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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第18回)「壇ノ浦で舞った男」

1.源平合戦

(1)屋島の戦い


「悪天候に出航」というのは、知床観光船の例を挙げるまでもなく、危険である。「悪天候をついての出航」は、源義経の「屋島の戦い」と、織田信長の「村木砦の戦い」くらいであろうか。

※「義経の奇襲が有名な「屋島の戦い」の背景と戦況|義経失脚に繋がる逆櫓論争も解説【日本史事件録】」
https://serai.jp/hobby/1063205

(2)壇ノ浦の戦い


「壇ノ浦の戦い」といえば、源義経の「八艘飛び」が有名である。
今回は「壇ノ浦の戦い」をじっくりと描くため、大河紀行は無し。

※「義経の八艘飛び、源平合戦の終幕「壇ノ浦の戦い」の背景と戦況【日本史事件録】」
https://serai.jp/hobby/1063327

「義仲も死に、平家も滅んだ。この先 私は、誰と戦えばよいのか。
 私は、戦場(いくさば)でしか、役にたたぬ」(源義経)

(3)安徳天皇生存説


 『鎌倉殿の13人』の後白河法皇は、
「(安徳天皇は)死んだとは限らん」
と言っていた。安徳天皇の潜幸地は、全国(青森県~鹿児島県)に数多くあるが、特筆すべき潜幸地は、四国&九州の30ヶ所くらいであろう。

※「安徳天皇の最期」
https://note.com/sz2020/n/n22d3f15b2cfd

 安徳天皇御陵墓は全国に17ヶ所あり、その内の1ヶ所を宮内省(現・宮内庁)が御陵墓に、5ヶ所を御陵墓参考地に指定している。

<指定の歴史>

・「安徳天皇御陵墓見込地」(明治16年3月23日指定)→「御陵墓伝説地」
  ①山口県豊浦郡地吉村
  ②高知県高岡郡越知村
  ③長崎県下県郡久根田舎村
・「安徳天皇御陵墓治定地」(明治20年7月25日指定)
  ・山口県下関市阿弥陀寺町
・「御陵墓伝説参考地」(明治21年12月26日指定)
  ④熊本県宇土郡花園村大字立岡字晩免
・「御陵墓伝説参考地」(明治28年指定)
  ⑤鳥取県国分町の岡益古墳(石堂)

※明治16年の見込地以外の陵墓が明治20年に御陵墓に確定されたのは謎であるが、確定後に熊本県や鳥取県の陵墓が追加されたというのも謎である。政治的な理由(地元民の要請)であろうが、なんらかの理由で発掘させないために御陵墓に指定したのかもしれない。(一説に、安徳天皇の陵墓伝説地の数箇所は、邪馬台国の卑弥呼の陵墓伝説地でもあるという。また、超有名霊媒師によれば、邪馬台国の首都は下関市と桜井市にあり、卑弥呼の霊は、「季節毎に往復した(季節によって首都を交替した)」と語ったという。)

<まとめ>

安徳天皇陵(阿弥陀寺陵墓治定地):山口県下関市阿弥陀寺町
安徳天皇陵(西市陵墓参考地)  :山口県下関市豊田町地吉
安徳天皇陵(越知陵墓参考地)  :高知県高岡郡越知町の横倉山
安徳天皇陵(佐須陵墓参考地)  :長崎県対馬市鴫原町久根田舎
安徳天皇陵(花園陵墓参考地)  :熊本県宇土市立岡町晩免
安徳天皇陵(宇倍野陵墓参考地) :鳥取県鳥取市国府町岡益
                             他11ヶ所

※安徳天皇はご遺体は、「壇ノ浦の戦い」の翌日、漁師の網にかかり、阿弥陀寺陵墓に埋められたとされる。「安徳天皇は生きている」「安徳天皇を源義経は殺していない」という話は、安徳天皇や源義経を怨霊にしないための策であろう。

 個人的に興味あるのは、安徳天皇の「わが帯せし剣は清浄の高山に納め守護すべし」という遺言(円福寺伝)により、御剣を納め、剣山大権現を勧請し、「石立山」から改名したという四国の「剣山」(石鎚山に次いで、近畿以西の西日本では2番目の高峰)です。

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 安徳天皇のご遺灰と草薙剣を納めた未知の鍾乳洞があるといわれ、GHQや自衛隊が捜索したようです。上は元海軍大将・山本英輔(ソロモン諸島で「ソロモンの秘宝」の調査を行ったトレジャーハンター)による調査です。(聖書研究家・高根正教が「ソロモン王の財宝が眠っている」として有名になった剣山ですが、日ユ同祖論者は、剣山に隠されているのは、「三種の神器」(「十戒」が刻まれた石版、アロンの杖、「前方後円墳」の形のマナの壺)を納めた神輿の原形である「失われたアーク(聖櫃)」だそうです。)「安徳帝御火葬場」は、栗枝渡(くりしど。安徳天皇が川を渡った場所であるが、「キリスト」の転訛だという)にあり、雪が降っても、そこだけは雪が積もらないそうです。(参考文献:森本徳編著『祖谷の語りべ 安徳帝・平家落人伝説』1993)
※「日本三大秘境徳島・祖谷に伝わる平家落人伝説とは?」
https://rakukatsu.jp/iya-sightseeing-report-vol-1-20210516/
https://rakukatsu.jp/iya-sightseeing-report-vol-2-20210516/
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/53/P133-137.pdf

2.源頼朝と源義経の不和

(1)検非違使自由任官問題


 源頼朝と源義経の仲違いの発端は、源義経の「検非違使自由任官」問題だとされてきたが、現在では否定され、平氏討滅の恩賞として「伊予守」に推挙されたにも関わらず、検非違使にも留任して鎌倉への帰還を拒んだ時点で両者の仲は決定的に破綻したとされる。
 あるいは、源頼朝は、安徳天皇と「三種の神器」を共に得て、後白河法皇に対する政治的取り引きに使う予定だったが、源義経は、平家を倒したものの、安徳天皇を溺死させ、草薙剣を回収できなかったので怒り、これが仲違いの発端になったとも考えられている。
 俗説では、梶原景時の讒言が発端だとする。

※「検非違使自由任官問題と美少女たち」
https://note.com/sz2020/n/n1366f9ee7583

(2)腰越状


 源義経が腰越宿から出した書状。兄・源頼朝の不興を蒙って、鎌倉への凱旋(平宗盛父子の連行)を許されなかった源義経が、源頼朝の誤解を解くために鎌倉幕府公文所別当・中原(後の大江)広元に宛ててその心中を記述した書状である。
 『鎌倉殿の13人』では、源義仲追討の報告が各武将から寄せられてきて、個性あふれる文書であった。そこで源義仲を討ったとする源義経の自筆の(?)文書が紹介されたが、「腰越状」の文字とは一目で異なることが分かる。
源頼朝 「腹がたつのはこっちじゃ。何だこれは。九郎が書いたものではない」
北条義時「そんなはずは」
大江広元「検非違使になられたこと、当家の名誉であり、世にも稀な重職で、これ以上のものはないと書いてあります。されど、鎌倉殿も右兵衛権佐であらせられた」
源頼朝 「わしの官職を、ろくに知らぬ者が書いたことは明白だ。なぜそのような小細工をする」
大江広元「いかがなさいましょう」
源頼朝 「宗盛を連れて、とっとと京に帰れと伝えよ」
謝罪には誠意が必要で、汚い字であっても、自分の言葉を、自分の手で書いた方がいいようだ。
 さて、「源義仲追討の報告が各武将から寄せられてきた」というのは史実ではない。実は口頭で行われた。その時の説明が要領を得なかったのか、メモがなくて重要部分を忘れてしまっていたのか、源頼朝には不評で、源頼朝は、各武将に、今後は、右筆に報告書を書かせるよう指示をした。
 「壇ノ浦の戦い」の報告書(合戦記)をまとめ、鎌倉の源頼朝の元に送ったのは、源義経の右筆・中原信康(のぶやす。『吾妻鏡』の表記は「信泰」)である。

■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)4月11日」条
 元暦二年四月小十一日甲子。未尅。南御堂柱立也。武衛監臨給。
 此間西海飛脚參、申平氏討滅之由。廷尉進一巻記〔中原信泰書之云々〕。是、去月廿四日、於長門國赤間關海上、浮八百四十余艘兵船、平氏、又、艚向五百餘艘合戰、午尅逆黨敗北。

(午後2時頃、南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)が行われた。源頼朝が監臨(その場に臨んで、監督すること)した。
 この時、西海から飛脚が来て、平家を滅亡させた事を申し上げた。廷尉(検非違使尉の唐名。ここでは源義経)は、1巻の記録(中原信泰が書いたそうだ)を進呈した。これには、「先月24日、長門国(山口県)赤間関の海上に於いて、840余艘の船を浮べ、平氏もまた、500余艘の船を漕いで向かってきて合戦となり、昼頃に、反党(平家)は負けた」と書かれていた。)

 「腰越状」は弁慶が書いたとされるが、書いたのは中原信康であろう。
 『鎌倉殿の13人』では、平宗盛が書き、そのお礼もあって、源義経は、規則を破って平清宗に会わせた。

 源頼朝と源義経の仲違いの発端は、俗説では「梶原景時の讒言」とされる。源義経が書いたという「腰越状」には「思外依虎口讒言、被黙止莫大之勳功」(『吾妻鏡』)/「思ひの外に虎口の讒言に依つて、莫大の勲功を黙止せらる」(『義経記』)とある。
『義経記』の梶原景時は、源義経が、
「平家を打ち取りては、関より西をば義経賜はらん。『天に二つの日なし。地に二人の王なし』と雖も、此の後は二人の将軍や有らんずらん」(平家を破ったのは自分だから、私は、平家が支配していた西国の将軍になり、源頼朝は東国の将軍になればいい)
と言ったと源頼朝に報告している。
『鎌倉殿の13人』の梶原景時は、
「あのお方は、天に選ばれたお方。鎌倉殿も同じだ。お二人とも、己の信じた道を行くには手を選ばぬ。そのようなお二人が、並び立つはずはない」
と北条義時に真意を明かしている。
 「両雄並び立たず」という。これは、「同等の力を持つ英雄が2人現れれば、必ず争い、どちらか一方が倒れることになる」という意味であるが、神に選ばれた源義経と源頼朝は、「戦の天才」と「政治の天才」━━異なる分野の天才なので、並び立てると思われ、2人がタッグを組むことを後白河法皇は恐れたのであろうが、梶原景時は「政治の天才」である源頼朝の方を選び、源頼朝に向かい、
「九郎殿は、戦にかけては神がかった強さを持っておられます。しかしながら、才走る余り、人の情というものを蔑ろにされます。壇ノ浦で舟乗りを狙い撃ちしたのが良い例。一ノ谷における奇襲においても、急な崖を馬と共に下りることを皆に強いられました。勝利のためには、手を選ばぬ」
と言った。(一ノ谷では、馬と共に下りる事を強いてないぞ!嘘つくな!)
 実は情けに薄いのは源頼朝の方であり、源義経は、一ノ谷では、人と馬を別々に下ろしたし、平宗盛に平清宗を会わせたし、以前、芋煮をくれた腰越の人には約束を果たした。

※源義経の「腰越状」(原文&現代語訳)
https://note.com/sz2020/n/n99b9aae47a0b

源義経「私は決めた。この先、法皇様第一にお仕えする。京の都で、源氏の名に恥じぬように生きる。私は検非違使尉、源九郎判官義経だ」

▲「13人の合議制」のメンバー

【文官・政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元(栗原英雄)
【文官・外務担当】②中原親能(川島潤哉)
【文官・財務担当】③藤原(二階堂)行政(野仲イサオ)
【文官・訴訟担当】④三善康信(小林隆)

【武官・有力御家人】
⑤梶原平三景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)
⑪江間(北条)小四郎義時(小栗旬)
⑫三浦義澄(佐藤B作)
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・Reco「『鎌倉殿の13人』関連記事」
https://note.com/sz2020/m/md90f1f483984

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館)1986/3/1
・元木泰雄 『源頼朝』(中公新書)2019/1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/4/11
・濱田浩一郎『北条義時』(星海社新書)2021/6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)2021/9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』(講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』(中公新書)2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)2021/12/23

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