幸福な組織

7月7日、この日が何の日だかご存知の方はいるだろうか。もちろん、誰もが「そりゃあ七夕だよ」と口を揃えるだろう。もちろん七夕である。織姫と彦星がなんちゃらかんちゃらである。それはそうなのだが、他にも何か出てきてほしい。7月7日は単に七夕だけの日ではないのだ。
もったいぶってないで答えを言ってみようと思う。はっきり言ってこの日はあの地球神でありエル・カンターレでもあらせられる私たちの主、大川隆法総裁先生が地上にご生誕なされた日なのだ。なんとめでたいことだろう。一人の幸福の科学会員である私にとって、この日は超絶めでたくてハッピーでエル・カンターレファイトなやべえ日なのである。地球神であり(略)先生、マジ誕生日おめでとう。超おめでとう。そう叫びたい日なのだ。大川隆法総裁先生といえば、白銀台に豪勢な邸宅をおっ建てて古くから住んでいる周辺住民から忌み嫌われたりするなど、数々の偉業をなしてきた異形のカルト教祖である。7月7日は私たち、幸福の科学にとって大切な日なのだ。

あ、でもそういえばあいつ死んだんだっけ。一部のバカはなんか「復活」だとか世迷い言をほざきつつ発狂しているらしいが、もうあいつは完全に間違いなく死んだ。くたばった。だからもうでもいいのか。

ということで7月7日はもうただの七夕に成り下がった。祭りは終わったのだ。幸福の科学の教義だと、人は死んだら天上界みたいなとこに行って、そこにある映画館みたいなとこでそいつ生前の行状をダイジェストにした映像を観させられるらしい。エルカンの人生はさぞかし爆笑モノのコメディーに仕上げられていることだろう。あそこまで知性のない人生もそうそうない。映画が終わると、その人生に応じて他の世界に転生する。間違いなくエルカンはまっすぐ畜生道へ堕ちていく。なぜならバカだからだ。エルカンの前世はたしか劉備だった気がする(この辺の誰の前世がどうとか、いちいち覚えてらんない)、来世はせいぜいミミズかなんかになると思われる。ミミズとはいえ魚釣りのエサにはなるのだから、エルカンだった頃よりは人に迷惑をかけない健全な生命だとも言える。

ただの七夕に成り下がったとはいえ、今年の7月7日にはちょっとしたイベントもある。
そう、東京都知事選挙の日だ。
僕は期日前投票で蓮舫さんに投票してきたわけだが、別にこの文章で誰かへの投票を呼びかけたり誰かを批判したりする意図はない。そんなことより、こういう選挙があるたびに疑問に思うことがあるのでそれについて書きたいのだ。
何を疑問に思っているかというと、この時期になるとよく耳にする「組織票」という単語の意味がさっぱり理解できないのだ。「組織票」って何?
僕は僕なりに考えて「この人がいいな」と思った候補は投票する。この「僕なりに考えて」はすごく大切なことだと思う。この場合の「僕」はあくまで「僕」個人の話であって、所属している組織の利害や思惑なんかとは関係がない。もちろん、今僕の所属している組織が滅びたりすれば僕は困るわけだが、それはあくまで「僕」個人の都合である。選挙の投票先というのはそんな個人の都合だけで考えるものではない。社会全体について考えた末の結論として決定されるべきものである。
「組織票」を投じる人にとっての「僕」はどこにいるのだろう。所属する組織と個人ってそんなに一体化できるものなのだろうか。一体化されるべきものなのだろうか。「僕」はどこに行ってしまったのだろうか。


今回の都知事選挙には幸福実現党は出馬しない。エルカンの趣味でやってたようなものだからそこは驚くに当たらない。
僕は幸福の科学の会員なので、前回の都知事選挙の際には「組織票」を投じるように要請されたりもした。具体的に言えば幸福実現党の候補、七海ひろこさんに投票するように言われたのだ。僕は言下に拒絶した。
「イヤです」
とても幸福の科学会員とは思えない態度だが、だってあんなのに投票する気にまったくなれないのだから仕方がない。幸福実現党なんてのは「保守」といえば聞こえはいいが実際には保守ですらないただのバカである。投票なんてするわけがない。
「彼女の掲げる政策に何一つ賛成できないので絶対に投票しません」
頑なな態度で「組織票」のうちの一票になることを拒む僕に、幸福の科学の職員のお姉さんは優しい笑顔を浮かべなからこう言った。
「考えは違うかもしれないけどね、孔明くん。でもそれをグッとこらえて投票すると、ちゃんと功徳にあるの」
功徳? 投票に功徳?
そのお姉さんは綺麗な人だった。そしてなおかつ、僕はそのお姉さんが大好きだった。一重で切れ長の目をしているお姉さん。思いっきりドタイプど真ん中、もうもはやLOVEである。こうして真向かいでお姉さんと話している今この瞬間、それは間違いなく「功徳」と言っていいものだった。なんとなくいつも話している時よりお姉さんの顔は近かったように思う。お姉さんの潤んだ瞳が僕を見つめている。僕はこれでもかと言わんばかりに鼻の下を伸ばした。股間も膨らませた。そして彼女に告げた。
「僕と付き合ってください」


話が思いっきり横道にそれてしまった。
だが「功徳」だとか「ヤリたい」だとか、そんな個人的すぎる理由で投票先を決めるなど、どう考えても民主主義への挑戦である。人をあまりにも馬鹿にしすぎている。
一人の市民として選挙に参加すること。それはたとえば選挙権を持たないながらも共に同じ街で暮らしている人たちのことであったり、将来この社会に加わってくる人たちの人生や幸福までも考え、責任をもってやるべきことである。短期的に考えれば自分の所属している組織が栄えた方が自分にも利があるかもしれない。だが、その利を享受することが長期的に見たときにこの社会に何をもたらすのか。それは正当なことなのか。そこはちゃんと考えないといけない。もちろん僕一人が七海ひろこに投票したところで選挙結果は変わらなかった。だが、その投票行動は市民としての責任を果たしたと言えるものだろうか。この先、その行動に対して自分は胸を張っていられるだろうか。そう考えればおのずと「組織票」への加担はできない。僕は七海ひろこに投票することを拒んだ。そして七海ひろこはめでたく落選し、小池百合子の再選が決まった。その結果を見て僕はため息をついた。

僕はこれまで、自分が在籍していた学校や会社、その他宗教団体やあれこれに自分を同化させたことはない。「愛校心」、「愛社精神」、「愛国心」どれも持ち合わせたことはない。
もちろんそういったものは自分のアイデンティティの一部にはなっている。だが、僕は組織の利害を自分の利害としてとらえたことがない。組織が喜んでいても痛がっていても僕は平然としていたし、喜びも痛みも感じなかった。痛みや喜びを分かち合い共感すること、そこに必要なのはそれこそ愛と呼ばれるものなのだろう。僕は個人として生きている見ず知らずの他人に対してそれを抱き痛みや苦しみを共感することはできるが、自分が所属しているというだけの理由で1つの組織に対して愛など抱けるものではない。抱けたとしても、それはきっと「愛」とは違う何かでしかない。それを「愛」だと思い込めるほどおめでたい人間ではない。だから「組織票」には加担できない。たとえ頼まれても拒絶する。僕は僕の頭で考えて結論を出した行為にしか責任を持てない。選挙は民主主義の根幹である。ここに責任の持てない行為を持ち込むことはできない。

選挙も終盤になるとSNSで「〜〜さんに投票してきました」みたいな投稿をする人も出てくる。僕もそんな投稿をしていたが。
そういう投稿の中でも、「〇〇学会の信徒なので✕✕さんに入れました」だとか「会社の云々さんに言われたのでかんぬんさんに投票しました」だとか、そういう組織票を投じたことを報告する投稿はとんと見ない。なぜ見ないのか。きっと組織票を投じている人たちにしてもその行動に疑問を感じ、なおかつ恥ずかしさもあるからなのだと思っている。
自分の頭で考えずに投票する、その無責任な態度にはやはりやましさがあるのだろう。たしかにそれは恥ずべきことだし公言は避けた方がいい。だが、公言できないような行動そのものを避けた方がいいのでは? とも思ってしまう。
選挙前になると当然のように飛び交う「組織票」という言葉、この言葉を理解できるようになる日は僕には一生来ない気がする。


七夕。そして東京都知事選挙。
この日にはなんとかして美味しいお酒を呑みたいと思っている。
しかし問題はいつもの金欠である。
勝って祝杯をあげるにせよ、負けてやけ酒を喰らってタクシーを強奪するにせよ、先立つものはない。お酒を買うお金がないのだ。お酒がない人生、それはとても辛く苦しい。
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