私のキャリア

こんにちは
これからnoteを始めてみようと思い、まずは自分のキャリアの棚卸しをやってみることにしました。

20年以上あるので、かなり長くなってしまいました。

私のキャリアを振り返ると、大学生の時にデジタル・インターネットの世界に触れてから今に至るまで、ずっとインターネットのプロダクト・サービス・事業に携わってきました。
ここでは、大学生から現在所属するLayerXに入社するまでを振り返りたいと思います。


大学生

2001年に慶應義塾大学の環境情報学部、通称SFCに入学したのですが、この時点で私は、インターネットと言えばネットカフェでYahoo!で調べ物をする程度にしか接点がありませんでした。ブラインドタッチもできません。
当時家庭へのインターネット普及率は40%台。モバイルインターネットについては、iモードの契約数が2000万弱から3000万人超へと一気に増加した時代です、当時の平均的な人のインターネットの利用状況はというと、1日のメール受信数が5通、Webアクセスは10PV程度だったそうです。
そんな時代での大学生活が私の原体験となっており、今に至るまで影響を与えているものだなと思いました。

原体験

先述したようなインターネット環境だった時代に、大学のキャンパス内には光ファイバーの高速通信網が張り巡らされ、教室はもちろん至る所までWi-Fiが繋がるようなインターネット環境でした。
学生は皆ノートPCを持ち歩き、どこかに座るやいなやMSNのメッセンジャーでチャットをしていました。1日の平均メール受信数が5通(流石に大学生はもっと多いが)時代に、毎日大量のメッセージをやり取りしているのは完全に別世界でした。

この、いつでも誰かと繋がっているというのが私の原体験の一つです。

「インターネットとは?」に対する回答は人それぞれだと思います。「Power to the people」と答える人も多いのではないでしょうか。
私にとっては「Real time Communication」です。いつでもどこでも誰かと繋がっている体験は、Wi-Fi、ノートPC、メッセンジャーが実現した全く新しい感覚でした。
カンボジアを旅行していた時に、いつもと変わらず日本にいる友だちとチャットをしててふと感じた、遠くにいる友達を近くに感じる不思議な感覚は今でも鮮明に覚えています。

この感覚が、誰にとっても当たり前のものとして日常化するのは、4G、スマホ、LINEが揃った2011年以降ではないかと思います。

二つ目の原体験はデジタルでのモノづくりです。

SFCは不思議な学び場で、環境情報学部と総合政策学部があり(私の入学年度に看護医療学部も新設された)、どちらの学部に所属していても受講できる授業に全く差はありません。内容も、政治、経済、社会、技術、環境、芸術などありとあらゆる分野があります。そしてほとんどの単位を自由に選択して取得することができるのですが、なぜかプログラミングは1年次の必須科目でした。(これは自然言語と人工言語が両輪で学びの基礎となるというような考えのようです)

そのため、ブラインドタッチすらできなかった私が、強制的にUNIX環境でJavaを書くことになります。本のサンプルコードのコピペの寄せ集めでしかなかったものの、作りたいものを考えて、頭の中で組み立てならコードを書き、コンパイルして実行した時に思い通りに動いてくれた時は結構感動しました。

また、映像制作も一時期熱中してました。授業の課題やサークルの試合などでカメラや三脚などを借りて撮影し、編集専用の教室に泊まり込んでPremiereで編集に勤しんでました。どんな素材を撮影して集め、フレーム単位でどう繋いでいくか、どんなタイミングでどんな音楽をのせるかなど、プログラミングとはまた違った創作の楽しさがあります。

その後デジタルエンターテイメントをテーマにする研究室で、Web上でのインタラクティブなユーザーインターフェースの研究をするようになり、2年間ほぼ毎日研究室に篭って、FlashのAction Scriptを書いたり、Perlを書いたりしていました。

あまりモノづくりが得意ではないと思ってた自分が、パソコンだけで何かを作れるというのは結構感動的な体験であり、作る過程そのものから楽しめるのだなと気づいたのが、もう一つの原体験でした。

進路

大学3年生の頃から進路を考え始めますが、キーワードとして「インターネット」「コミュニケーション」「モノづくり」という原体験に「数千万人が使うサービス作り」というのが加わりました。
大学生の時のモノづくりは、ただただ自分が作りたいものを作るだけでしたが、それを生業にするのであれば「人に使ってもらえる」モノづくりである必要があります。
そこで「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」を自分のキャリアのテーマに設定しました。
家族や友達誰もが自然と使ってくれるサービス、それは確率から考えると100万人、200万人のサービスでは実現できません。数千万人のサービスとなって初めて、そのような状況になります。

数千万人が使うサービスとは。
当時数千万人が使うWebサービスというのは、全くピンときてない規模感でした。mixiやGREEなどのSNSはまだ始まったばかり。YoutubeやTwitterはまだ存在していない。
一方で携帯の普及率は90%を超えて(かなりクローズだったものの)インターネットの入り口として誰もが肌身離さず持ち歩くものになっていました。大規模なサービスは「モバイル」から生まれるというのが私の仮説になり、「インターネット」「コミュニケーション」という原体験と合わさってNTTドコモに就職することになりました。

NTTドコモ


2005年〜2008年


私は技術系のサービス企画職として採用いただいたのですが、実際に担った役割としては、「Webディレクター」という言葉が一番しっくりきます。今で言うプロダクトマネージャーよりはだいぶ狭い領域だったと思います。

モバイルサービスをやりたいと思って入社したものの、半年の研修を経て配属されたのは、PC向けのWebサービスを担当する部署でした。
当時のドコモは日本のモバイルサービスを自ら作ってきただけあって、もモバイルに関しては最先端であり専門家の集まりでしたが、Webサービスに関しては逆に馴染みのない人が大多数でした。ですので新しい仕事を任せていただく機会は多く、ある意味ではラッキーだったのかもしれません。

今も自分でも利用するmy docomoの全面リニューアルやDCMX(現dカード)の立ち上げ、imode.netという意気込みのある名前のサービスの立ち上げ、docomo IDやオンラインストアの普及戦略など、3年でたくさんのサービスに携わらせていただきました。

日本のモバイルインターネットは、時には「ガラパゴス」と揶揄されたこともありますが、間違いなく時代を「ワクワク」させてくれたものだったと思います。
今では当たり前ですが、携帯端末でアプリをダウンロードして様々な機能が使えるようになり、2004年には既におサイフケータイが登場。その後音楽や動画がいつでもどこでも見れるようになるなど、新機種が出るたびに新しい機能が搭載され、毎回驚くようにモバイル体験がアップデートされていきました。
iモードは、果たしてインターネットだったのか「iモード」というものだったのか、インターネットの歴史を自分が見てきた視点からどこかで振り返りたいなと思います。

エクストーン


2008年〜2014年


「ニワンゴ」というサービスを開発することになったことをきっかけにSFCの学生が立ち上げた会社。創業メンバーが大学時代の友人という縁で入社させていただきました。

ドコモではプラットフォーマーとして大規模なサービスにも携わることになったものの、原体験の一つである「モノづくり」からは正直遠い環境でした。
自分たちはパワポなどで画面の仕様を作り、プロダクトの開発やデザインは外部の企業に委託をするので、自分が開発に携わっている感触はなく、自分で手を動かしていた時に感じていたモノづくりの楽しさを感じずらい環境ではありました。

また、ドコモという大企業の提供する大規模サービスの中で一人の役割は限定的で、正直自分が作ったサービスという実感を持つことはできませんでした。

「自分が作った」なんて、エゴイスティックだなと思うのですが、それを目指すことが自分の原動力だったので、小さくても仲間と一緒になってサービスを作りたいという思いが強まり、ドコモとは真逆、社員20人くらいでメンバーのほとんどがエンジニアとデザイナーという会社に転職しました。

まだプロダクトマネージャーという名前はなくてWebディレクターと言っていた気がしますが、業務の幅はドコモ時代とは全く違いました。
会社としては、プロダクトの受託開発や運用とレベビューシェアのプロダクト開発で売上を作りつつ、自社サービスを開発して売上比率を変えていきたいと思っていました。
私も受託開発にもガッツリ携わっていたので、プロダクトの企画や仕様作成だけではなく、お客様先でのコミュニケーションや契約周り、コンペで新しい仕事の獲得など、何でもやってました。
また、採用や制度作り、事業計画作りなど会社全般的なことにも携わり、入社4年ほどのタイミングから取締役も務めていました。

2008年にiPhone3Gが発売され、App Storeができた時には、すぐに自社でいくつもアプリを開発して知見をためつつ、スマホアプリ開発のお仕事を獲得しにいきました。前職で担当していたmy docomoのアプリも新規開発のコンペに参加し開発させていただき、そこから色々なお仕事に広げていくなどしていました。

受託のお仕事と並行して、特に在籍の後半は自分たちのサービス開発を頑張っていました。
「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」という想いを常に頭の片隅に置きながら、facebookで友だちと一緒にプレゼントを買って贈るようなサービスや、フリマアプリなどを作ったのですが、結果的にはどれも上手くいきませんでした。

特にフリマアプリを上手く立ち上げられなかったことは、今でも心の中で大きなしこりとして残っています。

フリマアプリの開発を始めた時にはまだメルカリも世に出ておらず、タイミングも着想も良かったと思います。
着想したきっかけは、自分の妹がmixiのコミュニティで子供服を売り買いしていたことでした。ママ同士の共感に基づく物の売り買いはオークションとは全然違う熱量がありながら、決済も配送の仕組みもないままmixi上で口座情報や住所のやり取りをしていたため、これをきちんと仕組み化する+スマホでより便利に出品・購入ができるようにしたらという着眼点はとても良かったと思います。
けれども、起点である子供服の売り買いをそのままサービスにしたことで自らTAMを絞ってしまったこと、スモールチームで速度の上がらない開発している間に大量にフリマアプリが出てきたこと、そしてレッドオーシャンで勝ち切る力(知見・胆力・資金力・採用力などなど)を持ち合わせてなかったこと、理由をあげればキリがないくらい失敗要因だらけでした。

特に最後発であるメルカリの戦い方を見て、自分にはとても追いつけないと大いに挫折感を味わったものでした。

フリルを作った堀井さんの「メルカリ 小泉さんからのエグい学び」というnoteが非常に話題になりましたが、私もこの時の状況をリアルタイム体感しており、圧倒的な差を感じて大いに挫折感を味わったものでした。
フリルはフリマアプリの仕組みをほぼほぼ作り上げたサービスで、しかもその仕組みは今の状況から見ても完璧と言って良いほど完成度の高いものでした。私もフリマサービスを着想してからしばらく経ってフリルが出てきた時、その仕組みの完成度から完全に真似るしかないと思いました。フリルは「新しい仕組みを生み出すようなこんなプロダクト作ってみたい」と憧れのような存在でした。一方メルカリは「こんなの真似できない」と言う絶望的な存在でした。

結果的にエクストーン在籍時には「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」には程遠く、あらゆる面での自身の力不足を実感し、一緒にやっていた仲間に対しても良い結果を生み出せなかった懺悔の気持ちが今でも強く残っています。

LINE


2014年〜2023年


前述の通り、メルカリを目の当たりにして大いなる挫折を味わったものの、もう一度「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」に挑みたいと思いました。強いエンジニアやデザイナーと強いプロダクトが作れること、自分に足りない知見・経験を補ってくれる経験があること、サービスを1から作るチャンスがあること、そういったことを考えると「LINEしかない」と思い、入社させていただくことになりました。

私が入社した2014年は、LINEが生まれて3年経ち、全世界でのダウンロード数が10億、カジュアルゲームの大ヒットと、ファミリーサービスが次々に生まれるという、最も活気に溢れた頃だったと思います。
一方で社員数はまだ数百人でオフィス内ですれ違う人も大体顔見知り、ベンチャー感あふれる感じでした。
経営との距離も近く、入社したての頃から、トップの慎さんや出澤さんともコミュニケーションすることは良くありました。

LINEは元々韓国NAVERの日本法人として始まったのですが、事業撤退、再挑戦、会社分離やライブドア等との合併など、非常に複雑な道を辿ってきていました。故に内在するカルチャーも複雑な会社でありながら、LINEというサービス、慎さんという人がそれらを全てまとめ上げていた、とてもユニークな会社だと思います。

LINEギフト

LINE在籍中は、入社間もなくからLINEギフトというサービスの立ち上げを始め、以降ずっとプロダクトと事業両方をリードしていました。

入社当時、LINEはまだ数百人の会社で、LINEという巨大なプラットフォームを開発・運用しているだけでなく、次々と新しいサービスを立ち上げていたので、1サービスあたりの担当者はどのサービスも驚くほど小さいものでした。
私の場合は、サービスの立ち上げのタイミングから、プロダクトの企画や詳細な仕様作りをやりつつ、オペレーションの設計や体制作り、店舗の開拓、マーケティングなど、多くのことを担っていました。
また、実務をやりながら、事業戦略の立案や事業計画の策定、組織作りもやり、本当に何でもやったなと思います。
6年くらいは土台となるプロダクト・サービス作り、3年くらいは大規模にグロースするための事業・マーケティングに自分の稼動の比重を置いてました。

サービスのリリース時点では、企画やオペレーションを担うのは私含めて数名、デザイン・開発は他サービスとの兼務で数名という体制でしたが、最終的には、日本・韓国・ベトナムにまたがり、200人くらいが関わるプロジェクトになっていました。

率先して何でもやる経験が結果として自分のプロダクトマネージャとしての「幅広さ」を作ることになり、社内外で関わる人の幅広さにも繋がったことは、幸運だったなと思います。

LINEで最初に面談してもらった時、「具体的にやりたいことがまだある訳ではないけど、自分の家族や友達が使ってくれるサービスが作りたい」ということだけを言ってました。今考えると、とんでもないなと思います。
結果、私はLINEがちょうど立ち上げ始めていたEC領域で採用していただくことになりました。
前職でフリマアプリやソーシャルギフトサービスを開発した経験を持っていたからでした。どちらもサービスとしては全く上手くいかなかったものの、領域としては愛着もやりがいも持っていました。狭い属性に深く刺さるというより、誰もが使ってくれる可能性がある領域なので「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」にも近いと思っていました。
入社直後にギフトサービスの立ち上げを任せていただき、結果としてLINEギフトというサービスを育てることができたのは、最大のConnecting the dotsだなと思っています。その時全然上手くいかなくて挫折感、喪失感しか残らなかったとしても、その後の何かしら大きなものにつながることがあります。

ずっと1つのサービスを担当していたものの、変化が激しく自分が担うこともどんどん増えていったので、全く飽きることのない9年間でした。
LINEギフトはソーシャルギフトサービスとしてカテゴライズされますが、ニーズが顕在化しておらず、世界的に見ても成功事例がとても少ない領域です。
日本でも先行事例はいくつもありましたが、ユーザーからユーザーにギフトを贈るプラットフォームとして事業的に成立したサービスは一つもなく、多くの会社が販促のためのプラットフォームに事業シフトしています。facebookも何度かギフトサービスを始めては撤退していたり、幾つものスタートアップが生まれては撤退しており、韓国を除いて成功事例は聞いたことがありません。

LINEギフト自体も、リリース月の購入者数は数千人、流通額数百万円という、全く未来に希望が見えないところからのスタートでした。
強い競合はおらず、正解も成功確率も誰にも分からないため、何度も事業撤退が真剣に議論されたこともありますが、私がLINEを退く2023年には、LINEギフトで贈りあったことがある人が3000万人を超えるところにまでなりました。

自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る

大学生の時に思った「「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」はLINEギフトが叶えてくれたかなと思います。

友達に会うと「LINEギフトこの前使ったよ」と言ってくれます。現在所属しているLayerXに入社した時も、多くの人に「LINEギフト使ってます」と声をかけてもらえました。

先日、スマートフォンを持ったばかりの甥っ子が、妹(甥っ子の母)の誕生日にLINEギフトで誕生日プレゼントを贈ってくれたようです。

ここまで世の中に広まるサービスを作ることができたのかと、じわっと感動した気持ちになりました。

私はサービス作りをよく、頂上のない山登りに例えます。

サービスを作る時、そこそこの目標を立てることはまずないでしょう。立てた時には目も眩むような目標を設定し、頑張って頑張って登り続けてようやくそこに到達しそうな時は、もう次の目標に向かって歩いている。

じゃあ、いつ報われるのかというと、それは本当に何気ない時です。
山を登っているときは、道を間違わないよう、滑り落ちないよう、目の前の斜面しか目に入りません。

ですが、ふと何気なく後ろを振り返ると、登ってきた道の向こう側に、壮大な景色を見ることができ、ずいぶん高くまで登ってきたなと、本当に頑張ってきたなと思えたりします。

そして、また先の見えない頂上に向かって登り始めるのです。

「「自分の家族や友達が使ってくれるサービスを作る」という山は、究極世界中の人類全員が使うサービス、ということになるのでしょうか。

私は、その山は一旦降りることにして、また全然違った山を登り始めています。
こちらの山は、「未来の働き方」に繋がる山で、前人未到と言っても良いかもしれません。

まだまだ、プロダクト作り、楽しんでいきたいと思います。

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