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朝倉義景と女性

朝倉義景が子宝に恵まれなかったことが、朝倉家滅亡の一因となったという。朝倉義景は、子宝には恵まれなかったが、「女好き」で知られ、徳川家を追い出された徳川家康の正室・築山殿を側室にしたという伝承もある。「今川義元(築山殿の実父?)を討った織田信長を討ってやる」と言って口説いたが、築山殿が何度「織田信長を討って」と頼んでも、出陣する気配がないので、築山殿は一乗谷を出て、大阪で放浪中、岡崎城主・徳川信康(長男)に発見されて岡崎へ戻されると、今度は武田勝頼と組んで織田信長を討とうとするも、徳川信康の正室・徳姫(織田信長の娘)の密告で発覚し、自害させられたという。

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①正室・細川晴元の娘


 天文17年(1548年)3月、父・朝倉孝景(朝倉義景は、実は養子で、実父は佐々木六角氏綱とも)が死去したので、朝倉義景は、朝倉宗滴(教景)の後見のもと、16歳で家督を継ぎ、朝倉第11代宗主延景(「六角佐々木氏系図略」では「近景」。天文21年(1552年)6月16日、足利第13代将軍義藤(後の義輝)から「義」の字を与えられて「義景」と改名)と名乗り、細川晴元の娘と結婚した。
 正室に管領・細川晴元の娘を迎えたことにより、朝倉義景は、足利幕府と親密な関係を構築した。庭籠(鷹を入れておく籠)の巣鷹(雛の時から飼った鷹)を足利義輝に献上して交流を深めたという。

朝倉孝景┬氏景─貞景─孝景┬義景
    └教景(宗滴)  └景弘

 娘・松を儲けたが、正室(細川晴元の娘)は、産後の肥立ちが悪く、死去した。

★朝倉義景=佐々木六角氏説

 通説では、佐々木六角氏の宗主を、観音寺山城の城主・六角義賢入道承禎とする。「朝倉義景=佐々木六角氏説」では、佐々木六角氏の宗主を、観音寺山城の城主・佐々木義秀とし、彼の後見人を箕作城主・箕作義賢入道承禎とする。
 佐々木義秀については、
・斉藤秀竜(道三)、明智光秀、豊臣秀吉に「秀」の1字を与えたという。
・今川義元の上洛を阻止するために桶狭間に援軍2300人を送ったという。
などといわれるが、学者によれば、朝倉義景は浅井久政の兄だとする「六角佐々木氏系図略」は偽系図、佐々木氏郷が書いた『江源武鑑』は沢田源内が書いた偽書で、佐々木義秀は架空の人物だという。(唯一、「桶狭間に援軍2300人を送った」という点については、「桶狭間の戦い」の戦死者名簿が発見され、そこに六角家家臣たちの名があったので、実証された。つまり、「桶狭間の戦い」とは、織田軍3000+六角軍2300=5300人と、今川本隊(ピンポイント攻撃された今川本陣)5000人の戦いだったのである。)

「六角佐々木氏系図略」(京極家蔵)

六角氏綱┬六角義実─┬佐々木義秀─義康─氏郷(『江源武鑑』の作者)
    ├朝倉義景   └武田義頼(武田義統養子)
    └浅井久政──浅井長政
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/341/0000?m=limit&n=20

・朝倉義景=佐々木六角氏説の根拠

・朝倉義景の幼少期に関する記録がない。守役や乳母などの記録が無い。
・朝倉義景の父・孝景と佐々木六角氏との間に内容不明の密約があった。
・朝倉義景の側近に佐々木六角系苗字が多い。
・朝倉義景は、佐々木六角氏の内紛に介入した。
※参考:佐々木哲学校 http://blog.sasakitoru.com/
(佐々木哲氏は、佐々木六角氏のご子孫)

②継室・近衛稙家の娘(ひ文字姫)


近衛前久(1536-1612)の姉(1532?-1575)。美人であったという。

★『朝倉始末記』(巻第5)「義景北方之事」
容色無双にして、夭桃の春の園に綻る粧ひ深め、垂柳の風を含める御形。
(まさに「春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ」(大伴家持)ですね!)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173/189

文書に署名する際、女性は花押が使えないので、代わりに「ひ」と書いたことから「ひ文字姫」と呼ばれた。

子ができなかったので、朝倉義景は、母・高徳院に仕える侍女・小宰相を側室に迎えた。嫉妬に狂う近衛殿(ひ文字姫)を、朝倉義景は、永禄3年頃に離縁し、実家・近衛家に送り返した。(公家の姫と離縁することは、栄華を手放すことであり、この時点から朝倉家の衰亡が始まったともいう。)

朝倉義景「近衛の姫君は顔を出さなんだか?」
伊呂波太夫「近衛の姫君・・・あぁ~、『この芸人ふぜいが、近衛家で育ったなどと、ゆめゆめ申すでない』と私に申されたお方様でごさりましょうか?」
朝倉義景「その物言い、よう似ておる」
伊呂波太夫「朝倉に嫁いで数年になりますのに、まだ子をなされぬと聞きまするが・・・義景様もいつ近衛家にお返ししたものかと頭を悩ませておられるのでは?」
朝倉義景「そなた、近衛家から探りを入れるよう言われて参ったか?」
伊呂波太夫「まさか。この家出娘に探らせるほど、近衛家は落ちぶれてはおられますまい」

近衛殿(ひ文字姫)は悲しかった。公家だけに、プライドも高かったろう。しかし、無情にも、朝倉義景は、「近衛殿が小宰相を呪っている」との噂が立つと、離縁して実家へ帰してしまった。
どうも朝倉義景は潔癖症のようで、ドラマ『麒麟がくる』では、汗臭い汚い服を着ていた明智光秀が座っていた場所を、家臣に「えぐるように拭け」と念入りに拭かせていた。同様に、近衛殿を離縁した朝倉義景は、近衛殿の屋敷を取り壊し、地下3尺(約1m)も掘って敷土を入れ替え、小宰相のために新殿「諏訪館」(『朝倉始末記』では「御上の間」)を築いたという。

★『朝倉始末記』(巻第5)「義景北方之事」
近衛殿の姫君は、義景の省も三秋の森の梢の葉の如く、日々に薄く成りしかば、一生空(むな)しく、鴛鴦(おしどり)の語らひ無くして、宮中の窓に向かひ、春の日の暮れ難きを嘆き、秋の夜の長き恨に沈み給ひ、金屋に人無く、皎々たる残の灯の壁に背たる影、薫篭に香消て、蕭蕭たる暗雨の窓を打声物毎に、皆、涙を添る媒とぞ成りける。然に召仕の下女共、互に妬み相て、「北の御方、局を呪詛成さられける」と専ら風聞しければ、義景、是を聞召れて、情け無く、北の方を京都へ送り返させ給ひ、其の御座有ける所の地までも堀捨て、新敷土を運入させ、新殿を立てられ、御局を移し居へて、御上の間とぞ申しける。斯くて御寵愛、斜めならず。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173/189

③側室・鞍谷副知の娘(小宰相)


 朝倉義景と小宰相が結婚すると、義父・鞍谷副知の権力が強まった。
 外様である明智光秀は、能力が高いので出世したが、譜代の家臣に嫌われ、よく讒言をされた。しかし、朝倉義景は、明智光秀の能力を認め、讒言を聞き入れなかった。ところが、鞍谷副知が、「明智光秀は、能力が高く、ああいう人物は主君を見下すと朝倉宗滴が言っていた」として、朝倉義景に明智光秀を追い出させた。(この結果、明智光秀は織田信長に仕えることになった。)

 小宰相は、間もなく2人の娘を生んだ。姉を四葩(よひら。後に本願寺教如と政略結婚)、妹を静という。

朝倉義景┬女子:松(母:細川晴元の娘)
    ├女子:四葩(母:鞍谷副知の娘・小宰相。本願寺教如室)
    ├女子:静(母:鞍谷副知の娘・小宰相)
    ├男子:阿君丸(母:鞍谷副知の娘・小宰相)
    ├男子:愛王丸(母:斎藤兵部少輔の娘・少将)
    └男子:信景(出家:本願寺教如の弟子→朝倉山遍立寺の住職)

そして、永禄4年(1561年)、待望の男子・阿君丸(くまぎみまる)を生んだ。ところが、産後の肥立ちが悪く(近衛殿の呪いによる精神病でとも、風邪をこじらせてとも)死去した。(阿君丸も、永禄11年(1568年)6月25日に早世した。享年7。)

 寵愛した小宰相と嫡男・阿君丸の死去、さらに(「朝倉義景は暗君。しかも、養子だ」と嫌う)家臣の離反などにより、朝倉義景の関心は、どんどんと政治から離れていったという。

④側室・斎藤兵部少輔の娘(少将)


 傾国・少将(軍記物や「諏訪館跡庭園」案内板などには「小少将」として登場して広まっているが、正しい名は「少将」であることが、既に判明している)を側室に迎えた後、朝倉義景は、政治から離れ、酒と女の酒池肉林の日々を送った。たとえば、「姉川の戦い」(大将は朝倉景鏡)に朝倉義景が参陣しなかったのは、「一乗谷で少将とラブラブしていたかったから」だとされている。

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 斉藤兵部少輔の実名および出自は不明。(少将が住んだ諏訪谷の諏訪館の「諏訪館跡庭園」に残る「諏訪の立石」が美濃国から運ばれて来たという伝承があることから、「斉藤兵部少輔は、美濃国の斉藤氏の人質である」とする説がある。)

★『朝倉始末記』(巻第5)「義景北方之事」
「此女性、紅顔、翠鳶(すいたい)、人の眼を迷すのみならず。好言令色、心を悦しめしかば、義景、御寵愛甚して、別れし人の面影は夢にも見ずに成りにけり。角て年月を経しかば、若君を誕生あり。是を愛王丸殿とぞ申しける。(中略)昼夜、宴をなし、横笛、太鼓、歌舞を業とし、永夜を短とす。秦の始皇、唐の玄宗の驕も是には過しとぞ見えたりける。去は、鴉鶏晨鳴、則ち、家尽る相也と古賢の云も誠に傾城(けいせい)、傾国の乱、今に有りぬと覚えて浅増しかりし事ども也」
(少将は、紅顔(肌が白く、血色のよい顔)と青い眉で、人の目を迷わすだけでなく、その巧言令色(相手を喜ばす巧みな言葉使い)が心を喜ばせたので、朝倉義景の寵愛は、大変なもので、死別した小宰相のことなど忘れてしまった。そして男子が生まれた。愛王丸という。(中略)昼も夜も宴会を催し、横笛や太鼓に合わせて歌って舞い、長い夜もあっという間に明けた。秦の始皇帝や、唐の玄宗の驕りもこれほどではなかったであろう。「牝鶏晨鳴」(ひんけいしんめい。雌鶏が日の出に鳴くこと。本来、鳴くのは雄鶏であることから、女性が権力を握って治めると、秩序が乱れ、国や家などが滅びると『書経』にある)と古代中国の賢人も言っている。実際、朝倉家の衰退はこの頃から始まったのである。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173/190

 ──御寵愛甚して、別れし人の面影は夢にも見ずに成りにけり。

別れた人のことを忘れるには、新たな好きな人が現れればOKらしい。

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