っていたのかと言われたら全くそうじゃないんだけど、ただなんとなく、非現実をリアルタイムに体験していてそれを受け止めきれていなかっただけだと思う。

 四十九日前に母が夢に出てきた。一番症状が悪い時期で、身動きが取れない頃の姿で。
 夜ご飯どうしようって話す夢だった。夢の中の母はまだ喋れるけどかなり調子の悪い時期で、私に寄りかからないと座ってるのもやっとで、じゃあ私夜ご飯うどん食べに行くから、何か食べたいもの教えて、買って帰るからって出かけるところで目が覚めた。
 寄りかかる感覚だけが妙にリアルだったのを覚えている。片側にほんのり体温が残っているような気がした。その時本当に体調が悪く、仕事終わってからすぐに寝たせいで見た夢だったんだろうか。せめて四十九日過ぎてからとかに来てほしかったな。

 葬儀から怒涛の日々を過ごし、そうして身の回りの整理を済ませ、12年ほど母と過ごしてきた家を引っ越すことになった。家賃周りのこともそうだが、この家で過ごすには一人では広すぎると感じたから。
 家の中のものを断捨離しながら、こんなにも物に溢れた家だったのかここはと大層驚かされた。トラック積み放題の不用品回収に頼っていなかったらもっと大変な目に遭っていたかもしれない。
 けれどそれもまた、あの人と過ごしてきた時間の積み重ねだったのだろうと、自分にとって必要最低限の家財だけが残った随分と寂しくなった家の中を眺めて感じた。




 慌ただしく日々が過ぎ、気が付けば今年でもう三回忌らしい。
 カレンダーに毎年のリマインダーとして命日を入れているが、確認する度に自分が体験してきたこれまでの記憶が蘇る。人の記憶はまず声から消えると聞いたことがあるが、深夜に聞いた母の絞り出すようなあの声を、三年経った今でも未だに忘れられないでいる。

 だからこそ、ちょうどいい節目だから記憶の断捨離をしようとここに書き記すことにした。
 ずっと誰にも言えなかった、本当は苦しかったことを、一旦どこかに吐いておきたかったから。思い出して悲しくなるより、今のことにもっと集中したい。でもやっぱり、悪いことばっかじゃなかったなあって改めて思う。親と子よりも腐れ縁の友人みたいなノリで過ごしてきたからかな。

 大好きだったかと言われたら、正直なところ微妙だけど、憎からず親として好きだったのはきっと確かなんだと思う。

 もうすぐ5/16。あれから三回目の月日が巡るね。

 写真は母と京都旅行に行った時にとった藤棚です。綺麗だったなー。