社会のせいにしよう

ずいぶん前から裁判傍聴に通い、そこで見聞きしたものをTwitterやらいろいろで発信したりしている。別に誰かに何かを訴求しようとする意図もなく、ただ自分の感じたこと思ったことをそのまま書いているだけなのだが、ときどき見知らぬ人からこんなメッセージが送られてくることがある。いわく、「犯罪者を擁護するのか!」というお怒りやご不満の声だ。私としては被告人をことさらに責めるつもりはなく、かといって擁護する気もない。なにせただの傍聴人、事件とは無関係な第三者なのだ。感情的に被告人を糾弾する義理などないのだが、そうしないことがどうも犯人に同情的で「擁護」しているように見える方がいるらしい。もちろん犯行に至る動機や経緯を聞いて同情してしまうこともあるが、だからといってその人が犯した違法行為がなくなるわけでもなし、法にのっとって処分を受けるのは当然の話だと思っている。
同じように何度か私に寄せられるメッセージとして多いのは「また『社会のせい』かよwww」といったような揶揄の調子が濃いものだ。私が「社会のせい」というフレーズを用いたことはおそらくないのだが、たしかにそう受け取れるようなことは幾度となく書いたことがある。一体何が目の前にいる被告人席に座っている人を犯罪に走らせたのか、その道すじを自分なりに考えて書いているとどうしても「社会」の歪みのようなものにぶち当たってしまうことがある。それを書くと「また『社会のせい』にして…」と嘲られてしまうのだ。
私は私の思ったことをただ書くだけである。誰に何を言われようとそんなのは知ったことではない。上記のようなことを誰かに言われても私は何一つとして変わることはない。それでもどうにか私を「論破」してやろうと鼻息も荒く粗野な調子で何かを言ってくる人はいるが、不毛な行為だなあと憐れむだけだ。


「社会のせいにするな」、そもそもこれってどういう意味の言葉なのだろう。一体何がこの言葉を人に綴らせているのだろう。
生まれながらにして犯罪傾向が強くとにかく理由もなく犯罪を犯しまくる根っからの犯罪者、こんな人は(いるのかもしれないが)今のところは見たことがない。前科20犯を数えるような、人生の半分以上を刑務所で過ごしている人なんかは時折いるが、そういう人にしたって犯罪を犯すにはそれなりの理由がある。その理由を突き詰めて検討していくと、その人個人の資質だけでは説明できなくなってくる。当たり前の話だ。
だって誰もが「社会」の中で生きているのだ。
「社会」と言っても、その範囲の射程をどの程度に設定するかで意味合いは変わってくる。そう考えたら「社会」の二文字で済ませるのはあまりにも雑だし不適当なことではあるかもしれない。とはいえ個人の犯した犯罪に「社会」の関わりがないことなど絶対にありえない。
誰かが犯罪に走るまでの道のり、それは千差万別であって一般化できるものでもないしされるべきでもない。そこをあえて一般化してみるなら、ほとんどの場合根底にあるのは「孤独」と「貧困」である。
それぞれの孤独があり、それぞれの貧困がある。そこに誰かを追いやったものは何なのか。


「社会のせいにする」と「犯罪者を擁護するな」、この2つのフレーズに共通しているものがある。それは犯罪の責を個人の資質にのみ負わせたいとする願望だ。
その願望に従うとき、つまりあらゆる犯罪を「社会のせい」でなく「犯罪者のみが悪い」と片付けてすべてをその犯罪者個人の資質が原因とする考え方を採用するとき、世の中で起きるありとあらゆる事件を自分とは関わりのない事柄だと何も考えず処理することができる。
その願望に抗い、事件の中にある「社会のせい」を見出すということは自分自身もその事件の中に巻き込まれることを意味する。「社会」の中にはもちろん自分も含まれるのだ。「社会のせいにする」という考え方は、その犯罪に「社会」を形作っている一員でもある「自分」も主体となって関わることを迫る。
どちらのルートを選ぶのがしんどいことなのか、誰でもわかるだろう。「自分とは関係ない」と切り捨ててしまえればもうそれで終わる話だ。何も考える必要などない。だが「社会のせい」にすれば、関係が生じてしまう。切り捨てることができなくなる。
「社会のせい」にしていると思われる人を「論破」しようとする人が絶えない理由もわかる。「社会のせい」、その言葉が突きつけるものは「お前のせい」という意味でもある。自分は関わりたくない関係がない、悪いのは犯罪を犯したあいつだけ。そう思いたい人は拒否反応も起こすだろう。だがどんなに拒否反応を起こしたところで意味はない。もうすでに、この社会に在るかぎり関係はある。

「社会のせいにするな」と声高に主張する人が勘違いしがちな点が1つある。「社会のせいにする」はイコール「だからこの犯罪者は悪くない」ではない、という点だ。当該の犯罪者が法にのっとって刑に服す必要がある点に異議を唱えている人などいない。それは当然の話として、その上で「社会」、引いては「自分」や「あなた」はどう考えて、その考えを元にどう生きるかを問いかけているのだ。「社会」を持ち出して犯罪を論じている時点で、その視点はすでに実際に犯罪を犯した者からは離れている。違う話をしている。そこを意図的に、もしくは意図せずに混同して「社会のせいにする」論者がまるで「犯罪者を擁護している」かのように決めつける人がいるがあまりにも短絡的だと言わざるをえない。


相模原障害者施設殺傷事件のことを考えてみる。
はじめに結論を言う。間違いなく「社会のせい」で起きた事件だ。言うまでもなく、だからといって植松は悪くないなどというつもりはない。それとこれとは別の話だ。
この事件について、何冊も本を読んだし報道も見た。現地にも実際に行った。しかし裁判を傍聴してないし、植松についても知らないことばかりだ。それでも断言できる。あれは社会のせいだ。
植松はあの凶行をこの「社会」なら許されると思っていた節がある。そういう空気を感じ、そして行動に移した。事実、犯行後には「植松の気持ちもわかる」と理解を示すような言葉がインターネット上ではいくつも見られた。
そんな空気を作ったのは誰なのか。
今もSNSを見れば、ありとあらゆる差別的な言辞、ヘイトスピーチが野放図に飛び交っている。対象は性的マイノリティーだったり海外にルーツを持つ人であったり、もちろん障害を抱える人に対するものもある。そういう言葉の数々をまるで娯楽のように楽しむ人がいる。行政に関わる人や知名度や影響力のある人でもそれらの言葉を自ら発したりしている。
もう一度問う。こんな空気を作ったのは誰なのか。
自分ではそのような営みに加担していない、という人もいるだろう。それはその通りだと思う。一握りの極一部の人間がやっている過ぎない(と思いたい)。だから私やあなたには関係のないことなのだろうか? 実際に相模原であの事件は起きたのだ。その事実は変えようもない。そしてあの時にあったのと同じ空気は今も変わらずにこの社会のそこかしこに今もなお存在している。

「社会のせいにするな」「犯罪者を擁護するのか」、これは今後もさんざん言われ続けるのだろう。
社会のせいだ、なんて雑な表現は極力避けるが今後も私は「社会のせいだ」と言い続ける。だって「社会のせい」なんだから。「社会のせい」で起きたことを「社会のせい」だと言わないでどう言えばいいのか、その答えを私はたとえ知らない人がどこか自分の行かないような場所で起こした事件であっても、当事者意識を持って考え続ける。決してそれはやめない。その結果として「犯罪者を擁護するのか」と言われたとしても、逆に「俺やお前は何も悪くないのか?」と突きつける。
犯罪という事象を通してでしか見えないことがある。そうして見えてくるものは大抵が見たくない、見ないふりをしてきたものだ。だからこそ見なくてはいけない。その暗がりに光を当てること、「社会のせいに」すること、私はそれを今後も止めるつもりはない。


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