見出し画像

『鎌倉殿の13人』45「八幡宮の階段」の再放送を視聴

前回は、私にとっては「神回」であった。
今回も「神回に近い回」であったが、WCのおかげで、視聴率は6%に落ち込んだ。
「神回に近い回」と言っても、「ドラマ」であるので、「史実」と異なる点は多々あった。
・三浦朝村は三浦邸にいない。参列していた。
(北条泰時も参列し、三浦朝村の前にいた。)
・公暁は、源実朝を斬っただけではなく、首を刎ねた。
(食事の時も首を持っていた。なお、食事をしたのは三浦邸ではない。)
・源仲章を討ったのは、公暁ではなく、共犯者。
・大江広元は出家しており、坊主。
・京都御所に報告が届いた時、後鳥羽上皇は大阪の離宮、藤原兼子は熊野詣に行く途中の大阪の四天王寺にいて、2人が出会ったのは、藤原兼子が熊野詣から帰ってから。
などなど言い出したらきりがない。「源実朝殺人事件」は重大事件ではあるが、書かれているのは「和田合戦」同様、『吾妻鏡』と『愚管抄』のみといえる。史実を知りたいは、次の記事をお読みください。(現代語訳はサポーターのみとさせていただきます。)

※「源実朝殺人事件『吾妻鏡』」
https://note.com/sz2020/n/n4c71f7785ff3

※「源実朝殺人事件『愚管抄』」
https://note.com/sz2020/n/n3043deedcbb0

「和田合戦」を描いた古文書に『和田合戦記』があるように、源実朝殺人事件を描いた古文書に『承久軍物語』があります。『和田合戦記』も『承久軍物語』も『吾妻鏡』とほぼ同じですが、丁寧に読むと、『吾妻鏡』には書かれていないことが載っているので「おお」と思います。(源実朝殺人事件で言えば、折れた刀を源仲章がどう補修したかとか、「公暁は、源実朝の後ろから迫り、裾の上に乗って1の太刀浴びせて転倒させ、首を刎ねた」のではなく、「公暁の1の太刀は源実朝に笏で防がれたが、2の太刀で首を刎ねた」とか。)

※「源実朝殺人事件『承久軍物語』」
https://note.com/sz2020/n/nef570054dcd2

厄介なのは、「和田合戦」同様、「和田合戦」同様、『吾妻鏡』と『愚管抄』両書に異なる記述があることで、その箇所については、「謎」とされています。(私の説はサポーターのみとさせていただきます。)

※「「源実朝殺人事件」3つの謎」
https://note.com/sz2020/n/n2c144707f11d

■天命に逆らうな。


 歩き巫女は、老人呆け(認知症?)したようで、歩き回り、出会った人には誰彼となく「天命に逆らうな」と言っていたそうですが、真に受けた人が2人いました。源実朝と公暁です。

・源実朝:「歩き巫女の占いは当たる」と言われていた時期に「雪の日には気をつけろ(御所から出るな)」と言われたのに、出てしまったので、八幡宮の階段で死ぬのは予言(天命)に逆らったからだと思った。
・公暁:母親に「生きろ」、源実朝に「一緒に北条を倒そう」(八幡宮の会談)と言われたが、天命(比企尼(の幽霊?)の「北条を許すな」という言葉と、前々からの恨みと計画)に逆らわず、決行した。
・北条義時:源仲章に太刀持ち役を奪われた時には頭にきたが、そのお陰で命拾いした。(『吾妻鏡』では、白い犬を見て気分が悪くなった(八幡宮の怪談)ので、源仲章に太刀持ちを代わってもらったとしていることから、「源実朝殺人事件」北条義時黒幕説が生まれた。)天は北条義時にやらせたいこと(朝廷との戦い「承久の乱/変」)があるのであろう(崇徳上皇の呪詛)。
・北条政子:「伊豆に帰る」と言って北条義時に止められ、自害しようとするもトウに止められた。(未亡人は出家して亡き夫の菩提を弔うさだめである。伊豆に戻るのであれば、鎌倉の守護神となっている源頼朝の墓を伊豆へ移さなければならない。)トウに「殺して」と頼むが、「主の命でしか殺せない」と断られた。(おいおい、善児の殺害は北条義時の命じゃないだろ。)北条義時同様、天は北条政子にやらせたいこと(尼将軍になって鎌倉を立て直すこと)があるのであろう。

■『吾妻鏡』「建保7年(1219年)2月8日」条
建保七年二月小八日乙巳。右京兆、詣大倉藥師堂給。此梵宇、依靈夢之告、被草創之處、去月廿七日戌剋供奉之時、如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間、讓御劍於仲章朝臣、相具伊賀四郎許、退出畢。而、右京兆者、被役御劔之由、禪師兼以存知之間、守其役人、斬仲章之首。當彼時、此堂戌神不坐于堂中給云云。

(建保7年(1219年)2月8日。北条義時は、大蔵薬師堂に詣でた。この堂宇は、霊夢のお告げにより、草創したところ、先月27日の戌の刻(午後8時頃)の供奉の時、まるで夢の如く、白い犬をそばに見てから、気分が悪くなったので、太刀持ちの役を源仲章に譲り、伊賀朝行だけを連れて退出した。北条義時が太刀持ち役であることを禅師・公暁は兼ねてから知っていたので、その役人を見守り(その役人から目を離さずにいて)、(北条義時だと勘違いして)源仲章の首を切ってしまった。その時に、このお堂の戌神はお堂の中に居なかったんだという。)

 大蔵薬師堂の戌神が白い犬に化けて北条義時に近づくと、北条義時は気分が悪くなり、太刀持ちの役を源仲章に譲って退出したので、命拾いしたと言う。非科学的な話である。史実だとしたら、「犬」と呼ばれるトウのような雑兵から「命を狙われている」と言われたということであろう。また、公暁とその一味は、当日、白装束であったと思われるので、「白い犬」とは、その内の1人が裏切った(もしくは最初から北条義時の間者だった)のかもしれない。なお、源実朝が乗る牛車の前を黒い犬が横切り、不吉だとされた。
 とはいえ、以上は『吾妻鏡』ベースの話であり、『愚管抄』では、北条義時は、源実朝に「(身分の低い者はこれ以上は上れないので)中門で控えているように」と言われたとある。こうして警護の兵がいなくなったので、公暁は源実朝を討てたし、北条義時が中門より先に進めなかったのは「身分が低い証拠」「恥」であるので、『吾妻鏡』の編纂者は、「北条義時は体調不良で、その場にいなかった」としたという。

 「源実朝殺人事件」については、「多くの御家人に囲まれている源実朝を、なぜ公暁が討てたのか?」と不思議であったが、御家人が、源実朝に中門でとめられたのであれば、暗殺は可能である。『愚管抄』の作者・慈円は、源実朝が討たれた理由を「源実朝が用心深さに欠けた結果」とした。
「源実朝殺人事件」と重なるのは、元総理大臣暗殺事件である。
・警備計画は完全であったか? 警備の責任者の責任は?
・1発目ははずし、2発目は的中した。その間になんとかできなかったか?
『鎌倉殿の13人』では、警備の責任者は源仲章であり、その場にいなかった北条義時には責任が無いとしたが、北条義時は、源仲章が討たれて、源実朝の救助に向かおうとする北条泰時に「動くな」と言い、源実朝が討ち取られるのを待って、「(公暁を)討ち取れ」と号令をかけたので、責任が全く無いとは言えないであろう。

■権門体制論


「権門体制論」とは、歴史学者・黒田俊雄が提唱した日本の中世国家体制に関する学説で、「中世とは、旧体制である天皇を代表とする政治権門(公家権力)、有力寺社を代表とする宗教権門(宗教権力)、新興の武士による軍事権門(武家権力)の三権門が、三つ巴の対立抗争を行っている社会である」という学説である。

        ┌政治権門:公家    朝廷
治天の君─天皇┼宗教権門:寺家&社家 有力寺社
        └軍事権門:武家    幕府

一方、北条政子&義時姉弟の政治家としてのバランス感覚が導き出した理想の東国支配体制は、

  ┌公家権力(朝廷)   :トップは治天の君・後鳥羽上皇(皇室)
東国┼宗教権力(鶴岡八幡宮):トップは別当・公暁(源氏)
  └武家権力(鎌倉幕府) :トップは鎌倉殿・源実朝(源氏)

だったのではないだろうか。この考えが破綻したのは、源実朝に子供が生まれなかったことであろう。そこで源実朝は、親王(後鳥羽上皇の息子)を鎌倉殿に迎えようとした。
 これに反発した人物が2人いた。1人は北条義時である。反対理由は、源頼朝が源義経を殺害した理由と同じで、朝廷に近づくのを良しとしなかったのであろう。三権分立であって、1つの権力が、他の権力に擦り寄ってはならないのである。

■「源実朝殺人事件」の真実


 もう1人は公暁。反対理由は、武家の棟梁である鎌倉殿が源氏ではなくなることを良しとしなかったのであろう。昨日投稿した「「源実朝殺人事件」3つの謎」には、
・公暁の服装はどんなだったか
・なぜ「親の敵(かたき)はかく討つぞ」と叫んだか
・源実朝の胴塚と首塚はどこにあるか
を載せて、あえて、
・黒幕がいたか、いないか
には触れなかった。
この第4の謎については、
①公暁単独犯説
②公暁実行犯+北条義時黒幕説
③公暁実行犯+三浦義村黒幕説
④公暁実行犯+後鳥羽上皇黒幕説
がある。私が第4の謎を載せなかったのは、①~④は、私が考える「源実朝殺人事件」の真実と異なるからである。「源実朝殺人事件」の真実は、『吾妻鏡』にしろ、『愚管抄』にしろ、1度読めば分かることであり、なぜ「謎」として4つも説があるのか不思議である。『吾妻鏡』にしろ、『愚管抄』にしろ、素直に読めば、「源実朝殺人事件」の真実は分かるし、そのヒントは権門体制論にある。

サポーター向け「源実朝殺人事件の真実」と歴史学者への提言----------------

ここから先は

994字

¥ 1,000

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。