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畠山重忠の乱(1/2)乱の前

建仁3年(1203年)
10月  3日 武蔵守・平賀朝雅、京都守護として上洛。
10月27日 北条時政、武蔵守・平賀朝雅の代行開始。
建仁4年/元久元年(1204年)
  1月18日 北条時政と畠山重忠が戦うというデマが流れる。
  2月20日 「元久」に改元。
11月  4日 平賀朝雅と畠山重保が京都で口論。
11月  5日 北条政範、京都で病死。
11月  6日 北条政範の遺体を東山に埋める。
元久2年(1205年)
  1月13日 畠山重忠&重保父子の勘当が解ける。
  6月21日 平賀朝雅、牧の方へ讒訴。
  6月22日 畠山重忠の乱。

【登場人物(元久2年(1205年)での数え年)】

北条時政(67) :平氏。鎌倉幕府初代執権。武蔵守代行。
牧の方 (44) :藤原姓牧氏。北条時政後室(年の差婚)。
平賀朝雅(23) :武蔵守。京都守護。妻は北条時政&牧の方の娘。
・稲毛重成(不詳):秩父平氏。妻は北条時政の娘。出家して隠居。
畠山重忠(42) :秩父平氏。妻は北条時政の娘。留守所惣検校職。
畠山重保(不詳):畠山重忠と北条時政の娘の子。
北条政子(48) :北条時政の子。
北条義時(43) :北条時政の子。

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助):母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子) :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)  :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ) :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依) :母・足立遠元の娘
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花) :母・足立遠元の娘
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史) :母・足立遠元の娘
      ├五女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子):母・牧宗親の妹
      └四男・遠江左馬助政範 (中川翼)  :母・牧宗親の妹

【畠山重忠の乱(元久2年(1205年)6月22日)の背景 】

①畠山重忠&重保父子 vs 北条時政&牧の方&平賀朝雅の対立
②北条政子&義時姉弟 vs 北条時政&牧の方&平賀朝雅の対立

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1.北条時政と畠山重忠の対立


■建仁3年(1203年)

10月  3日 武蔵守・平賀朝雅、京都守護として上洛。
10月27日 北条時政、武蔵守・平賀朝雅の代行開始。

 ──相模国と武蔵国を制する者、鎌倉を制す。

 武蔵国は、平安末期は平氏の知行国で、秩父平氏の秩父氏が代々留守所惣検校職(武蔵武士団の棟梁)を務めていた。鎌倉時代の武蔵国は、鎌倉殿の知行国で、秩父氏の嫡流・畠山氏が留守所惣検校職であり、国司は門葉(清和源氏義光流)・平賀朝雅であった。守護は置かれなかった。

  ★歴代武蔵守(鎌倉時代)
  1184年-1195年 平賀義信
  1195年-1205年 平賀朝雅(平賀義信の子)
  (1203年-1205年 北条時政が代行)
  1205年-1207年 ?
  1207年-1239年 北条時房
  ・・・

 平賀朝雅が上洛して京都守護となると、北条時政が武蔵国衙の行政権を掌握した(武蔵守の職務を代行した)。

■『吾妻鏡』「建仁3年(1203年)10月3日」条
建仁三年十月小三日戊戌。武藏守朝雅爲京都警固上洛。「西國有所領之輩、爲伴黨可令在京」之旨、被廻御書云々。

(建仁3年(1203年)10月3日。平賀朝雅は、京都守護のために上洛した。「西国に領地を持つ者は、共に京都に駐在するように」という命令書を出したという。)

■『吾妻鏡』「建仁3年(1203年)10月27日」条
建仁三年十月小廿七日壬戌。「武藏國諸家之輩、對遠州、不可存貳」之旨、殊被仰含之。左衛門尉義盛爲奉行云々。

(建仁3年(1203年)10月27日。「武蔵国に住む諸家は、北条時政に対して背くことの無いように」と(将軍・源実朝は)特に強く命令した。和田義盛が責任者となって触れて回ったという。)

 この時の権力構造は、

知行国主源実朝>武蔵守平賀朝雅>国務代行北条時政>国務在庁畠山重忠

となる。

■建仁4年/元久元年(1204年)
  1月18日 北条時政と畠山重忠が戦うというデマが流れる。

 婿・畠山重忠と舅・北条時政は対立した。
 建仁4年(1204年)1月(2月に「元久」に改元)には、京で「北条時政が庄司次郎(畠山次郎重忠の通称)と戦って敗北し、山中に隠れた。大江広元は既に誅殺されたとのことだ」という誤報が流れ、両者の対立が周知のこととなった。
 学者の解説を読んだ私の印象は、
①京都の公家の間では、北条時政と畠山重忠の不仲は周知であったので、関東乱逆の報を聞いて「ついに戦いが始まったか」と驚かなかった。
②大江広元の誅殺は史実ではない(大江広元が死んだのは嘉禄元年(1225年)6月10日)ので、関東乱逆(北条時政と畠山重忠の戦い)も史実ではない。
であるが、私は、
①京都の公家は、岳父・北条時政と娘婿・畠山重忠は仲がいいと思っていたので、関東乱逆の報を聞いて驚いて日記に書いた。
②大江広元の誅殺は史実ではないが、関東乱逆(北条時政と畠山重忠の戦い)は史実である。
と考えている。

■『明月記』「建仁4年(1204年)正月28日」条
廿八日。天陰。風烈。自京下人等来云。「関東乱逆。時政、為庄司次郎被敗、匿山中。広元、已伏誅。依此事、広元縁者等、騒動。京中迷惑。運雑物」云々。

(天陰る。風烈し。京より下りし人等、来たりて云ふ。「関東で乱逆。時政、庄司次郎がために敗(やぶ)られ、山中に匿(かく)る。広元、既に誅に伏(ふく)す。この事により、広元の縁者等、騒動す」。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991253/184

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