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富士の巻狩り(3/6)「源頼家の矢口祭」

1.矢口祭


 辞書には「矢口(やぐち、やのくち)/矢開き」とは、
①狩り場の口開けに、最初に矢を射る行為。
②武家の男子が狩りに出て、初めて獲物(第1に鹿、第2に雀)があったことであり、その獲物を調理し、餅をついて祝う儀式を「矢口祭(やぐちのまつり)/矢口祝い/矢開きの神事/矢開きの祝い」という。
とある。「矢口=矢開き」「矢口祭=矢開き神事」だというのである。(ちなみに『吾妻鏡』「建久2年(1191年)1月5日」条にある「弓始(ゆみはじめ)」は、新年に初めて矢を射ることで、武家の正月神事である。)

 私は、「本来は「初めて狩りに出ること」が「矢開き」で、その時に得た獲物を神に捧げる狩猟神事が「矢口神祭」であったが、混同した」と考えている。(「矢口祭」は「矢口神祭」であって、祭日に鹿の頭を備える諏訪大社の宮司家・守矢家が祀る「シャグジ神」(漢字表記は「社口神」「赤口神」「社宮司神」など多数。「石神」とされるが、山ノ神であろう)に、鹿など、山で獲れた獲物を供える祭りであろう。なお、山陰地方の「矢口神社」は、本来は「八口神社」であり、八岐大蛇関連神社である。)

 武家の「矢口祭/箭祭/矢開き」では、黒、赤、白の3色(黒=毛皮、赤=肉、白=骨の象徴?)の矢口餅(箭祭餅とも)を作って山ノ神(矢口神?)に供え、今後の武運を祈った後、その餅を3人に与えて(神と)三々九度で直会するが、猟師が年頭(正月)に、山ノ神の祠の前で木や草で作った鹿を弓で射る「シシウチ(鹿撃ち)神事」の後、祠に餠を供えて豊猟を祈る祭りも「矢口祭」という。

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)9月11日」条
 建久四年九月大十一日甲戌。江間殿嫡男童形此間在江間、昨日參着。去七日夘剋、於伊豆國、射獲小鹿一頭、則令相具之、今日參入。
 嚴閤備箭祭餠、被申子細之間、將軍家出御于西侍之上。上総介、伊豆守以下數輩列候。
 先供十字。將軍家、召小山左衛門尉朝政、賜一口。朝政蹲踞御前、三度食之。初口發叫聲。第二、三度不然。次、召三浦十郎左衛門尉義連、賜二口。三度食之。毎度發聲。三口事、頗有思食煩之氣、小時、召諏方祝盛澄。殊遲參之。然而賜三口。三度食之。不發聲。凡、含十字之躰、及三口之礼。各所傳用、皆有差別。
 「珍重」之由、蒙御感之仰。其後、勸盃數献云々。

(建久4年(1193年)9月11日。江間殿(北条義時)の嫡男の子供(金剛11歳。建久5年(1194年)2月2日に元服)は、このところ、伊豆国江間に居たが、昨日(9月10日)、鎌倉へ戻った。(金剛が)去る9月7日の午前6時頃、伊豆国で小鹿を1頭を射止めたので、すぐにこれを持って、今日(9月11日)、大倉御所へ参上したのである。
 厳閤(江間(北条)義時)が箭祭(やまつり。矢口祭)の餅(箭祭餅、矢口餅)を供えて、詳しい話をしていると、将軍家(源頼朝)が、西の侍の控え室へやって来た。上総介(足利義兼)や伊豆守(山名義範)ら数人が並び従っていた。
 まず、十字(蒸餅 (じょうへい)のことで、饅頭の異名)が供えられた。将軍家(源頼朝)は、小山朝政を呼び、最初の「一の口」役を与えた。小山朝政は、源頼朝の御前に蹲踞して3度これを食べ、1度目に矢叫び声を上げ、2度目、3度目は声を出さなかった。(将軍家(源頼朝)は、)次に三浦義連を呼び、2番目の「二の口」役を与えた。(三浦義連は、)3度食べて、毎回矢叫び声を上げた。(将軍家(源頼朝)は、)最後の「三の口」役を誰にしようか悩み、少しして諏方祝盛澄(すわのはふりもりずみ)を呼んだが、(前の2人の矢叫び声を聞かれないよう)遅れてこさせた。そして、「三の口」役を与えた。やはり3度食べたが、矢叫び声は出さなかった。おおよそ、饅頭の食べ方は、3度食べるのが礼儀のようだ。しかし、各家に代々伝わる作法には、皆、差があった。
 (饅頭を食べる儀式が終わると、将軍家(源頼朝)は、)「(金剛が元服前に小鹿を射止めるとは、)珍重(ちんちょう。めでたいこと。祝うべきこと)である」と感心された(金剛に言葉をかけた)。その後は、酒を数杯、献杯したそうである。)

 矢口餅(箭祭餅)の食べ方は、「三々九度」(3人が各3口食べる)で統一されているが、小山朝政は1口目に矢叫び声を上げ、三浦義連は毎回矢叫び声を上げた。「どちらが正しい作法であろうか?」と、源頼朝は考え、「矢口神=シャグジ神であれば、諏方家祝(諏訪大社の神職)なら知っているだろう」と(?)諏方盛澄を呼んだ。神の前で大声を出すのは無礼なようで、無言で食した。この結果、「三々九度」は共通であるが、矢叫び声を上げるタイミングは各家(弓道の流派)で異なることが分かった。

※矢叫び(やさけび)/矢哮(やたけび)
①矢を射当てたとき、射手が声をあげること。また、その叫び声。やごたえ。やごえ。
②戦いの初めなどに遠矢を射合うとき、両軍が互いに発する声。やたけび。
③矢口祭(箭祭)で、矢口餅(箭祭餅)を食べて発する声。

 源頼朝の「珍重」とは、「元服前の11歳で鹿を射止めるとは素晴らしい」と褒めたということであろうが、下掲のように、源頼朝の子・源頼家は1年遅れの12歳で鹿を射止めているので、苦々しく思ったことであろう。
 矢口祭は、獲物を得た場所(屋外)で行われる。北条泰時の矢口祭は、伊豆国の獲物を得た場所ではなく、鎌倉の大倉御所で源頼朝立会いの元に行われたことからは、北条氏の地位の高さが伺われる。

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■「教えて! 風俗考証・佐多芳彦さん」
━━「矢口祝い」とは、どのようなものでしょうか?
「初めて狩猟で獲物を射止めました」ということを山の神様に報告する儀礼が、「矢口祝い」です。初めて狩猟をした人をみんなで祝福するのですが、この場を借りて、人間に動物を恵んでくれた山の神様への感謝も行っているんですね。
━━この儀式は、「巻狩り」の際にあわせて行われていたのでしょうか?「矢口祝い」は、「巻狩り」に限らずいろいろなところで行われています。室町時代の資料が残っているのですが、ふつうの2~3人の狩りでも初狩猟の際には山の神様に感謝して行っていたようです。
「巻狩り」と「矢口祝い」は力を入れてできる限り再現していますので、ぜひこのシーンにも注目して、第23回をお楽しみいただければと思います。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/special/column/014.html

 上の写真で、3色の直方体(実際は楕円形で、真ん中で切ると「牛の舌」になる)が「矢口餅」(北条義時が用意)で、山と積まれている饅頭型(蒸してあるので、肉まんやあんまんに見える)のが「十字」(狩野宗茂(工藤茂光の子)が用意)である。
 なお、「できる限り再現」したというが、実際に矢口祭が行われたのは、写真のような屋内ではなく、実際に鹿を射止めた場所(屋外)である。また「矢口餅」が「折敷」の上に置かれている。神饌は「三方」の上に置くのが普通であるが、「矢口餅」は、屋外で食べるので、安定しやすい三脚の献上台の上に置く。(ただし、流派により、作法は異なる。)

※虎屋文庫「源頼朝と矢口餅」
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/087/
※虎屋文庫「源頼朝と十字」
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/006/
※三方:正方形の折敷の下に筒胴(方形角切(すみきり)の筒形台脚)をつけた台。上の写真の右下の榊がいけてある榊立てが置いてある台。筒胴の三方向に眼像(くりかた)と呼ばれる穴があいているので「三方」という。

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