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富士の巻狩(5/6)「曽我兄弟の仇討」

■曽我事件 (【監修】時代考証・木下 竜馬)
 建久4年(1193)5月28日の深夜、伊東祐親の孫である曽我十郎・五郎兄弟が、源頼朝の側近・工藤祐経を斬殺する事件が起きました。かつて工藤祐経は、伊東荘をを巡る所領相論などで伊東祐親と対立し、曽我兄弟の実父・河津祐泰を殺害。つまり、工藤祐経は曽我兄弟にとって憎き親の敵でした。
富士野の巻狩りにおいて、20代前半の若い兄弟が父の敵である有力御家人を討ったことは人々を驚かせ、同情と共感を呼びました。事件後ほどなくして、女性の語り部たちが親の恩に報いる美談として語り始めると、箱根権現・伊豆山権現が仏教の唱導の要素を取り入れて書記化。鎌倉後期には、増補と改変を経て真名本の『曽我物語』が成立するに至ります。
しかし「曽我事件」は、単なる親思いの若い兄弟による敵討ちではなかった可能性が高いと考えられています。このとき富士野の現場で討たれたのは工藤祐経だけではなく、多数の御家人が死傷しました。この後、源頼朝による厳しい処断が行われていきます。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/24.html

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■『職人尽歌合』
女めくら 「宇多天皇に十一代の後胤、伊東が嫡子に河津の三郎とて」
琵琶法師 「あまのたくもの夕煙、おのへの鹿の暁のこゑ」

 数多くある仇討ちの中で、「曽我兄弟の仇討ち」が有名な理由は、『平家物語』を琵琶法師(びわほうし。僧形で、琵琶の演奏と共に物語を語った盲目の芸能者)が広めたように、『曽我物語』を女盲(おんなめくら。鼓(後に三味線)の演奏と共に物語を語った盲目の女芸能者。「瞽女(ごぜ)」とも)が「曽我語り」をして広めたからである。

歌人でもあり民俗学者でもあった折口信夫は、昭和の初めに、『曾我物語』が、箱根権現・伊豆山権現を本拠として熊野信仰を広めた瞽女や巫女たちから語り広げられ、語りつがれたものであろうとの仮説を提示しているが、折口の師の柳田国男以来、この物語の成立と流布に、女性の宗教者・芸能者がかかわっているであろうことが、民俗学的方法を採る研究者の間で、指摘され続けている。
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_53.html

『曽我物語』という本は、『平家物語』同様、多種あるが、
真名本:最も古い『曽我物語』で、資料的価値が高い。(東洋文庫)
大石寺本:真名本の書き下し。(小学館新編日本古典文学全集)
仮名本:小説的要素が強い。(国民文庫)
が有名である。
他に子供用の読本や小説もある。
・坂口安吾『曾我の暴れん坊』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42967_34774.html

■広重『曽我物語図会』

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①父親の仇・工藤祐経の居場所を探す兄・曽我十郎祐成は、工藤祐経に見つかり、工藤祐経に「ことの発端は、お前たち兄弟の祖父・伊東祐親による伊東荘の横領である」と説教された上に、舞を舞わされた。(プロ(白拍子の手越宿の少将&黄瀬川宿の亀鶴)の前で舞うのはきついぞ。)

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②兄・曽我十郎祐成は、弟・曽我五郎時致(時宗)と連れて、工藤祐経の居場所に戻るが、工藤祐経はいなかった。恋人・虎に恩が有るという大磯の遊女(一説に虎の妹)に居場所を教えてもらう。

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③白拍子(手越宿の少将&黄瀬川宿の亀鶴)と添い寝していた工藤祐経を探し出して討ち果たした。

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④騒ぎとなって御家人たちと斬り合い、9人倒すが、兄・曽我十郎祐成は、10人目の仁田忠常に討たれた(10番切)。

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⑤弟・曽我五郎時致(時宗)は、事情を報告に(一説に「暗殺に」)源頼朝の寝所に向うが、女装した怪童・五郎丸によって捕らえられた。

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⑥翌日、弟・曽我五郎時致(時宗)は、源頼朝の尋問を受け、「あっぱれであった」と、許そうとしたが、工藤祐経の子・犬房丸が反対したので、斬首になった。その後、曽我八幡宮(静岡県富士宮市上井出)が建てられ、祀られた。
https://www.soga-kamiide.com/

※広重『曽我物語図会』(全30枚)
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/sogabros/gallery/hirosige/

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