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『明智軍記』を読む。第1話 美濃国守護土岐氏と斎藤氏の系譜及び明智城の落城

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

こう始まる『平家物語』は、「盛者必衰の理」(平家滅亡)を著した物語ですが、軍記物『明智軍記』の冒頭(序文)は、「天道恐るべし」という話です。織田信長も、明智光秀も、天道に逆らったから討たれたのだと。

本文の内容は、小タイトルに「美濃の国の守護の事。付けたり、明智入道宗宿が事」とあるように、美濃国守護・土岐氏の話と、明智城主・明智光安入道宗宿(「宗寂」とも)の話です。実際には土岐氏の話は短く、斉藤道三の話になるのですが、私達が知っている「利政(道三)・高政(義龍)」のことを、「義龍・義興」としており、「道三」は利政の父親・龍基の道号だとしています。(早い話が、名前が1代ずれています。『永源師檀紀年録』でも「信長の室家は、齋藤義龍第五の女也。光秀の室は、齋藤源太の女なる故に縁家なり」(通説では、織田信長室は斎藤利政の長女、明智光秀室は妻木範熈の長女)と、斉藤利政(道三)を義龍としているようです。西野古海編『修身口授用書』(1886年)には「斉藤道三子息竜興」とありますから、斉藤道三は、竜興の親の斉藤義龍になります。

明智城攻めについては、城兵380余人、攻め手3000余人で、8月5日から攻めたとあります。城主・明智光安は、9月25日の夜に宴会を開くと、翌26日に打って出て、散々暴れまくると、城に戻って自害したそうです。(明智城だとされる可児市瀬田の長山城へ行ってみると、落とすのに1ヶ月以上かかるような城には見えませんでした。明智城は、土岐郡(現在の土岐市)の長山城でしょう。)

みの1


『明智軍記』には、「東美濃明智と云ふ所に在城」とあります。現在の地域区分では、東美濃は土岐郡と恵那郡のみで、可児郡は中美濃です。ただ、戦国時代の地域区分は「東美濃、岐阜、西美濃」であって中美濃は無く、可児郡も東美濃なのでしょう。

※『美濃国諸旧記』では、明智城(長山城)は可児郡(現在の可児市)にあったとし、870余人が篭もる明智城に向け、斎藤軍は、9月19日に3500騎で稲葉山城から出陣し、9月20日に落とした(2日間で落とした)としています。

さて、肝心の明智光秀については、

一族を相伴ひ、涙と共に城を出て、郡上郡を経て、越前穴馬(あなま)と云ふ所を過ぎ、偖(さて)、国々を遍歴し、其後、越前に留まり、太守・朝倉左衞門督義景に属して五百貫の地をぞ受納しける。

「明智光安の子・光春、明智光久の子・光忠(明智光安・光久兄弟は自害)等と共に泣きながら明智城を出て、郡上郡(現在の岐阜県郡上市)を経て、越前国穴馬(現在の福井県大野市)を過ぎ、国々を遍歴し、その後、越前国に留まり、国主・朝倉義景の家臣となると、500貫の知行地を与えられた」とあるだけで、残念ながら、いつどこで生まれたとか、明智城の落城までどこで何をしていたか書かれていません。(作者は知らないのでしょうか?)

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