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鎌倉殿の守護者 -梶原景時と畠山重忠-

1.鎌倉殿を支える守り人


(1)源頼家と梶原景時


 慈円『愚管抄』では、「鎌倉の本体の武士」である梶原景時(源頼家の乳母夫)を、源頼家が「不覚」にも守れなかったので、源頼家は修善寺に幽閉され、暗殺されることになったとする。

慈円『愚管抄』(巻第六)
これより先に、正治元年の頃、「一の郎党」と思ひたりし梶原景時が、やがて乳母夫(めのと)にて有りけるを、いたく「我ばかり」と思ひて、次々の郎党を侮りければにや、それに訴へられて、景時を討たんとしければ、景時、国を出て京の方へ上りける道にて討たれけり。子供一人だになく、「鎌倉の本体の武士・梶原」、皆、失せにけり。これをば「頼家が不覚」に人思ひたりけるに、果たして、今日、かかる事、出できにけり。

(源頼家の暗殺より前の正治元年(1199年)の頃、自らを「郎党筆頭」と思っていた梶原景時は、源頼家の乳母夫になると、さらに「自分だけは特別だ(何をやっても許される、恨まれる事も無い)」と思い上がり、他の御家人を侮る態度をとった。そのため、彼らに訴えられ、さらには討たれそうになったため、相模国を出て、京へ上ろうとしたが、途次で討たれ、子供を含め、「鎌倉の大黒柱の武士」である梶原一族は、皆、亡くなった。「切れ者の側近・梶原景時を守りきれずに死なせたことは、源頼家の失策である」と人々は思っていたが、その思いは、今日、源頼家の暗殺が起きて、確信に変わった。(梶原景時が生きれいれば、源頼家の暗殺は起きなかったであろう。)

 結城朝光(妻は北条義時後室・伊賀の方の妹)が「今(源頼家の時代)と違って源頼朝の時代はよかった」と言うと、北条時政の娘・阿波局は「あの一言を梶原景時に讒言され、あなたは殺されてしまうかも」と告げた。驚いた結城朝光は、親友・三浦義村に相談。梶原景時を訴える66人の御家人による弾劾状が出され、梶原景時は失脚し、一宮館に篭った。これは、北条氏が源実朝(乳母は阿波局)を将軍にするために、もしくは、比企氏が一幡(乳母は比企氏)を将軍にするために、源頼家の乳母夫・梶原景時を排除する作戦だったと考えられる。
 その後、梶原一族は、一宮館を抜け出して京都を目指すが、幕府追討軍が到着する前に、駿河国の地侍・入江一族に討たれた。

※「梶原景時(1/5)「梶原景時の変」 」
https://note.com/sz2020/n/nc49dc2b587d7

(2)源実朝と畠山重忠


 『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月21日」条には、牧の方は、平賀朝雅に「去年、畠山重保に悪口を言われた」と言われて、「欝陶(心が塞いで晴れないこと)された」とある。この「欝陶された」を「悩まれた」と訳される方がおられるが、「もやもや、いらいらされた」「心中穏やかではなくなられた」「いてもたってもいられなくなられた」という訳の方がいいと思う。(現代語の「欝陶(うっとう)しい」は、「①気がふさいで、晴れ晴れしない。②煩わしい。うるさい」の意味。)

■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月21日」条
牧御方、請朝雅(去年爲畠山六郎被惡口)之讒訴、被欝陶之間、「可誅重忠父子」之由、内々有計議。

(牧の方は、娘婿・平賀朝雅の「去年、畠山重保に悪口を言われた」という讒訴を受けて、欝陶なされ、夫・北条時政に「畠山重忠&重保父子を誅殺しよう」と密かに相談した。)

 悪口を言われたくらいでは「殺そう」とは思わないと思う。『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月23日」条には、牧の方は、平賀朝雅に、「畠山重忠一族が反逆を企んでいる」と何度も言われたとある。

■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月23日」条
右衛門權佐朝雅、於畠山次郎有遺恨之間、「彼一族巧反逆」之由。頻依讒申于牧御方(遠州室)。遠州潜被示合此事於稻毛之間、稻毛變親族之好、當時鎌倉中有兵起之由。就消息テ。重忠於途中逢不意之横死。人以莫不悲歎云々。

(平賀朝雅が、畠山重忠に恨みがあり、「畠山重忠一族が反逆を企んでいる」と、しきりに牧の方(北条時政の妻)に讒言したので、北条時政は、内緒で娘婿・稲毛重成と示し合わせ、稲毛重成は親戚の好(よしみ)を捨て、「鎌倉で兵起あり」と手紙を出したので、畠山重忠は(鎌倉への)途中で、思いもよらず、死ぬ事になってしまった。(畠山重忠の死を)悲しまない人はいなかったという。)

 北条政範は、平賀朝雅が開いた宴会の翌日に死んでいるが、死亡時刻は、『仲資王記』には「卯尅」(早朝)、『吾妻鏡』には「子尅」(深夜)とある。平賀朝雅が開いた宴会の「翌日」というより、「その日の夜」と言って良い。当然、牧の方は、平賀朝雅に北条政範の死因を問いただしたはずで、一説によれば、平賀朝雅が「畠山重保が無理をさせたから」と答えたので、牧の方は、畠山重保を殺そうと思ったという。そして、畠山重保殺害を相談された北条時政は、「畠山重保が殺されれば、当然、父・畠山重忠が出陣する。それを鎌倉幕府を倒すための出陣(反逆)として、畠山重忠を討てる」と考えて、牧の方に乗ったという。

 公家の出の牧の方は、以前から千幡(後の源実朝)を殺し、娘婿・平賀朝雅(源義光の曾孫。源頼朝の猶子で、「朝」は源頼朝からの偏諱)を鎌倉殿にしようとしていたという。

 阿波局が北条政子に牧の方の不審な動静を訴えたので、北条時政の屋敷にいる次の鎌倉殿に決まった千幡(源実朝)を、成人するまで北条政子のもとで育てることにしたという話が『吾妻鏡』に載っている。

■『吾妻鏡』「建仁3年(1205年)9月10日」条
建仁三年九月大十日乙亥。吹擧千幡君、被奉立將軍之間、有沙汰。若君、今日、自尼御臺所、渡御遠州御亭。被用御輿。女房・阿波局參同輿。江馬太郎殿、三浦兵衛尉義村等、候御輿寄。

(建仁3年(1205年)9月10日。千幡を推挙して、将軍にしようと決まった。若君(千幡)は、今日、北条政子のもとから、北条時政の屋敷へ移った。移動には輿を使った。乳母・阿波局も同じ輿に乗った。江間(北条)泰時と三浦義村が輿の警護をした。)
■『吾妻鏡』「建仁3年(1205年)9月15日」条
建仁三年九月大十五日庚辰。阿波局參尼御臺所、申云。「若君御坐遠州御亭、雖可然。倩見牧御方之躰、於事咲之中挿害心之間、難恃傅母、定勝事出來歟」云々。「此事兼思慮之内事也。早可奉迎取」之由、御返答。即、遣江馬四郎殿、三浦兵衛尉義村、結城七郎朝光等、被奉迎取之。
 遠州不知子細、周章給。以女房駿河局、被謝申之處、「成人之程、於同所可扶持」之由、被仰御返事云々。

(建仁3年(1205年)9月15日。阿波局が北条政子のもとへ来て言った。「若君(千幡)が北条時政の屋敷に置くのは、もっともな事である。ですが、牧の方の様子を見ていると、何かにつけて危害を加えようとする心が感じるので、傅母(ふぼ。貴人の子を守り育てる女性。乳母)として、勝事(不祥事、大事件)が起きるのではないか(と心配している)」と。北条政子は、「この事は兼ねてから思慮の内にあった(考えていた)。早々に迎え取りましょう」と答えた。それで、江間(北条)義時、三浦義村、結城朝光を派遣して若君(千幡)を迎え取ってきた。
 北条時政は、詳しい事情を知らず、戸惑っていた。それで、女官・駿河局を通して、北条政子に聞いてみると、北条政子は「成人するまでの間は、こちらで育てます」と、返事したという。

 源実朝は北条時政の屋敷に戻ったが、「牧の方が源実朝を殺そうとしている」という噂が流れ、源実朝は北条義時の屋敷に移った。

■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)閏7月19日」条
元久二年閏七月小十九日甲辰。晴。「牧御方廻奸謀、以朝雅爲關東將軍、可奉謀當將軍家(于時御坐遠州亭)」之由有其聞。仍尼御臺所、遣長沼五郎宗政、結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、同・九郎胤義、天野六郎政景等、被奉迎羽林。即、入御相州亭之間、遠州所被召聚之勇士、悉以參入彼所、奉守護將軍家。
 同日丑尅。遠州、俄以令落餝給(年六十八)。同時出家之輩、不可勝計。

(元久2年(1205年)閏7月19日。晴れ。「牧の方が、陰謀を企み、娘婿・平賀雅朝を関東の将軍にして、将軍・源実朝(北条時政の家にいる)を殺そうとしている」との噂が流れた。それで、北条政子は、長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義、天野景達を遣わして、羽林(源実朝)を迎えに行かせた。北条義時の屋敷に移すと、北条時政が呼び集めた勇士が全て北条義時の屋敷に来て将軍を守護した。
 今日の丑の刻(午前2時頃)、北条時政は、突然、出家した(年は68才)。同時に出家した人は、(牧の方など)数えきれない。)

 話がそれたが、牧の方は、源実朝を殺すために、まずは、平賀朝雅の讒訴を利用して、源実朝の守り人である畠山重忠を殺そうとしたと『保暦間記』にある。

■『保暦間記』
畠山は二位殿(尼御台所頼朝後室)、義時以下の前腹の聟なるにより、常に不和なりければ、人の讒言も有けるにや、又、牧の女房思立事も有けるにや、重忠は弓箭を取て無双なりし上、殊に当将軍守護の人也ければ、此人を先亡さんと思て重忠がいとこ稲毛三郎入道重成法師を語て讒しけるに、終に事積て武蔵国二俣河にして、元久二年六月廿二日に重忠を討たりける。哀なる事也。

(畠山重忠は、北条政子、北条義時などを生んだ北条時政の前室の娘婿であるので、北条時政の後室・牧の方とは常に不和であったので、人(平賀朝雅)の讒言によるのか、牧の方の思いつきもあったのか、畠山重忠は武術の達人な上に、将軍・源実朝の守護者であったので、(平賀朝雅を将軍にするためには邪魔な)この畠山重忠を先ず殺そうと思い、畠山重忠の従兄弟・稲毛重成を手なづけ、遂に武蔵国二俣川にて、元久2年6月22日に畠山重忠を討った。哀れなる事である。)

※「畠山重忠の乱(1/2)乱の背景 」
https://note.com/sz2020/n/nf7265a0be23a

2.梶原景時と畠山重忠の違い


 畠山重忠は、「鎌倉内に兵起あり」(鎌倉に異変あり。至急参上されたし)という稲毛重成(北条時政の娘婿)からの手紙を受け取り、6月19日に菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)を出発した。畠山一族は全国各地に散在していて、急な要請に集まった畠山重忠軍は134騎に過ぎなかった。
 6月22日午の刻(正午頃)、畠山重忠は、二俣川(神奈川県横浜市旭区)付近で、「今朝、長男・畠山重保が殺され、幕府軍(討伐軍)が1万騎以上、牧ヶ原(現・万騎が原)にいる」と聞き、騙されたことを知るが、退くことなく、鶴ヶ峰(神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰)に布陣した。
 家臣の本田近常と榛沢成清が「多勢(1万騎以上)に無勢(134騎)。勝つ見込みは無い。ここは一旦、菅谷館に退いて、軍勢を集めてから戦いましょう」と進言したが、畠山重忠は「梶原景時は、立派な武士であったが、深夜に屋敷を抜け出して京都に向かう途中で殺された。そのため、「命を惜しんで逃げたのではないか」「公家と提携しての倒幕計画があったのではないか」などと憶測されて「梶原」の名を汚した。これを「後車之誡」(反面教師)にすべきである。今、勢力差を考えたら、菅谷館に退く途中で討たれる可能性が高い。そうなったら、「命を惜しんで逃げたのではないか」「謀反の計画がばれたから逃げたのではないか」などと憶測されて、「畠山」の名を汚しかねない」と退けた。

※後車之誡(こうしゃのいましめ):「先に通った車がひっくり返ったのを見て、同じようにひっくり返らないように注意せよ」の意から、先人の失敗に学び、戒めにすること。出典は『漢書』「賈誼伝」。「前車の覆るは後車の戒め」「覆車之戒」ともいう。

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 そして、畠山重忠は、弓の達人・愛甲季隆が放った矢を身に受け、愛甲季隆に首を取られた。

■『吾妻鏡』「元久2年(1205年)6月22日」条(後)
 午尅、各於武藏國二俣河、相逢于重忠。々々去十九日出小衾郡菅屋舘、今着此澤也。折節、舎弟・長野三郎重淸在信濃國、同弟・六郎重宗在奥州、然間、相從之輩、二男・小次郎重秀、郎從・本田次郎近常、榛澤六郎成淸已下百三十四騎。陣于鶴峯之麓。而「重保今朝蒙誅之上、軍兵又襲來」之由、於此所聞之、近常、成淸等云。「如聞者、討手不知幾千万騎。吾衆更難敵件威勢。早退歸于本所、相待討手、可遂合戰」云々。重忠云。「其儀不可然。忘家、忘親者、將軍本意也。随而重保被誅之後、不能顧本所。去正治之比、景時辞一宮舘、於途中伏誅。似惜暫時之命、且又兼、似有陰謀企。可耻賢察歟。尤可存『後車之誡』」云々。
 爰襲來軍兵等、各懸意於先陣、欲貽譽於後代。其中、安達藤九郎右衛門尉景盛、引卒野田与一、加世次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次等畢。主從七騎進先登。取弓挾鏑。重忠見之、「此金吾者、弓馬放遊舊友也。抜万人赴一陣、何不感之哉。重秀對于彼。可輕命」之由、加下知。仍挑戰及數反。加治次郎宗季已下多以爲重忠被誅。凡弓箭之戰、刀劔之諍、雖移尅、無其勝負之處、及申斜、愛甲三郎季隆之所發箭、中重忠(年四十二)之身。季隆即取彼首、献相州之陣。而之後、小次郎重秀(年廿三。母右衛門尉遠元女)并、郎從等自殺之間、縡屬無爲。
 今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)。

(午の刻(正午頃)、武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)で幕府軍(討伐軍)は畠山重忠と出遭った。畠山重忠は6月19日に武蔵国男衾郡(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)の菅谷館を出て、今の沢に着いた。ちょうど、弟の長野重清は信濃国にいて、もう一人の弟の渋江重宗は陸奥国にいた。それで従っているのは、次男・畠山重秀と郎従の本田近常、榛沢成清以下の134騎で、鶴ヶ峰(神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰)の麓に陣を敷いた。ところが、「長男・畠山重保が、今朝、誅殺された上に、軍兵が襲来してきている」と、この場所で聞いた。きました。本田近常と榛沢成清が言った。「聞くところによれば、討手は幾千万騎とも知れない。我々は、威勢に対抗し難い。早く本拠地・菅谷館に引き上げ、討手を待って合戦しましょう」と。重忠が言うには、「それは適切ではない。家を忘れ、親しい者を忘れるのが将軍の本意である。したがって、長男・畠山重保が誅殺された後に、本拠地を顧みることは出来ない。去る正治の頃( 正治2年(1200年)1月)、梶原景時が一宮館(神奈川県高座郡寒川町一之宮)を出て、都へ上がる途中で誅殺されたは、暫しの命を惜しんだかのようであった。かつまた、兼ねてから陰謀を企んでいたかのようであった。そのように推察されるのは恥ずべきだ。まことに「後車之誡」にするべきである」と。
 この時、襲来した軍兵たちは、それぞれが一番槍を目指し、その名誉を後代に残そうと願っていた。その中でも安達景盛は、野田与一、加世次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次を引き連れ、主従7騎で先陣をきって突進し、弓を取り、鏑矢を取って手に挟んだ。畠山重忠はそれを見て、「この安達景盛は、私の「弓馬の友」である。誰よりも早く、一番に来た。感動せずにはいられない。畠山重秀よ、安達景盛と命賭で戦ってこい」と命じた。それで2人の戦いは何度も行われ、加治宗季以下、多くが畠山重忠に討たれた。弓での戦いも、刀での争いも、時が経っても勝負がつかなかったが、申の斜め(午後の4時半頃)になって、愛甲季隆の射った矢が畠山重忠(年は42歳)の体に当った。愛甲季隆は、畠山重忠の首をとり、北条義時の本陣に届けた。その後、畠山重秀(年は23歳。母は足立遠元の娘〕と郎党らが自殺したので、戦いは終わった。
 今日、未の刻(午前10時頃)、北条義時室(伊賀守朝光の娘)が男の子(後の北条政村)を産んだ。)

※「畠山重忠の乱(2/2)」乱とその後
https://note.com/sz2020/n/ne5f961e463e0

 梶原景時と畠山重忠の共通点は「鎌倉殿を支える守り人」であり、違いは「逃げたか、逃げなかったか」であるが、最も大きな違いは「御家人たちに好かれていたか、嫌われていたか」である。梶原景時が討たれて喜んだ御家人は、少なからずいたであろうが、畠山重忠が討たれて、皆、悲しみ、北条時政&牧の方に怒りが向いた。
 北条時政&牧の方はすぐに出家するが許されず、北条義時&北条政子により、北条時政&牧の方は伊豆国北条に蟄居させられ、平賀朝雅は京で討たれて、北条義時が第2代執権となった(「牧氏の変」)。平賀朝雅の妻(北条時政&牧の方の娘)は、京都の公家・藤原国通と再婚した。
 北条時政は、以後、二度と表舞台に立つことなく政治生命を終え、建保3年(1215年)1月6日、腫物のため伊豆国北条で死去した。享年78。 牧の方は、北条時政の死後、京都の娘夫妻(藤原国通)の屋敷に住み、優雅な生活をおくった。(北条時政の13回忌も藤原国通の屋敷で行っている。)そして、寛喜元年(1229年)4月22日に死去したという。享年68(『明月記(断簡)』)。

北条政子(1157-1225)享年69。
牧の方 (1162-1229)享年68。

※宝賀寿男「杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm


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