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検非違使自由任官問題と美少女たち

源義経  「はっ、検非違使!?」
丹後局  「おめでとうございます」
後白河法皇「わしの思いを、形で示したかったのだ。検非違使になって、京の安寧を守ってくれ」
中原親能 「おそれながら、九郎殿は、鎌倉殿からの任官推挙が出ておりません」
源義経  「私が断りました。官位欲しさに戦をしている訳では無いので」
丹後局  「まぁ、どこまでも健気な九郎殿」
後白河法皇「頼朝は、忘れてよい」

※任官推挙:御家人の任官には源頼朝の任官推挙が必要で、源頼朝を通さずに御家人が直接朝廷に申し込む「自由任官」は認められていなかった。平家追討の論功賞として、源範頼は三河守に任官推挙が、源義経はなぜか任官推挙されなかったので、それを変だと思った後白河法皇が源頼朝を通さずに源義経を検非違使とした。源義経は断ったが、後白河法皇がしつこいので、仕方なく受けたという。(多分、検非違使だから受けたのであって、○○守なら断ったように思う。)源頼朝が源義経を推挙しなかった理由を、『吾妻鏡』は「内々有儀」(内々に儀があったから)とし、私は、源頼朝が「先ずは兄(源範頼)、次の機会で弟(源義経)」「源義経は大きな事をやったが、今回が初戦で、実績が無い」と考えていたからだと思っているが、『鎌倉殿の13人』では「源頼朝は推挙したが、源義経が『任官されたくて戦ったのではない』と言って断ったから」とした。

 ━━源義経と源頼朝はいつから仲が悪くなったのか?

 いつの時代も、仲が悪くなる原因は、コミュニケーション不足である。
 源義経が検非違使(京都の警固役。今で言えば、京都府警のトップ)になって京都に留まり、鎌倉の源頼朝と会えなくなったのが仲違いの遠因であろう。(この点、伊豆国から鎌倉に戻り、源頼朝に田んぼの蛭のようにくっついた北条時政は賢い。)

■『吾妻鏡』「元暦元年(1184年)8月17日」条
元暦元年八月大十七日癸酉。源九郎主使者參着、申云「去六日、任左衛門少尉、蒙使宣旨。是、雖非所望之限、依難被默止度々勳功、爲自然朝恩之由。被仰下之間、不能固辞」云々。
 此事頗違武衛御氣色。範頼、義信等、朝臣受領事者、起自御意被擧申也。於此主事者、内々有儀、無左右不被聽之處、「遮令所望歟」之由有御疑。凡被背御意事、不限今度歟、依之可爲平家追討使事、暫有御猶豫云々。

(元暦元年(1184年)8月17日。源義経の使者が(鎌倉に)到着して申すには、「去る8月6日、左衛門少尉の任官と検非違使(けびいし)の宣旨を受けました。これは、私が望んだわけではありませんが、『度々の戦功を見過ごせないので、当然の朝廷からの御恩(褒美)だ』と言われ、辞退出来なかった」と。
 この事は、頗(すこぶ)る源頼朝のご機嫌を損ねた。源範頼や源義信らの朝臣が受領した事(源義経の任官に先立って、6月5日に、源範頼が三河守に、大内義信が武藏守に、源広綱が駿河守なった事)は、御意(源頼朝のご意向)から起こり、(源頼朝が朝廷に)推挙しての事である、源義経の任官については、内々に儀があり、すぐには推挙しなかったところ、(源頼朝は)「(源義経は)先んじて(自ら)望んだのではないか」と疑った。おおよそ、(源義経の)源頼朝の意向に反する行動は、今度に限ったことではないので、平家追討の追討使とすることは、暫(しばら)く猶予したそうである。)

 以上のように、『吾妻鏡』は、源頼朝は、源義経の「自由任官」(源頼朝に無断で任官したこと、自分で自分を推挙して任官したこと)疑惑で気分が悪くなり、平家追討のメンバーから外したというが、この頃は、まだ仲違いせず、「猶予」とは、
①検非違使の仕事(京都の治安維持)を優先させた。
②源義経が率いて戦った軍を休ませた。
のではないかと思うのです。というのも、『吾妻鏡』によれば、検非違使就任が8月6日ですが、その前の8月3日、源頼朝は、源義経に伊勢平氏の追討を命令しているので、検非違使任官以前から、源義経は、近畿地方の平家追討要員であって、西海遠征要員からは外れていたとも考えられます。また、源頼朝が源義経の検非違使就任を知って「猶予」した8月17日の10日後の8月26日、源義経は、平氏追討使の官符を賜っています。これは、源範頼が平氏追討使の官符を賜った8月29日よりも3日早く、「猶予」とは呼べません。なので、『吾妻鏡』の「元暦元年(1184年)8月17日」条は、仲違いの説明をするための創作でしょうね。

【まとめ】仲違いの発端は、源頼朝が、平家討伐の恩賞として、源氏の棟梁に与えられる「伊予守」に推挙したにも関わらず、鎌倉に戻らず、検非違使を留任して京都に留まり、鎌倉への帰還を拒んだことでしょう。(京都には美少女がたくさんいるからなぁ。)

※「源義経と関係があった女性の数は? 」
https://note.com/sz2020/n/n92129d4ad4db

「伊予守」受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則でしたが、源義経は、後白河法皇の慣例を無視した人事により、「伊予守」就任後も検非違使&左衛門尉を兼帯し続け、九条兼実は、日記『玉葉』に「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いています。仲違いの発端は、後白河法皇!
 当時、検非違使を勤めているのは後白河法皇の側近ばかりですから、検非違使に任命されるということは、後白河法皇の側近になることを意味しています。源義経は、無邪気に喜んでいましたが、源頼朝は、朝廷との交渉役の源義経が、朝廷に取り込まれるのを危惧し、「伊予守にするから、検非違使を辞めて、鎌倉に帰って来い」と指示していたと思われます。出っ歯で、色黒で、背の低い源義経が京都の白拍子にもてたのは、後白河法皇が、源義経を京都に繋ぎ留めるために白拍子に依頼した策だったのではないでしょうか?(とはいえ、静御前を含む5人の白拍子は本気だったようです。)源義経を「イケメン」と讃えるのは、源義経の御霊を悪霊にしないための方策の1つでしょうね。

 なお、俗説では、仲違いの発端は、源義経が平家を討つも「三種の神器」の回収に失敗した事だとする。


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