【書評】「短歌のガチャポン」/縛り【基礎教養部】
ラボメンのimadonさんから紹介していただいた「短歌のガチャポン」を読み、感じたことや考えたことなどを書いていく!
imadonさんの記事には下から飛べます。
本書は歌人・穂村弘による短歌選集である。ガチャポンというのは、硬貨を入れてハンドルを回すとカプセルが出てくるあれのこと。どんな短歌が出てくるかはページを開いてからのお楽しみというわけです。
私にとってはタイムリーな本であった。ちょうど最近、俳句を始めたのだ。俳句も短歌も、字数制限のある表現である。俳句だったら五七五、短歌だったら五七五七七という限られた文字の中で、表現したいことを表現する。俳句にも短歌にも字余りはあるが、それは定型があってこその「余り」である。
制約があると、その中でなんとかしようと、あれこれ工夫をする。自分が俳句を作ろうとする中で、そして本書の短歌を眺める中で気づいたことをいくつか書いていこう。
俳句を始めてから、「詠みたい」という欲求が自分の中に新たに加わり、詠めそうなものを探すようになった。それは、意識しなければ見過ごしてしまいそうな生活の些細な断片に言葉という形を与え、とっておきたい、記憶しておきたいという欲求にほかならない。
しかし、自分の言いたいことが初めから俳句・短歌の形をしているわけではない。形を整える必要がある。ここでは言い換え表現が役に立つ。例えば太陽の光だったら陽光、日の光としてみたり、あるいは比喩を使ってスポットライトなどとすることもできるだろう。もちろん言い換える前と後で、同じ対象を指していても、その言葉が想起させる印象は多かれ少なかれ異なる。自分の言いたいことを崩さずに、それでいて型にはまる表現を見つける必要がある。これが難しく、そしてそれゆえに面白い。ときには、文法的には正しくない表現をあえて使ったり、辞書には載っていない新しい語を作ってしまったりすることもある。そんな表現が使われている歌を本書から一つ取り出してみよう。
「悲しいだった」という表現は日本語の文法的には正しくないだろうが、それでも表現としては成立していて、言葉で説明するのは難しいが、「悲しかった」や「悲しくなった」とはまた違う独特なニュアンスを感じる。普段は(そして一般的にも)しない言葉遣いに対する違和感と、それでもどうしてか感じる馴染みの良さが同居している。
「表現として成立している」とはどういうことか。それは言い換えれば、その表現の受け手のことが考えられているということである。「自分よがり」でないということだ。表現する側が、表現の意図が受け手にも届いてほしい、自分がこの表現に抱くイメージが共有されてほしいと願うことによって初めて表現は表現足りうるのだと思う。「悲しいだった」もそういう思いとともに生まれた表現だろう。そう考える根拠はないが、そんな気がするのである。
もちろん自分の表現物を目にして他人が何を感じるか・考えるかは分からない。自分が思ってもみなかった受け取られ方をされるかもしれない。しかしそれは、私が他人に何かを伝えることを諦める理由にはならない。
言葉とは不思議なものである。生まれたときは何も話せなかったのに、いつの間にか新しい単語を覚え、そのつなぎ方を覚え、自然に話せるようになっていた。言葉は外の世界からインストールされた。だから、言葉は自分のものではない。言わば借り物である。しかし一方で、特定の言葉に対して抱く、私独特のイメージなるものも想定できる。想定できると言ったのは、言葉に対して抱くイメージは原理的に他者と比較できないからである。
他人のものであって、自分のものでもある。どこまでイメージが共有されていて、どこからが自分特有なのか。はっきりとした境界線があるわけでもないし、そもそも「自分に特有の言語イメージ」を定義できないだろう。自分に特有ということを確かめようがないのだから。
言葉に対するこの辺の感覚は、実際に自分で多くの言葉に触れることで涵養されていく。他の方法はない。
本記事は私の表現である。
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