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うらやましがりの自分から解放された話

私は自分で言うのも恥ずかしいほど負けず嫌いで嫉妬深い子どもでした。
その嫉妬深さは大人になったからといって消えることはなく、50年以上も携えて生きてしまいました💦。

運動会のかけっこで負けると悔し涙を流し、自分よりも成績の良い子を妬み、お金持ちの同級生をうらやむなど自分よりも優れている人や自分にないものを持っている人と比較しては嫉妬心を燃やすというタイプでした。

だからといって、その悔しさをばねにして自分を奮い立たせるというわけでもなく、自分の心の醜さを見て見ぬふりしてきたのです。

信仰を持ってまず最初に力を入れたことは「罪の悔い改め」です。
クリスチャンにとっては何が罪かということは基本的なことだと思いますが、キリスト教と無縁の私は当初、「罪イコール犯罪?犯罪歴はないから大丈夫!」(^^)/ のようなズレた考えしかありませんでした。

聖書でいう罪は、私たち現代人の感覚とはかなり異なります。
新約聖書 ローマ信徒への手紙1章29-31から一例を挙げてみます。
あらゆる不義、悪、むさぼり、ねたみ、不和、欺き、陰口を言うこと、高慢、親に逆らうこと、無知、不誠実、無慈悲など

そうです。ねたみは立派な罪です。
神様を愛する信仰者の使命は人を救うこと、つまり伝道ですが、人を救うべき人が「人をねたむ」というのは大きな矛盾です。

筋金入りのねたみを握りしめて生きてきた自分は信仰者として致命的な人間であり、これは早急に悔い改めなくてはいけないと感じました💦。

よく考えてみると、嫉妬心を抱く度にいつも自分の心がもやもやするような感覚がありました。
御言葉を学んで思ったのは、もしかすると私の霊魂は嫉妬する度に心を痛め、嫉妬心をいさめたかったのではないかということです。

だからでしょうか、悔い改めて間もなくすると、ねたみや嫉妬心は考えていたよりも早くなくなりました。もちろん全く無いというわけではありませんが、信仰を持つ前とは比べ物にならないくらい激減したのです。

恐らくそれは、悔い改めたことによる効果と神様とつながることで生じる自信や喜びといった効果、この二つの相乗効果によって、嫉妬心を抱く必要がなくなったからだと思います。

こうして私は嫉妬心から解放され、心に余裕が生まれ、心底晴れやかな気分で毎日を過ごせるようになりました。

罪のない人はいません。神様は私たちが罪を悔い改めれば必ず許してくださいます。罪を悔い改めることは自分自身を清くすることです。

もし何となくもやもやした気持ちが生じるような場面があったなら、それは罪を犯さずに清くなってほしいと願う自分の霊魂の声かもしれません。

日本は中国に次いで第2位の無神論大国といわれ、宗教に対する偏見が大きい国です。
もし、日本人が子どもの頃から聖書を学び、罪をなるべく犯さないように気を付けて生きるならば、日本はもっと住みやすい社会になるに違いありません。

ニュースサイト(RAPT理論+α)やTwitterの最新情報などをチェックしてみると日本を含め、世界情勢の混乱ぶりは前代未聞といっても過言ではないほどです。

このような状況からみても、これからは神様を抜きにした生き方では決して幸せになれないことが分かります。

神様は人類と万物を創造された方です。神様を愛して生きることは宗教という概念を超えた本来の人間の姿だと思います。

ぜひ、御言葉のダイジェストだけでもご覧ください。RAPT有料記事(ダイジェスト版)はこちら

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