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「或阿呆の一生」(芥川龍之介)

 芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」「杜子春」などの初期の超名作は小中学生の頃に読んだし、「歯車」は大学生の頃に何度か読んだ。なかでも「煙草と悪魔」は不思議な読後感があって好きな短編のひとつではある。

 まあそれはともかく、晩年の頃の作品をいくつか読んでみよう、と思ったので、「河童・或阿呆の一生」(新潮文庫)を読んでみた。

 「或阿呆の一生」は、ちょっととっつきにくい。短い文章が51にもわたっているのだが、ただ予備知識もなく読んではなんのことか分からないだろうと思う。この短編は、芥川龍之介が死に臨んで自分の一生を顧みたときに、思い当たったことを51上げたものだ。といっても、自殺直前の彼はかなり厭世的なところにあったので、この51の話もかなり厭世的である。いくつかあげてみると、

二十四(出産)
 彼は襖側に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤子を洗うのを見下ろしていた。 「何の為にこいつも生れて来たのだろう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。ー何の為に又こいつも己のようなものを父にする運命を荷ったのだろう?」 三十一(大地震)
 彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐った死骸の匂も存外悪くないと思ったりした。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。 「神々に愛せらるるものは夭折す」
「誰も彼も死んでしまえば善い」彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。 四十七(火あそび)
 彼女はかがやかしい顔をしていた。それは丁度朝日の光の薄氷にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。
「死にたがっていらっしゃるのですね」
「ええ。ーいいえ、死にたがっているよりも生きることに飽きているのです」
彼等はこう云う問答から一しょに死ぬことを約束した。

五十(俘)

 彼はすっかり疲れ切った挙げ句、ふとラディゲの臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑い声を感じた。それは「神の兵卒たちは己をつかまえに来る」という言葉だった。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘おうとした。しかしどう云う闘いも肉体的に彼には不可能だった。

 読んでいる最中、私は「ああ、こういう感覚は自分だけじゃなかったのか」と気づいた。

 死にたくなるというと極端だし、そこまで自分のことについて突き詰めて考えたことはないが、日常の生活の中でふと、「こんな日々があと何年続くのか」とか、「すべてをかなぐり捨てて、どこかに行ってしまいたい」とか、「誰とも会いたくない」とか、そういう感覚に陥ってしまうことがあったのだ。仕事を始める前はこんな感覚はなかったような気がするが、私は日記を書いているわけではないので、「そんな気がする」だけだ。

 芥川龍之介の自殺は、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉が有名だが、実際では自身の病気と姉の夫が自殺したことによる借金苦、昔関係をもった女性の再訪、などなど、「ぼんやりとした」どころではない、具体的な悩みばかりであったといわれる。

 家族があり、文壇で地位を気づいていた芥川には、この世のすべての関係を絶って遁世する、などということは無理であった。結局、この世から遁世する=自殺するしかなかったのか、と思うと、「或阿呆の一生」というタイトルが私にはボディーブローのように効いてくるのであった。

彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。(或阿呆の一生)

 ところで、どうでもいいことだが、五十「俘」の前半に出てくる「発狂した友だち」とは宇野浩二のことだろうな~。


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