【書評】『科学はなぜわかりにくいのか 現代科学の方法論を理解する』/科学とは方法論である【基礎教養部】

上に挙げた本と下に載せる書評を読み、私が感じたことや考えたことをこれから書いていく。


本書の主題は「科学の分かりにくさ」ではなく、科学的方法論である。
まず、データありきだ。データかなければ科学は始まらない。科学者たちは、このデータを元にして、「仮説演繹法」によって議論を展開していく。仮説演繹法ではまず、与えられたデータを説明し得る仮説を考案する。次に、その仮説が正しいと仮定し、そこから出発して論理的な推論を重ねていく。最後に、推論によって得られた帰結と実際のデータを比較し、仮説の妥当性を検討する。このように、データがあって、それを説明し得る仮説の中から最も妥当性の高い説を選び出していくやり方が科学的方法論であり、この方法論こそが科学そのものである。

私は確かに、科学がこのような方法論によって発展してきたことを知っている。しかしそれはあくまで知識としてである。実感は薄い。どこか他人事である。それもそのはず、私は科学者ではないからである。いち大学学部生である私が「科学」に触れるのは、教科書の中であったり、古典的な実験を通してのみである。これらの「科学」には変更の余地がない。データを説明し得る仮説どうしをぶつけ合い、それらの妥当性を検証していくような、ダイナミックな「生きた科学」とは対称的である。

普段「静的」な科学にしか触れていない私であっても、「動的」な科学に対してイメージが全く湧かないわけではない。例えばある分野の最先端の研究によって、それまでの定説が覆された(かもしれない)というような内容のニュースを目にすることがある。自分が教科書で学ぶ内容を「正しい」と思えるのも、過去に大勢の研究者が仮説バトルを展開した上で、それでも生き残った説を自分は学んでいるのだという意識があるからである。しかしここで科学に対して「正しい」という印象を抱いてしまっていることは、自分が「静的」な科学に染まってしまっていることを表しているのだと思う。

定説は「正しい」と言っていいのか。もちろん、ものによるだろう。極端なことを言ってしまえば、本当に「正しい」ものなんて何一つない。しかし生活する上ではそんなことを言ってられないから、妥当性の高いものは「正しい」と呼んでいる。ただ、科学に関しては、そういう極端なことを言わなくとも、「正しい」ことは一つもないのである。全てはあくまで仮説である。仮説、どこかで聞いたことのあるワードだ…。

本書を読んでいて目からウロコだったのは、「科学で重視されるのは説明力ではなく予測力である」という点だ。言われてみれば、確かにそうあるべきである。もっともらしい「物語」を創作することではなく、多くの予測を導き出す仮説を立てること、また、そうした予測を後続研究によって検証することこそが科学者の仕事である。科学とは、複数の仮説の中から妥当性の高い仮説を選び出そうとする動きのことである。ひとつの仮説から多くの予測が立つことは、その仮説に対して、それだけ多くの検証の機会が与えられることを意味し、それによって科学者たちは多角的なアプローチがとれる。一般の人からすると、予測力よりも説明力のほうが魅力的に映るだろう。少なくとも私にとってはそうである。それっぽい説明を聞くことはそれ自体、楽しい。それ以上深く考えずとも、何かを知った気になれる。しかし科学は裏付けがあって初めて科学となり得る。


ところで、科学的方法論は科学者でない人にとっても有用である。有用であるというより、私達が何かを考える際に必要なものだ。まず、何かが起こる。私は、なぜそれが起きたのかを考える。いくつかの仮説を立てる。この時点ではどれが正解かは分からないし、自分が考えついた仮説の中に正解が含まれていない場合もある。どの仮説を採用するかの基準は、一般的な事実や過去の経験、勘など、バラバラである。ここの方法論が確立されていないので、厳密には科学的ではない。しかし、いくつかのストーリーの中でもっともらしいものを選んで納得するという流れは、科学と同じである。

さて、以上に書いたことはすべて、何かが起こったときにはその原因があることを暗黙の前提としている。そして、原因と結果の結びつきは誰にとっても納得のあるものであるということも。

因果関係は存在するのか。この問いは科学では問えない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?