【日記】R060108 グアダルーペ・ネッテル「桟橋の向こう側」

 たとえば、オルフェウスやイザナギが死者の国に行って帰ってきたり、アリスが不思議の国に、または千尋が油屋に行って帰ってくるように、しばしば、主人公が異界に「行って、帰ってくる」という形式が、物語の基本であると指摘される。第二十四回の物語論勉強会で題材となったグアダルーペ・ネッテルによる短編小説「桟橋の向こう側」(『花弁とその他の不穏な物語』収録)も、そうした形式に則った物語である。

 ストーリーの本筋は、家庭でも学校でも冴えない日々を送っている少女と思しき「私」が、夏休みのある日、彼女の目から見て周囲よりはいくらかマシに見えるおばとその恋人たちに連れられて、「私」いわく「無人島に近い島」である田舎のサンタエレナ島に赴くところからはじまる。題名に使われている「桟橋」は、異界たるこの島と外の日常世界を分かつ標である。しかし、島に着いた「私」が、ようやく世間のしがらみから解放されたことに喜ぶのも束の間ことで、彼女と同じように外からやってきた都会人である同い年のミシェルと出会い、島の外に置いてきたはずの現実と対峙することになる。ただし、「私」ははじめミシェルの中に自分が島の外に置いてきた卑俗な日常ばかり見て、彼女を遠ざけるように振る舞うが、ミシェルはミシェルで、複雑な問題を秘めていて、それは「私」が押しつけようとしている印象におさまらない。そして、ある出来事をきっかけに「私」の態度が決定的に変わることになる。それがこの物語の中心にある事件だと言えるだろう。

 「私」が島にやってきた理由、つまり物語を駆動する「欠如」は、彼女自身の言葉で述べるならば〈ほんものの孤独〉を探し求めていることである。作中の言葉をそのまま引くならば「望ましくない楽園」である〈ほんものの孤独〉に、中学生の少女である「私」は、島滞在中についに足を踏み入れない。ただし、彼女よりも先に島を去っていくミシェルの瞳の中に、それを見いだす。行きて帰りし物語の型は通過儀礼にも喩えられるが、この通過儀礼の中で彼女をつき動かし、そして結果的に回復することになった欠如が、ミシェルを通じた〈ほんものの孤独〉との遭遇だったことになる。

 以上は梗概だが、この短編小説の興味深い作りは、この「行って、帰ってくる」旅が、小説の内容と語りの面で二重化されている点にある。物語論の言葉で言えば、物語内容としての往来と、物語言説の往来とが重なりあっているのだ。
 この小説は、まず大人である「私」が中学の夏休みを回想するという形で、上述の旅の時間に物語現在が移り、それが終わると再び物語現在が大人時代の「私」に戻ってくるという錯時法が採用されている。つまり、サンタエレナ島で夏休みを過ごした中学生の「私」が、物語内容のレベルで「行って、帰る」一方で、その過去を語る大人の「私」は、物語言説の次元で過去である中学生時代に行って帰る。そして、この構造に着目したとき、重要になってくるのは、大人である「私」を回想へと誘う欠如の方である。

 大人の「私」を過去への旅に誘う欠如もまた〈ほんものの孤独〉を求めてのことである。

老年にさしかかった者のなかには、〈ほんものの孤独〉のことを、歳月とともに作りあげられてきた頑丈な蜘蛛の巣のように語る者もいれば、たどりつけたりつけなかったりする、気まぐれで特権的な場所だと言う者もいる。(中略)果てしなく続く世間話の中で思慮を失うと、わたしはあとのほうの定義の支持にまわる。十五歳のときに自分が〈ほんものの孤独〉という楽園を探し求めていたことを、ある種のノスタルジーとともに思い出すからだ

「桟橋の向こう側」

 ここでは、中学生の「私」が〈ほんものの孤独〉を誤解していたこと、それが島への旅とミシェルへの出会いによって誤解であると分かったことが、ほほえましい過去のエピソードとなりつつあることが示されている。しかし、同時に、過去をそのように解釈する現在のまなざしが、「思慮を失う」ことの結果であり、それ自体が大人の「私」により詳細な回想を語らしめる「欠如」となっていることが示されているのだ。そして、その回想が終わったとき、〈ほんものの孤独〉は「私」の前でそれについて語る親戚たちの瞳の中にも垣間見えるものに変わっている。つまり、冒頭において見逃していた〈ほんものの孤独〉をこうして再びまなざすことができるようになったことが、欠如の回復なのだ。ここでは、過去を物語として語りなおすということそのものが、再生であるような通過儀礼の在り方が示されている。

 第二十四回の物語論勉強会では、ミシェルとの別れとの後で、〈ほんものの孤独〉に私自身が足を踏み入れることがあったのかどうかということが、話題に上った。けれども、上述のことを踏まえたとき、〈ほんものの孤独〉の一つの性格が露わになっていることに、あらためて気づかなければならない。それは、過去においてミシェルがそうであり、現在において親戚たちがそうであるように、彼らによって語られ、同意出来たりできなかったりするような孤独ではないのだ。それができる孤独は、冒頭において親戚たちの口から語られている「歳月とともに作りあげられてきた頑丈な蜘蛛の巣」だったり、「たどりつけたりつけなかったりする、気まぐれで特権的な場所」だったりするような孤独ではあるのかもしれないが、「私」が見出した〈ほんものの孤独〉ではない。「私」が見出した〈ほんものの孤独〉は、ただ彼らの瞳の中に見出される。そうであるならば、「私」がその〈ほんものの孤独〉に足を踏み入れたかどうかという問いは、「私」自身が答えることはできず、したがって「私」が語るこの物語の中には、見つけることができないのでなければならない。それは、「私」をまなざす者が、もしかしたら見つけるかもしれず、そして見いだされたことに「私」自身が気づくことがない孤独なのだ。それは、理解されることによって解消されることがなく、むしろ理解されることによって深まる孤独である。

 このように解釈するとき、小説の冒頭に引用されているシオランの言葉が、あらためて真実であったことになるだろう。

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