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朝倉義景 -その妻と子-


正室:室町幕府34代管領・細川晴元の娘
後室:ひ文字姫(近衛稙家の娘、近衛前久の妹。近衛殿)
側室①:小宰相(鞍谷副知の娘)
側室②:少将(斎藤兵部少輔の娘。諏訪殿)
側室③:築山殿(元徳川家康正室)=伝説

・長女:松(まつ。生母:正室・細川晴元の娘)
・次女:四葩(よひら。三位殿。本願寺教如室。生母:小宰相)
・三女:静(山浦景国室。生母:小宰相)
・長男:阿君丸(くまぎみまる。生母:小宰相)
・次男:愛王丸(生母:少将)
・三男:朝倉信景(慶専法師。生母不明。少将?)=伝説
・四男:可児吉長(「笹の才蔵」。生母不明。少将? 築山殿?)=伝説


【学説】
※妻は正室2人、側室2人。他は伝説。
※子は2男3女。他は伝説。


正室:室町幕府34代管領・細川晴元の娘
後室:ひ文字姫(近衛稙家の娘、近衛前久の妹。近衛殿)
側室①:小宰相(鞍谷副知の娘)
側室②:少将(斎藤兵部少輔の娘。諏訪殿)

・長男:阿君丸→早世する。
・次男:愛王丸→捕縛され殺害される。
・長女:四葩(生母:正室・細川晴元の娘)→本願寺教如と結婚。三位殿。
・次女:まつ(生母不明)→勝興寺(富山県高岡市)の住職・顕幸と結婚
・三女:宋栄(生母不明)→長泉寺(福井県鯖江市)摂照庵→清光寺

1.正室と娘

 天文17年(1548年)、室町幕府34代管領・細川晴元の娘と結婚した。
 しかし、この正室は女児を出産した直後に死去した。
 この女児は、本願寺顕如の嫡男・本願寺教如と婚約した四葩とされる。

2.後室・ひ文字姫

 正室が死去したので、近衛稙家の娘(近衛前久の妹)・ひ文字姫を正室(後室、継室)として迎えた。文書に署名する際、女性は花押が使えないので、代わりに「ひ」と書いたことから「ひ文字姫」と呼ばれた。
 この正室は「容色無双にして妖桃の春の園に綻る装い深め、垂柳の風を含める御形」(『朝倉始末記』)と評された美女であったが、子が出来なかったため、朝倉義景が側室・小宰相を迎え、次々と娘が生まれると、彼女を呪った(『朝倉始末記』に「北の御方、局を呪詛成さられける」)という噂が広まったので、永禄3年(1560年)頃、離縁され、実家に送り返された。
 離縁後の消息は不明。近衛前久の妹で、丹波国の国人・赤井直正の正室で、赤井直正の死後に大和国の国人・古市胤栄に嫁いだ女性がいて、この女性ではないかと推測されている。

3.側室・小宰相と阿君丸

 朝倉家重臣・鞍谷副知の娘。四葩(本願寺顕如の嫡男・本願寺教如と婚約)、静(上杉謙信の養女になり、上杉家家臣・山浦景国と結婚)を生んだ。さらに、永禄4年(1561年)には阿君丸を生んだ。
 しかし、小宰相は病死し、阿君丸も永禄11年(1568年)6月25日に早世した(毒殺?)。
 嫡男・阿君丸と寵愛した小宰相の死去、さらに家臣の離反など、相次ぐ不幸が朝倉義景の関心を政治から遠ざけたとされる。

4.側室・少将と愛王丸

 政治から遠ざかった朝倉義景は、斎藤兵部少輔(美濃国の斉藤氏が差し出した人質?)の娘・少将(軍記物では「小少将」「小将」「少将」とするが、一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉義景館の外濠から出土された木簡には「少将」「少しやう」とある。「諏訪殿」とも)を側室に迎え、酒池肉林の日々をおくったと言われている。
 元亀元年(1570年)、愛王丸を生んだ。すると、朝倉家の政務は、少将とその女房らの言うがままになり、朝倉義景はさらに政務を省みなくなったという。

此女性、紅顔、翠戴、人の目を迷すのみに非ず。巧言令色人心を悦ばしめしかば、義景、寵愛斜ならず。(中略)昼夜宴をなし、横笛、太鼓、歌舞を業とし永夜を短しとす。秦の始皇、唐の玄宗の驕りも是れに過しとぞ見えたりける。去は、鴉鶏晨鳴、則ち、家尽る相也と古賢の云も誠に傾城、傾国の乱、今に有りぬと覚えて浅増しかりし事ども也。

『朝倉始末記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/3431173/1/190

 「姉川の戦い」の際にも、朝倉義景は、少将を寵愛して、一乗谷に引き籠っていたとされる。
 天正元年(1573年)8月20日、朝倉義景、自害。その後、少将、愛王丸、高徳院(朝倉義景の母)は捕縛され、8月26日、織田信長の命を受けた丹羽長秀の手により殺害されたというが、『越州軍記』には愛王丸、高徳院が殺害されたとあり、少将の名がないため、逃げ延びたとも。「蟹薬師」「可児大寺」願興寺(岐阜県可児郡御嵩町御嵩)には、朝倉義景の身重の側室(少将?築山殿?)が願興寺の別当を頼って落ち延び、その後、遺児・可児吉長を出産したという言い伝え(『大寺記』)がある。

 また、生母不明の朝倉信景も逃げ延びて出家し、伯父・本願寺教如の弟子となって慶専法師と名乗り、寛永5年(1628年)、江戸城桜田門外に真宗大谷派朝倉山一乗院遍立寺(谷中車坂、三十三間堂前浅草松葉町への移転を経て、昭和27年(1952年)、東京都西東京市北原町へ移転)を建てて、住職となっている。

5.築山殿

  永禄年間末、徳川家康に離縁された築山殿が朝倉義景と再婚し、一子儲けたと伝えられているが、学者は「俗説」「トンデモ説」だと否定している。



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