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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第22回)「義時の生きる道」


1.北条義時の館

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 北条義時の館には、鎌倉特有の「矢倉(やぐら)」と呼ばれる横穴(洞)があり、墓や祠が入っている。私はこの「屍倉」が「鎌倉」の語源だと考えている。

 北条義時は、大倉御所の横の「岐(わか)れ道亭」(「大倉亭」とも)に住んでいた。建久3年(1192年)9月25日、鎌倉幕府の御家人・比企朝宗の娘・姫の前(『鎌倉殿の13人』では比奈)と結婚すると、八重との思い出深いこの邸宅を離れ、新築の花亭(現在の「萩の寺」こと宝戒寺(神奈川県鎌倉市小町)付近の「小町亭」)に移った。
 承久元年(1219年)2月13日、三代将軍・源実朝が暗殺されると、北条義時は、大倉御所の近くである大倉亭に戻り、姉・北条政子は、東御所から大倉御所に入って緊急事態に対応した。

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)10月1日」条
建久四年十月大一日甲午。家督若公渡御、江間殿新造花亭。被献御馬、御劔等云々。

(建久4年(1193年)10月1日。源頼朝の嫡男の若公(源頼家)が、(源頼朝の使いで)江間殿(北条義時)の新築の花亭(美しい屋敷。小町亭)に行かれた。馬や剣を献じられた。)

2.源頼朝の上洛


 源頼朝は鎌倉から動かなかった。西へ平家を討ちに行けば、東の奥州藤原氏が攻めてくるし、逆に東の奥州に攻め込めば、西から平家が攻めてくるからである。
 西の平家を源義経が滅ぼすと、源頼朝は、自ら出陣し(文治5年(1189年)の「奥州合戦」)、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして10年に及ぶ戦乱の世が終わり、建久元年(1190年)、ついに上洛を果たした。

■「源頼朝、上洛」 【監修】時代考証・木下 竜馬
 奥州合戦の翌建久元年(1190)11月、源頼朝はついに上洛します。平治元年(1159)の平治の乱で捕らえられ、翌永暦元年(1160)に伊豆へ流刑となって以来、実に30年ぶりの京への凱旋でした。頼朝は、上洛を前に朝廷に対して譲歩や奉仕を行っています。『吾妻鏡』によると、奥州合戦の恩賞を辞退<文治5年(1189)11月6日条・12月6日条>し、さらに相模と伊豆以外の知行国の返還を申し出ます<同12月25日条>。また、後白河法皇の暮らす六条西洞院御所の再建を請け負うなど、経済奉仕も行いました。後白河法皇の唯一の官軍となるため、頼朝は巧みな政治手腕で朝廷と渡り合っていったのです。
 10月3日に鎌倉を出立した頼朝は、25日に尾張国野間で父・義朝の墓所に、27日に母ゆかりの熱田社にそれぞれ参詣し、11月7日に大軍を率いて入京します。そして、入京から2日後の9日、いよいよ日本一の大天狗と評する後白河法皇と対面することになります。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/22.html

3.後白河法皇の崩御


 院御所(法住寺)で政務を執行してきた「日本一の大天狗」後白河法皇が崩御した。

 後鳥羽天皇への遺言。
「守れ」→「承久の乱」で負ける・・・。
「遊べ」←「遊びをせんとや生まれけむ」(『梁塵秘抄』)

■大河紀行(第22回)「奈良県奈良市/京都府京都市」
 かつて南都と呼ばれた奈良県奈良市。平家滅亡後、後白河法皇は南都の復興に力を注ぎました。後白河法皇と頼朝の支援のもと、再建された東大寺・大仏殿。大仏開眼供養の際は、法皇自ら筆をとり、開眼を行いました。
 京都府京都市にある法住寺。後白河法皇は、この地を中心に院の御所を築き、政務を執り行っていました。木曽義仲が院の御所を襲撃した際、命拾いした後白河法皇は、本尊の不動明王に深く感謝をしたと伝わります。後白河法皇の御陵は、法住寺のすぐそばに位置しています。
 源氏と平家、二つの武家勢力の中で朝廷の立場を守り続けた後白河法皇。その遺志は後鳥羽天皇に引き継がれていきました。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/22.html

4.源頼朝の征夷大将軍就任

 「幕府」の定義が「将軍の居住地」であれば、鎌倉幕府の成立は、源頼朝が将軍になった1192年である。
 従来、「源頼朝は征夷大将軍になりたかったが、後白河法皇が阻み、後白河法皇の崩御によって任命された」と考えられてきた。

■『吾妻鏡』「建久3年(1192年)7月26日」条
建久三年(1192)七月大廿六日丙申。勅使・廳官肥後介中原景良、同康定等參着。所持參征夷大將軍除書也。(中略)將軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給。而、法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間、故以及勅使云々。(後略)

(建久3年(1192年)7月26日。勅使・後白河院庁の中原景良と中原康定が鎌倉に到着した。これは、征夷大将軍(への任命)の除書を持参したのである。(中略)(源頼朝は)将軍職について、前々から望んでいたが、未だなれずにいた。しかし、後白河法皇崩御後の最初の朝廷の会議で、特に計らって任じられたので、わざわざ朝廷から勅使の派遣となったそうである。(後略))

 源頼朝が「征夷大将軍」になった経緯については、『三槐荒涼抜書要(さんかいこうりょうぬきがきのかなめ)』に抜き書きされた『山槐記』に詳しく書かれていることを櫻井陽子氏が発見した。その『山槐記』の記事により、源頼朝は「征夷大将軍」ではなく、「大将軍」を希望したが、朝廷(公家)は、「征夷大将軍」「征東大将軍」「惣官」「上将軍」の候補の中から、最終的に「征夷大将軍」を選んで任命したということが判明した。

※『三槐荒涼抜書要』:藤原忠親の日記『山槐記』と、藤原資季の日記『荒涼記』からの抜粋。源頼朝が「征夷大将軍」になった経緯については、『山槐記』「建久3年(1192年)7月9&12日」条にある。

■『三槐荒涼抜書要』「『山槐記』建久3年(1192年)7月9日」条」
山 建久三七九、頭大蔵卿宗頼朝臣、為関白使来曰、「前右大将頼朝申改前大将之号、可被仰大将軍之由、仍被問例於大外記師直、大炊頭師尚朝臣之処、勘申旨如此。可賜何号哉」者。予申云、「惣官、征東大将軍、近年不快(宗盛、惣官。義仲、征東)。依田村麿例、征夷大将軍可宜歟」者。大蔵卿同被問別当兼光之処、申云、「上将軍、征夷将軍之間、可宜歟」之由所申也。予曰、「上将軍者、漢家有此号。征夷大将軍者、本朝有跡之由。坂上田村麿例為吉例。強不可求異朝歟」。

(〔現代語訳〕『山槐記』建久3年(1192年)7月9日。藤原宗頼が関白・藤原兼実の使者として私(『山槐記』の著者・藤原忠親)のところへ来て言った。「前右大将・源頼朝が、前大将の号を変更して、大将軍に任じて欲しいと望んできた。中原師直と中原師尚とに諮問したところ、複数の候補が挙がってきた。どれがよいだろう」と。私(藤原忠親)は、「惣官や征東大将軍が考えられるが、近年は好ましくない。(惣官は平宗盛の例が好ましくなく、征東大将軍は木曽義仲の例が好ましくない。)征夷大将軍は、先例に坂上田村麻呂があり、よろしいのではないか」と答えた。藤原宗頼が同じ質問を藤原兼光にしたら、「上将軍か征夷将軍がよろしいのではないか」と言ったという。私(藤原忠親)は、「上将軍は中国に例があり、征夷大将軍は我国の例があり、坂上田村麻呂の例は吉例である。しいて異朝(異国の朝廷)の例を用いるべきではないのではないか」言った。)

■『三槐荒涼抜書要』「『山槐記』建久3年(1192年)7月12日」条」
 同十二日、大蔵卿宗頼奉関白命伝送曰、「大将軍号事、依田村麿例可称征
夷、而天慶三年以忠文朝臣被任征東将軍之時、被載除目、養和元暦両度為
宣旨。両様之間、宣下之例殊以不快歟。今度可為除目歟。其条可然者、勅
任歟、奏任歟。此三个条、度々外除目并宣下之間事、所見不詳」之由、外記
官所申也。於天慶例者、為奏任、而今度尚可有差別哉。且是天慶忠文、于
時四位参議之上、大将軍者、位在三公之下云々。「仍尚勅任可宜哉」之由、聊有予議歟。予申云、「被任征夷大将軍事、今度尤可被行除目、件官可為奏任歟。天慶例已存之、更不可依本官本位之尊卑、其身雖為四品、被任八省卿
之時、為勅任、其身雖為公卿、被任按察使之時、為奏任、忠文依為四位品
参議用奏任歟」之由、不存者也。有先跡之上、理致如此、但又可在時宜者。去九日、有大将軍号沙汰。予申「征夷大将軍宜」之由。被用申旨歟。
  今夜被行小除目
    征夷使大将軍源頼朝
 後聞、将軍為勅任云々。大外記師直申云、「大外記公忠抄物、観察使可為勅任之由書之、若准之、可為勅任歟」。師尚申云、「按察使書勅任之例、有一両、将軍事、為希代之例、可為勅任歟、先是随形勢申非歟、雖為奏任、別
紙何可軽忽哉。只可依旧跡并理也。忠文以奏任被仰了、如何、観察使者雖
参議、ヽヽ官也、已公卿歟、不可守使字歟、按察使例、定誤之、以一両違
例、不可用之。

(〔大意〕『山槐記』建久3年(1192年)7月12日。藤原宗頼が関白・藤原兼実の命令を伝えに私(藤原忠親)のところへ来て言った。「源頼朝が望む大将軍の号の事は、田村麻呂の先例に基づき、征夷に決した」と。
 その後、任官は、除目か宣旨か、奏任か勅任かと議論され、今夜(7月12日の夜)、小除目(臨時の除目)が行われ、9日に私が推薦した「征夷大将軍」が採用された。後に聞くに、勅任だったという。)

※櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1793
※岩田慎平「頼朝の征夷大将軍就任をめぐる『平家物語』と『吾妻鏡』」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/654/654PDF/Iwata.pdf
※濱田浩一郎「源頼朝は「征夷大将軍」にはなりたくなかった!?」
https://yorozoonews.jp/article/14638704
※本郷和人「源頼朝が征夷大将軍に実は大して関心なかった訳 」
https://toyokeizai.net/articles/-/447322

5.御家人たちの不満


  身のうさを思ひしとけは冬の夜も
       とどこほらぬは涙なりけり (詠み人知らず)

10年に及ぶ戦乱の世(「源平合戦」=1180年(治承4年(1180年)~元暦2年(1185年)の「治承寿永の乱」から文治5年(1189年)の「奥州合戦」まで)が終わり、平和な世になったものの、戦に勝って名をあげ、領地を与えられる機会が無くなった御家人たちの不満が高ぶった。
━━冬も凍らぬ思いなりけり
この身の辛さをよくよく考えてみると、水が凍る冬の夜も滞る/凍ることなく流れ出るのは涙だなぁ。老人は、
「九郎殿は強かった」(千葉常胤)
と思い出にひたるばかりであるが、血気盛んな御家人は、岡崎義実を中心にまとまっていた。

 建久2年(1191年)3月4日、広田邦房の予言通り、火事になり、御所や鶴岡八幡宮が焼けた(「鎌倉大火」)。失火というが、不満をつのらせた御家人による放火ではなかろうか。

6.姫の前(比奈)


妻は、結婚生活を壊したくないので、夫の前では
「夫があなたでよかった。愛してる」
と言っているが、実家に帰ったら。聞くに堪えない夫の不満を言いまくるものである。既にその片鱗が顕れている。

比奈「噂によると、あの方、色恋になるとしつこいらしいんです」
道 「むっつりでしょ。聞いたことある」
比奈「薄気味悪くて」

7.曽我兄弟の仇討ち


 戦の無い世になり、源頼朝は、軍事訓練として「巻狩り」を行った。
 「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」と並び、「日本三大仇討ち」の1つに数えられている「曽我兄弟の仇討ち」は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、「富士の巻狩り」の際、兄・曽我十郎祐成と弟・曽我五郎時致の兄弟(「五郎」「十郎」と聞くと、「五郎」が兄だと思ってしまうが、逆である)が、父親の仇・工藤祐経を討ち、その直後、「名をあげよう」と、源頼朝を討とうとした事件である。

 『鎌倉殿の13人』では、「曽我兄弟の仇討ち」は、源頼朝に不満な岡崎義実が、「曽我兄弟の仇討ち」だとして北条時政(弟・曽我時致の烏帽子親)に兵を出させたクーデター(源頼朝暗殺計画)だとする。

岡崎義実「実はこれには裏があってな」
曽我十郎「狙いは、工藤だけではないのです」
曽我五郎「混乱に乗じて、頼朝を襲います。奴は我が祖父・伊東祐親の恩を仇で返した。頼朝に近い者だけが得をする。あまりに理不尽」
岡崎義実「比企よ、こいつらの言う通りだ。新しい世をつくるため、我らは戦ってきた。ところが、平家がのさばっていた頃と、何も変わらないじゃねぇか」
比企能員「しかし、時政がそのような企みに乗るわけがない」
岡崎義実「そこが面白いところよ。時政は、祐経への敵討ちのことしか知らねぇんだ。まさか北条の兵が、そんなことに使われることになるとは、思ってもいねぇ寸法さ」

・第22回「義時の生きる道」-曽我兄弟の仇討ち(前編)-(2022/6/ 5)
・第23回「狩りと獲物」  -曽我兄弟の仇討ち(後編)-(2022/6/12)

【関連記事】

※富士の巻狩り(1/6)「巻狩りの準備」
https://note.com/sz2020/n/na439548cc8e5
※富士の巻狩り(2/6)「富士の巻狩り」   5月15日、富士野に到着
https://note.com/sz2020/n/n8cb7e369ef6e
※富士の巻狩り(3/6)「源頼家の矢口祭」       5月16日
https://note.com/sz2020/n/n22f426d313ec
※富士の巻狩り(4/6)「山ノ神の出現」   5月27日
https://note.com/sz2020/n/na61432d2a733
※富士の巻狩り(5/6)「曽我兄弟の仇討ち」 5月28日
https://note.com/sz2020/n/n42a499d7419d
※富士の巻狩り(6/6)「鎌倉に帰還」    6月  7日、鎌倉に帰還
https://note.com/sz2020/n/ncd0b1093ed68

※「曽我兄弟の仇討ち」の真相
https://note.com/sz2020/n/nfd33396618a1
※「曽我兄弟の仇討ち」解説動画集
https://note.com/sz2020/n/nb90c166e5edf

【関連番組】

※英雄たちの選択「頼朝暗殺未遂!? 曽我兄弟敵討ち事件の深層」
初回放送日: 2022年6月8日(水)午後8:00
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/WJ6YKXL76Q/


▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・?=平賀朝雅室 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴【溺死】   (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(?)      :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘


▲「13人の合議制」のメンバー

○政所&問注所:文官
【政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元  (栗原英雄)
【外務担当】②中原親能              (川島潤哉)
【財務担当】③藤原(1192年以降「二階堂」)行政 (野仲イサオ)
【訴訟担当】④三善康信              (小林隆)

○侍所:武官(宿老、有力御家人)
⑤【梶原派】梶原平三景時 (中村獅童)
⑥【北条派】足立遠元   (大野泰広)
⑦【比企派】安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧【比企派】八田知家   (市原隼人)    
⑨【比企派】比企能員   (佐藤二朗)
⑩【北条派】北条四郎時政(坂東彌十郎):初代執権
⑪【中立派】北条小四郎義時 (小栗旬):二代執権
⑫【北条派】三浦義澄     (佐藤B作)
⑬【北条派】和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』 (吉川弘文館)       1986/  3/  1
・元木泰雄 『源頼朝』       (中公新書)           2019/  1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/  4/11
・濱田浩一郎『北条義時』      (星海社新書)       2021/  6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』 (NHK出版新書)   2021/  9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』     (講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』      (中公新書)           2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』   (小学館)               2021/12/23
・山本みなみ『史伝 北条政子』   (NHK出版新書)    2022/  5/10

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