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"戦争広告代理店"の読書感想文 ~世の中は正しさではなく、国民の空気の方が大事~

戦争広告代理店を読んだ。世の中は正しさではなく、国民の空気の方が大事で、それを理解したPRマンによって世が導かれていることがあるということがわかる本。

「虐殺者」「人道の敵」のレッテルを貼られたセルビア人の首都は、国際社会から締め出され、見捨てられた姿のままである。

これはボスニア紛争による結果であるが、この紛争は大いにビジネスによるPRによる情報戦争が大きなウエイトを占めているという。

冷戦後の世界で起きる様々な問題や紛争では、当事者がどのような人たちで、悪いのかどちらなのか、よくわからないことが多い。誘導の仕方次第で、国際世論はどちらの側にも傾く可能性がある。そのために、世論の支持を敵側に渡さず、味方に引きつける優れたPR戦略が極めて重要になっているのだ。

現代の問題は複雑なので、一般人の理解が及ばず、PRで環境を作れる。「実の戦い」ではなく「虚の戦い」なのだ。

アメリカのPR企業が取る手段は実に幅広い。CMや新聞広告を使うのはもちろん。メディアや政界、官界の重要人物に狙いを絞って、直接働きかける。あるいは、政治に影響力のある圧力団体を動かす。その他なんでも考えらる限り、あらゆる手段でクライアントの利益をはかる。

アメリカではこういった仕事が存在している。

国民の世論のサポートなしに、いちいち彼らの頼みを聞いてやることはできません。国民が支持していないのにそういう国の救援に動くことは、"政治的な自殺"といっても良い行為です。
「アメリカが軍事行動をとるとき、大統領は兵士たちの母親、おばあさん、そして子供に、なぜこの人は死ななければならないのか説明できなければいけないのです。」

ただ、アメリカも民主主義なので、世論をたきつけられないといけない。

イラクのクウェート侵攻から二ヶ月後、米議会下院の公聴会で一人のクウェート人少女が証言台に立った。15歳というその少女の名は「ナイラ」。奇跡的にクウェートを脱出し、アメリカに逃れてきたというナイラは、その眼で目撃した世にもおぞましい出来事を語った。
「病院に乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを入れた保育器が並ぶ部屋を見つけると、赤ちゃんを一人ずつ取り出し、床に投げ捨てました。冷たい床の上で、赤ちゃんは息を引き取っていたのです。恐かった。。」

この話がフェイクで、ヒル&ノールトン社の仕組まれた情報操作だったことは有名だが、こういった情報戦で世の中が動いてしまったことは枚挙にいとまがない。

「私は、ボスニア紛争をアメリカ的視点から捕まえました。それは民主主義や、異なった民族の共存という、アメリカが最も大切にする価値観を通じてみた、ということです」

ボスニア紛争を舞台とするこの話は、クウェート侵攻のような脚色はないが、世論を動かすための民意の形成の仕方が丁寧に書いてある。特に、「民族浄化(ethnic cleansing)」という言葉の発明により、ナチスのホロコーストを想起させる狙いがものすごくシャープである。

「"民族浄化"というこの一つの言葉で、人々はボスニア・ヘルツェコヴィナで何が起きていたかを理解することができるのです。「セルビア人がどこどこの村にやってきて、銃を突きつけ、30分以内に家を出て行けとモスレム人に命令し、彼らをトラックに乗せて・・・」と延々説明する代わりに、一言"ethnic cleansing"といえば全部伝わるんですよ」
「"民族浄化"は第二次世界大戦のあの忌まわしい記憶を利用した言葉なんだ。この言葉には具体的な意味がないのに、感情だけをむやみに刺激してしまったんだ」と指摘する。「民族浄化」には「ホロコースト」と言わずに、「ホロコースト」を思い起こさせる力があったのである。

まさにキャッチコピーの勝利だ。

また、例えば「民族浄化」という言葉を世の中に浸透させた後に下記のようなことを行なったようだ。

「我々は人権侵害などしていない」と発言するボルトンはすかさず、用意していた雑誌「タイム」を取り出した。表紙にはセルビア人に捕らえられ、鉄格子越しに痩せ衰えた上半身を晒すモスレム人がいっぱいに映し出されていた。その「タイム」を両手で高く上げると、一言「どんな言葉より、写真が真実を語っている」と言い後は無言で議場の隅々まで見えるように、各国の議席の方向に「タイム」を掲げて見せた。

この文章だけ見ると、全くナチスについて言及はしていないものの、ナチスのホロコーストを連想させる。しかし、蓋を開ければ、鉄格子は倉庫や変電設備を囲うためのもので、痩せた男を収容するためのものではなかったというの。嘘はついていないが、情報により世論を操作できる可能性を感じる。

「ニューヨークタイムズ」紙のコラムニストで、バルカン地域を専門とするデビット・ビンターは「ボスニアにあったのは、ナチスが作ったような強制収容所ではなかったのだ。それに収容所はセルビア人もモスレム人もどちらも作っていたんだ。それが、善意二元の描かれ方をしたのは、いかにもアメリカ特有のやり方だよ。アメリカ人というのは、なんでも単純にドラマ化したがる感慨懲悪が大好きな国民なんだ」

とコラムニストもいう。

憎悪と不信が渦巻く紛争地帯において「中立」であろうとするのは危険なことだ。

実態は中立な意見が正であったボスニア紛争だが、世論が出来上がってしまったら正論を言う人が叩かれて世の中から排除される。

「どんな人間であっても、その人の評判を落とすのは簡単なんです。根拠があろうとなかろうと、悪い評判をひたすら繰り出せば良いのです。ですから、この種の攻撃は大きなダメージにつながることがあります。たとえ事実でなくとも、詳しい事情を知らないテレビの視聴者や新聞の読者は信じてしまいますからね」

残念ながら、これが世の中である。良いか悪いかは別にして、このように世の中の意思決定がされているのだ。

日本の外交当局のPRのセンスは極めて低いレベルにある。これは構造的な問題である。アメリカの高級官僚は、民間で活躍してから役所に入る。あるいは完了となってからも、いったん外に出て経験を積む人が多い。彼らの能力はそういう民間の食うか食われるかの厳しい世界の中で磨かれるのだ。また、弁護士から転身したボルトン国務次官補がその前は司法省の高級官僚だったように、様々な省庁を体験した視野を広げていく例も多い。

幸か不幸か日本はこのレベルが著しく低いとのこと。これを吉と取るか凶と取るか・・。

少なくとも、世の中がこのように動いていることを各人が認識することが非常に重要であることは間違いない。

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