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第15回「姉川でどうする!」(復習)

1.姉川の戦い

(1)「姉川の戦い」とは?

 元亀元年6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現・滋賀県長浜市野村町~三田町)で、織田信長&徳川家康連合軍と浅井長政&朝倉景健(かげたけ。朝倉義景は、少将と共に一乗谷にいたという)連合軍の間で行われた合戦。

(2)「姉川の戦い」の実際


・6月19日 織田信長、岐阜城から出陣し、虎御前山に布陣。
・6月24日 徳川家康、合流。

 織田&徳川連合軍は、浅井氏の居城・小谷城の城下を焼き払うと、小谷城の出城・横山城を包囲し、本陣を龍ヶ鼻(たつがはな)に置いた。
 朝倉軍と合流した浅井軍は、横山城の救援(後詰め)に向かい、姉川の対岸(朝倉軍は三田村、浅井軍は野村)に布陣した。

・6月28日(早朝から4時間程度) 姉川の戦い

 徳川軍が「一番合戦」と称して朝倉軍と戦い始めると、浅井軍は横をスルーして織田軍を攻め、13段の備えの内、11段まで破ったという。
 榊原康政隊の側面攻撃で朝倉軍を破った徳川軍は、織田軍の救援に駆けつけ、浅井軍を破った。
 その後、織田&徳川連合軍は、横山城を攻略し、城番として、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を置いた。

 この戦いで多数の死者が出たが、4家(織田、徳川、浅井、朝倉)共に滅びず、4家の戦いは、この先3年間続いた。朝倉義景が天正元年(1573年)8月20日、浅井長政が天正元年(1573年)9月1日に自害して終わった。


【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日  徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日   「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定。
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月    織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日  足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月     徳川家康、上洛。
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月   徳川家康、居城を岡崎城から浜松城へ移す。
元亀元年(1570年)9月16日~12月17日 「志賀の陣」


(3)『信長公記』に見る「姉川の戦い」

 『信長公記』には史実が書かれているとして、学術論文に引用する学者もおられるが、「織田信長が負けた戦の記述が無い」というのは有名な話であり、「姉川の戦い」についても、合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか、詳しく触れられず、「推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、爰かしこにて、思ひ思ひの働きあり。終に追ひ崩し」(戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦で、黒煙が立ち、しのぎを削って鍔が割れ、あちこちでそれぞれが武功をあげ、終に織田&徳川連合軍が、浅井&朝倉連合軍を追い崩して終わった)と書かれているのみである。

 よこやまの城、高坂、三田村、野村肥後、楯篭り、相拘へ候。廿四日に四方より取り詰め、信長公はたつがはなに御陣取り、家康公も御出陣候て、同じく竜が鼻に御陣取る。
 然る処、朝倉孫三郎、後巻きとして、八千計にて罷り立て、大谷之東、をより山と申し候て、東西へ長き山有り。彼の山に陣取る也。同浅井備前、人数五千計、相加わり、都合一万三千之人数、六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存候之処、廿八日未明に三十町計かかり来て、姉川を前にあて、野村の郷、三田村両郷へ移り、二手に備へ候。西は三田村口、一番合戦、家康公むかはせられ、東は野村の郷、そなへの手へ信長御馬廻、又、東は美濃三人衆諸手一度に諸合(しょごう)す。
 六月廿八日、卯刻、巳寅へむかつて御一戦に及ばれ、御敵も、あね川へ懸かり合ひ、推しつ返しつ、散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔をわり、爰かしこにて、思ひ思ひの働きあり。終に追ひ崩し、手前に於ひて討ち取る頸之注文、真柄十郎左衛門、此の頸、青木所左衛門、是れを討ちとる。前波新八、前波新太郎、小林端周軒、魚住竜文寺、黒坂備中、弓削六郎左衛門、今村掃部助、遠藤喜右衛門、此の頸、竹中久作、是れを討ちとる。兼ねて此の首を取るべしと高言あり。浅井雅楽助、浅井斎、狩野次郎左衛門、狩野二郎兵衛、細江左馬介、早崎吉兵衛、此の外、宗徒は千百余討ち捕る。
 大谷まで五十町追ひ討ち、麓を御放火。然りと雖も、大谷は高山節所之地に候間、一旦に攻め上げ候事、成し難く思(おぼ)し食(め)され、横山へ御人数打ち返し、勿論、横山之城、降参致し、退出(たいだし)、木下藤吉郎、定番として横山に入れ置かる。
 夫れより佐和山之城、磯野丹波守楯篭り、相拘へ候べき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結ばせられ、東の百々(どど)屋敷、取出仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門置かれ、北之山に市橋九郎右衛門、南之山に水野下野、西の彦根山に河尻与兵衛。四方より取り詰めさせ、諸口之通路をとめ、七月六日、御馬廻計召し列れられ、御上洛。公方様へ当表之様子、仰せ上げられ、天下諸色仰せ付けられ、七月八日、岐阜に至りて御馬、納められ候べき。

『信長公記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920322/1/92

(4)雑記


 朝倉義景は、少将を側室に迎え、酒池肉林に溺れていた。「姉川の戦い」の時も、少将を寵愛して、一乗谷に引き篭っていた。
 この少将(諏訪殿)の正体は不明であるが、一説に、織田信長に美濃国を奪われた斎藤氏の縁者とされる。俗説に、織田信長に討たれた今川義元の縁者で、徳川家康に離縁された築山殿だというが、トンデモ説であろう。


 「姉川の戦い」といえば、5尺3寸(約175㎝)もの太刀「太郎太刀」を振るった豪傑・真柄直隆と本多忠勝の一騎打ち、及び、真柄を討った勾坂兄弟が有名である。

 さらに「姉川七本槍」。(中山是非之助については投稿済。)

※「姉川七本槍」(創作?)
 ・伊達与兵衛
 ・林平六
 ・渡辺金太夫
 ・伏木久内
 ・中山是非之助
 ・吉原又兵衛
 ・門奈左近衛門

(5)「姉川の戦い」の実際

「姉川の戦い」については古文書によって記述が異なる。
通説は「姉川を挟んで両軍が対峙しての正面衝突」であるが、太田浩司氏は「奇襲説」を提唱した。実際は、
  織田軍(横山城を包囲)─織田信長(馬廻り衆、美濃三人衆)─徳川家康
という隊形であったが、後方から浅井&朝倉連合軍が攻めてきたので、
  徳川家康─織田信長(馬廻り衆、美濃三人衆)─織田軍(横山城を包囲)
と徳川家康が先陣になってしまったという。

2.雑記

(1)見付

 遠江国の国衙は守護所となり、さらに要塞化して「見付城」(見付古城)となったが、戦乱で使えなくなり、南側に「見付端城」(現・大見寺)を築いたが、やはり戦乱で使えなくなったので、徳川家康は、台地上に「城之崎城」(見付新城)を築いた。『どうする家康』に登場する「見付城」は、この「城之崎城」のことである。

(2)浜松

 「浜松」という地名については、承平年間(931年~938年)に編纂された『倭名類聚抄』には「遠江国敷知郡浜津郷」とある。弘安6年(1283年)頃成立の『十六夜日記』には「今宵は、引馬(ひくま)の宿と云ふ所に留まる。こゝの大方の名をば、「浜松」とぞ云ひし」(今夜は、引馬宿という所に泊まる。この引馬宿一帯の地名を「浜松」という)とあり、鎌倉時代には海岸から八幡宮付近に移動したらしい(「浜松」地名北遷説)。

・「引間(ひくま)」:低い湿地帯
・東京都港区浜松町:遠江国浜松の出身者が名主を勤めた場所

(3)徳川家康と「徳川四天王」井伊直政との出会い

 美少女に変装して徳川家康を襲うとは、熊襲武を倒した倭武みたいだ。
 ただ、現在は元亀元年(1570年)であり、(父の13回忌法要で井伊谷に戻り、松下清景の養子となる14歳までは)鳳来寺にいたはずである。

【井伊直政略年表】

1561年  1才 祝田の井伊直親屋敷で誕生。幼名・虎松。
1562年  2才 父・井伊直親が殺される。
1568年  8才 命を狙われ、守源(殊源)と鳳来寺へ逃げる。
1570年 10才 姉川の戦い→徳川家康が浜松城へ移転。
1572年 12才 三方ヶ原の戦い→井伊谷焼き討ち
1574年 14才 母・奥山ひよが松下清景と再婚し、松下虎松と名乗る。
1575年 15才 徳川家康と出会い、井伊万千代と名乗る。


(4)感想 -「これは凄いぞ編」-

・徳川家康に金平糖を渡す織田信長=京土産が金平糖だと知っていた!
・徳川家康の耳をかむ織田信長=瀬名が西郡局に教えた急所を知っていた!
岡崎城や築山御前屋敷に織田方の忍者がいる?

(5)感想 -「これは変だぞ編」-

①お市の「兄は裏切り者を許さない」という言葉が変。
 松永久秀のように、裏切っても許された人はいます。
②徳川家の陣紋はいつになったら黒塗りから葉脈にある葵になる?


★今後の『どうする家康』

・第16回「信玄を怒らせるな」(4/30)
・第17回「三方ヶ原合戦」(5/7)
・第18回「真・三方ヶ原合戦」(5/14)
・第19回「お手付きしてどうする!」(5/21)
・第20回「岡崎クーデター」(5/28)
・第21回「長篠を救え!」(6/4)
・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回「築山へ集え!」(6/25)

※ノベライズ3巻は6月、4巻は9月発行予定です。


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