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聖徳太子信仰(1/2)深読み『吾妻鏡』
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■『吾妻鏡』「承元4年(1210年)11月22日」条
承元四年十一月大廿二日丙午。於御持佛堂、被供養聖徳太子御影(南無佛)。眞知房法橋隆宣爲導師。此事日來御願云々。
(11月22日。持仏堂で、聖徳太子(2歳)の御影「南無仏像」が供養された。真智坊法橋隆宣が導師(指導僧)であった。この事(聖徳太子の供養)は、(源実朝が)日頃から願っていた事だという。)
■深読み①:11月22日は「大工さんの日」
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11月22日は、一般社団法人・日本建築大工技能士会が平成11年(1999年)に制定した「大工さんの日」である。制定の理由は、源実朝が聖徳太子の御影を供養した日だからではなく、
①11月は国の「技能尊重月間」であること
②「十一」を組み合わせると「士」となり「建築士」にふさわしいこと
③22日は「大工の神」とされる聖徳太子の月命日であること
④「11二二」を組み合わせると、「11」は2本の柱を表わし、「ニ」は土台と梁あるいは桁を表して軸組合の構造体となること
による。
聖徳太子は、「差し金(曲尺)」を中国から取り寄せ、大工を集めて建築の基礎「規矩術」を教えたことから、宮大工、船大工を含む「大工の神」として崇められている。(聖徳太子信仰を最初に広めたのは、大工を統率していた真言律宗だという。)
■深読み②:「聖徳太子二歳像」(通称「南無仏像」)
聖徳太子(2歳)が、緋色の裳を身に着けて合掌する姿の像。
聖徳太子(2歳)が、東方に向かって「南無仏」と唱えると、合わせていた掌から舎利が現れたとして「舎利信仰」と結びついている。
■深読み③:真智坊法橋隆宣
真智坊法橋隆宣は、常州(常陸国豊田郡大方郷&関郡)大方五郎藤原政家の子である。日光山別当(「座主」とも)で鎌倉鶴岡八幡宮供僧を兼ねており、普段は日光ではなく、鎌倉に住んでいた。
藤原秀郷…太田行尊┬行政┬小山(おやま)政光┬小山朝政
├行光└下河辺行義 ├長沼宗政
└大方政家※ └結城朝光
※大方政家┬関俊平
├関政平(「志田義広の乱」で没落)
├関政綱(「承久の乱」で討死)─政泰(「宝治合戦」で自害)
├真智房隆宣(第17代日光山別当)
└但馬法印弁覚(第22代日光山別当)
※第17代日光山別当(座主)・隆宣(在職期間不詳):大方政家の子で弁覚の兄。聖宣の弟子。鶴岡八幡宮供僧。一族を率いて進軍し先代・禅雲を攻め落とすも反撃され、追放された。承元元年(1207年)頃に再任したが、「殺生の事」で解任された。その後、鎌倉の永福寺で隠居。没年月日不明。
※第22代日光山別当(座主)・弁覚(在職1209-1251):大方政家の六男で隆宣の弟。鶴岡八幡宮供僧。鎌倉勝長寿院別当を兼務。日光山中興。仁治元年(1240年)に日光山光明院を創建。日光に熊野修験を伝えた。建長3年(1251年)8月4日死去。
※『日光山座主歴代略記』
「十七祖隆宣 法橋」
「廿二祖弁覚 大方五郎政家の六男。承元四年、座主宣下。四条天皇延応二年七月、新に本坊を建立す。勅して光明院の称号を賜。是より先き文珍に至る迄は四本龍寺を本坊とす」
「廿三祖性弁 大僧正 大方五郎政家の族」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11608745
※「聖徳太子信仰(2/2)南岳取経説話」
https://note.com/sz2020/n/n79fc85cc14e1
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